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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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渋谷の都電のりば

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刻々と変りゆく渋谷を最近撮ったのは今年9月半ばで、4か月経った今は更に変化していることでしょう。昔、文化会館の前にあった都電のりばと変りゆく現在とを比較してみました。

50年前にこの都電のりばが消えバスのりばとなったこの一角は、東横線の渋谷駅が地下化される前までは何となく昔のイメージを把握できていた。
ところが、今はもうそんな昔のイメージは消滅して更にわけ分からなくなっていくのだろう。



2018.9.14 バスのりばがあったところにビルが工事中。

東横線の渋谷駅 2013.2.27

都電34系統(渋谷~金杉橋)  1967.12.03

都電6系統(渋谷~新橋)六本木行と10系統(渋谷~須田町) 須田町行



遠鉄奥山線 元城 2

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二回目に訪れたのが1年後の1964年3月で、春の陽を浴びた元城の風景は相変らずであったが最後の年を迎えていた。あれから54年、のどかだった風景の今をgoogleで見ると大都会浜松の一角にのみ込まれてしまった感があります。

撮影:1964.3.23
右手が元城工場の建屋。
線路が前方で茂みの中を左にカーブするところが今も小路で残っている。右手の車庫と工場があったところに今はホテルコンコルド浜松が建っている。


大手通りの踏切を過ぎると元城駅の構内に入る。左の榎本外科が今のホテル車寄せの入り口となる。線路は遠鉄浜松へ向かって一直線に延びた先を右にカーブしている。

元城車庫に休む気動車。

元城車庫に休むモハ1003とキハ1803

車庫から牽き出されたDC1901

渋谷の都電のりば

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刻々と変りゆく渋谷を最近撮ったのは今年9月半ばで、4か月経った今は更に変化していることでしょう。昔、東急文化会館の前にあった都電のりばと変りゆく現在とを比較してみました。

50年前にこの都電のりばが消えバスのりばとなったこの一角は、東横線の渋谷駅が地下化される前までは何となく昔のイメージを把握できていた。
ところが、今はもうそんな昔のイメージはとっくに消滅して更にわけ分からなくなっていくのだろう。



2018.9.14 バスのりばがあったところにビルを建設中。

東横線の渋谷地上駅とバスのりばがあった頃 2013.2.27

都電34系統(渋谷~金杉橋)  1967.12.03

都電6系統(渋谷~新橋)六本木行と10系統(渋谷~須田町) 須田町行


駅・雑踏・トラム 服部一人 作品展

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今日は素晴らしい鉄道写真展を見てきました。
この開催を知ったのが昨日で今日が最終日でした。
https://www.sony.co.jp/united/imaging/gallery/detail/190118/

帰りの電車の中でFBに投稿したのがこの文章。
銀座ど真中で本日まで開催中の服部一人 写真展「駅・雑踏・トラム」。 いや〜今日は大変なショックを受けた。写真家が仕事抜きで趣味の鉄道を撮るとこうなるのか。

服部一人さんは世界を撮り歩く写真家(ドキュメンタリー)で鉄道写真は趣味として撮っているそうで、写真展は毎年開催しているが鉄道写真展は今回初めてだそうだ。

今回の写真展で私はテーマにあるトラムと雑踏(人と街)に惹かれた。
リスボン、ミラノのトラムなどはだれもが狙う定番だがトラム周辺の雑踏のとりこみ方がちがう。そしてハンガリー・ブタペストのトラム風景が多かったような気がする。
もう一度見てみたいが、鉄道写真展はこれっきりで次回は分からないらしい。

日本ではもう難しくなってしまった路面電車が走る街の人々の写し込み、風情ある路面電車、それが欧州では今でも撮れる。もちろん人は威嚇しないカメラで失礼ないように撮る。こんな写真が撮れるのを私は初めて知った。

そうそう、鉄道写真集を準備しているそうで、今回の作品を写真集で見れるようになるそうです。

 会場のソニーイメージングギャラリー銀座
テーマは「駅・雑踏・トラム」





65インチ大型テレビでの4K動画で、ポルトガル(リスボン)、マヨルカ島などどれも風情あるトラムと雑踏(人やクルマ)の動きが活き活きとしていた。素晴らしい鉄道動画。

銀座プレイス6階がソニーイメージングギャラリー銀座
銀座四丁目の一等地にある。

昭和38年 上見附風景

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ネットの京都写真美術館 アーカイブスで見た
安達 浩作品「瞽女 盲目の旅芸人」のモノクロ写真 約80点。

1973年5月、新潟県長岡市、ようやく木々の緑が濃くなり始めたのどかな峠の山道を、三味線を背負って一列になって下って行くその姿に、私はなつかしに似た不思議な感動を覚えた。わが国で最後まで門付けをしていた「長岡瞽女」と呼ばれた彼女たち 家々の戸口に立って三味線を弾いて唄う。迎える村の人々とは、もう長いなじみである。

このような解説を読んで、長岡と1973年に目が留まった。
私が長岡から出ていた栃尾線を訪問したのはこの10年前1963(昭和38)年であった。その10年後の1973(昭和48)年といえば、もはや急速に近代化が進みつつある日本であった。

そんな時代にこのような「盲目の旅芸人」が存在していたことに驚いた。


撮影:1963(昭和38)年3月
どこにでもあった道路の水たまり、上見附駅前の大きな水たまり。

時代を感じさせる駅や周辺の建物。
客車牽引が廃止され総括制御の時代になったのが1970年頃だった
その頃の上見附駅は線路が整理されすっかりシンプルになった。

古びた貨物ホームと周辺の民家。

駅の側線に待機中の車両。

混合列車の入替作業。


近代化後の上見附駅  1975年3月

元三岐鉄道の気動車

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鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐりより
三岐鉄道に在籍していたキハ1~6を整理してみました。
佐久鉄道から来たキハ6のみが正面2枚窓だったのですね。
この時代の搭載エンジンについてはいろんな説がある。

別府鉄道キハ3 別府港 1962年
両端バケット付で原型(佐久鉄道)とはイメージが異なっていた。あの高級真鍮モデルの発売でこれの原型(佐久鉄道)が一気に有名になった気がします。

津軽鉄道キハ2406  五所川原 1966年

津軽鉄道 キハ2404

正面2枚窓
佐久鉄道→国鉄→三岐鉄道キハ6→別府鉄道キハ3→佐久市公園保存

正面3枚窓
三岐鉄道キハ5→別府鉄道キハ2(二代目) 円長寺駅跡保存
三岐鉄道キハ4 転出なし
三岐鉄道キハ3→津軽鉄道2404→上武鉄道キハ2400
三岐鉄道キハ2→津軽鉄道2405
三岐鉄道キハ1→津軽鉄道2406

奥羽本線 糠ノ目駅

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昭和41年3月、奥羽本線はまだ残雪の寒い初春であった。
地方私鉄の多くは国鉄線の接続駅から賑わいのある町まで人や荷物を運んでいた。
奥羽本線の糠ノ目駅から出ていた高畠線のりば何もない殺風景な感じであった。
全国至るところにあった国鉄と地方私鉄の接続駅の風景。

撮影:1966.3.6
 奥羽本線のC57とDF50。 すっかり無視してしまったDF50が写っているのが珍しい。

奥羽本線鈍行列車で北へ向かう

模型のような糠ノ目駅にポツンと停車している小型電車。

こちらは西武所沢工場の再生車で美しい山交カラーに塗られていた。

糠ノ目駅

井の頭線 渋谷駅のりば

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先日、世田谷美術館で見た田沼武能写真展「東京わが残像1948-1964」で最も惹きつけられたのがこの1枚であった。
今や世界から観光客がやってくる渋谷駅前も、こんな戦後の闇市風景から65年ほどで今の渋谷になった。

1948(昭和23)年の渋谷駅前。ハチ公広場の向こうラーメン屋の隣に井の頭線のりば入口が見える。田沼武能写真集「東京わが残像1948-1964」のⅠ頁を撮影

 元玉電渋谷駅と地下鉄銀座線の線路の上にエクセルホテル東急(細長いビル)が立ち、その脇に井の頭線の入り口がある今の光景。2013年撮影

田沼武能写真展で購入した写真集。


雄勝線 西馬音内駅

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私の写真集で使ったこの1枚の写真、最近のfacebookでも使ったのですが、西馬音内駅舎(1971年)を各方向からしっかり撮った方がいらしたのには驚きました。私は西馬音内電車区に目がくらみこの駅舎はオリパスペンで撮ったたったの1枚だけでした。
こんな魅力的な駅舎を何故もっと撮らなかったのか、後悔しきりです。



西馬音内盆踊りも間もなくの8月のある日、お盆休みで西馬音内駅や雄勝線の列車が賑わっていた。 1964(昭和39).8.5


やがてやってきた湯沢行列車の賑わい。西馬音内

雄勝線 ポール電車から内燃動力へ

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すばらしい雄勝線の写真をfacebookに投稿(連載)されたusuiさんからもう少しお借りしました。撮影は1971年8月7日で、1971年7月26日の電化→内燃動力化から半月後になります。

ポール電車から気動車に入れ替わっても電化時代の施設がまだそのままです。これから西馬音内の駅舎や電車区、架線などの施設が徐々に破壊され、廃線に向かって悲惨な光景になっていったようです。

雄勝線の電車時代の風景そのままに気動車との組合わせが楽しめたほんの僅かの期間だったということになるのでしょう。施設破壊前の気動車の雄勝線もポール電車とは一味違ってよきものです。

撮影:usui
 朝、気動車の先頭から見たすばらしい雄勝線風景。ポール電車時代に古典客車のオープンデッキから見た過ぎ去る風景そのままに残されています。う~ん 見とれてしまう1枚です。

 あぐりこ駅

貝沢駅

usuiさんの羽後交通雄勝線訪問記(1971年8月7日)
一番列車で西馬音内へ行く途中に撮影した写真です。三枚目は貝沢駅で停車中の写真です。どうして乗務員さんも外に出ていたのか記憶にありません。遠くを見ているようなので誰か乗る人を待っているのでしょうか?一枚目は朝なので農作業に出掛ける夫婦でしょう。鉄道に関係ありませんが線路際なのでアップしました。二枚目は子供達が待っている、あぐりこ駅に到着を湘南顔の大きな窓から撮影しました。

雄勝線名物あぐりこ駅のこと

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昨日のコメント欄にありました「あぐりこ駅」のことを調べみました。

あぐりこ駅

思い出したのが、鉄道模型趣味92号 昭和31年3月号の「電車訪ねて第53回」 にあったこの記事です。

雄勝線名物あぐりこ駅
当線が全国で長野駅に次ぐ神殿造りと自慢するのが此のあぐりこ駅です。朱色一色に塗られたお宮型の駅舎は、小さいながらも異色ある存在と云えるでしょう。
あぐりことは、当線沿線の雄勝郡三輪村地内にある稲荷神社に祭られた、幻の女狐 “阿久利子"から発した名称で、この “阿久利子"は、其のむかし、村に大いに尽くしたと云われております。部落の名と共に駅名もこれから生まれたわけです。以前の駅舎は普通の平屋の駅舎でしたが、突風によって崩壊し、その後、その名にちなんだ神殿造りにしたそうです。

年に二回、このあぐりこ稲荷神社のお祭りに集まる人々は、近くは福島・山形から遠く北海道に及び、その人出は3, 4万を数えるとか。この時こそ雄勝線の掻き入れ時なのでしょう。話して下さる西馬音内庫区長の工藤氏はニコニコ顔でした。
                              以上

当時から鉄道誌は車両研究が主体でしたが、鉄道模型趣味誌の「電車をたずねて」や「海辺の小私鉄を訪ねる」などの実物記事では車両紹介だけではなく、ローカルカラーを感じさせる豊かな記事で現地のイメージが目に浮かんだものです。


西武新宿線の上井草駅

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上井草 2008.4.30

西武新宿線 上井草~東伏見間の連続立体交差化計画で都市計画素案の説明会がありました。素案では地下化素案がなく高架化素案のみであり、都市計画素案→都市計画案となって、高架化が決まるのでしょう。

最も昔を残すこの上井草の地上駅も撮っておかねばと思いながら乗客に気を使い、中々気に入った写真が撮れません。私は夕方の逆光でホームの乗客を暗くして撮るのが好きです。

上井草 2008年5月

月山と三山線(1) リニューアル

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山形から出ている国鉄左沢線の羽前高松から出ていた山形交通三山線、先日、三山線についてコメントがありましたので画像リサイズし直してリニューアル版とします。
撮影は1971.5.3と5.5

先日NHKBSで放送された百名山 月山

1971年に二回目の訪問をした三山線について私鉄めぐりノートをたどってみました。 
三山線は国鉄左沢線の羽前高松から間沢まで国道112号に沿って走っていた。

左沢から果樹園を抜けて細い砂利道を下ると山形から月山へ向かう国道112号に出た。国道に沿って走る三山線沿線には桃畑が続き、遠くに朝日連峰を望み真っ白な月山も近い。

朝日連峰を望む沿線風景


月山を背に桃畑を行く三山線 1971.5.3

三山線の終点間沢はバスターミナルとなっていて典型的な私鉄終着駅。月山から下って来たバスに春スキー客が数人いた。
国鉄ローカル線から更に小私鉄で繋がれたこの間沢、大変な奥地という印象を抱いていたのだが、山形の西方にある寒河江、羽前高松、間沢などは山形市と道路で結ばれ山形近郊の感じで開けた街であった。鉄道交通だけなら大変な奥地だが、道路を考えると奥地は当てはまらず、ここ数年のクルマの普及で地方の鉄道の時代は終わったのを思い知らされた。

春夏スキーのメッカ月山へ向かうのに、山形から三山線電車に乗って間沢からバスに乗り換える客は衰退し、この時は既にマイカーで月山へ向かう時代になっていた。「歓迎月山夏スキー」の看板は過去の栄光のなごりか。 1971.5.3

客も少ない間沢駅ホームは子供たちの遊び場に。

「竜鉄の歴史を探る」パネル展(第二回目)

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「高校生が探究活動で取り組んだ‥」竜ヶ崎一高のプロジェクト「竜鉄の歴史を探る」。
昨年11月に引き続き、本日、パネル展示会が龍ヶ崎市で開催されました。

今回の会場は龍ヶ崎市歴史民俗資料館で小雨模様の寒い朝で訪問者は少ないだろうと予測したが、開場直後から大変な盛況で地元の方がいかに竜鉄に感心持っているかが伺えた。
冊子「竜鉄の歴史を探る」新訂版 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校編集 が来場者に配布された。

地元高校生による地元小私鉄の歴史研究、展示会開催、冊子発行の活動は大変素晴らしい活動だと思う。指導された小野先生のお話しによると龍ヶ崎の町と鉄道に活気があった昭和30年代末までの懐かしき良き時代に地元市民の関心が高いそうである。

今回のパネル展ポスター→竜鉄の歴史を探る

熱心にパネルを見る地元の方々で大盛況 

前回の提示内容の各部を見直しプリントも鮮明となった。

新訂版冊子34頁「竜鉄の歴史を探る」

会場の 龍ヶ崎市歴史民俗資料館

歴史民俗資料館に保存されている竜鉄4号機

月山と三山線(2) リニューアル

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三山線の終点間沢の駅前食堂でラーメンをすすり、月山へ向かった。
間沢から少し進むと舗装路が終わり谷川に沿った山道に入る。それほど狭くもないごく普通の山道を進むと1時間ほどで一面に視界が開け志津の高原に出た。急にひんやりとした冷気を感じる広漠とした原野であった。
スキー板を載せた東京ナンバーのクルマが何台も止まっている志津の旅館街をぬけ、月山の手前の姥ヶ岳へ登り始めるところに国民宿舎「月山壮」があった。しゃれたロッジ風の宿舎でここで友人と合流し宿泊した。

この15年くらい後に家族と月山へ来た時は新幹線とバスで一気に志津に到着し、三山線もとっくの昔に消え、志津方面へ向かう立派な道路が何本も開通し、あの時に信仰の山「月山」へ向かった雰囲気は全く消えていた。

5月連休中の国民宿舎「月山壮」

月山壮に泊まった翌日は一日雨となり、ここにもう一泊し翌日羽前高松へ下った。この日も陽が差さず、やる気なしで曇天の寒河江川鉄橋で撮ったのがこの写真であった。

白岩-新田 1971.5.5

白岩-新田

白岩-新田 最上川支流の寒河江川を渡る。



月山と三山線(3) リニューアル

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三山線を初めて訪問したのは1966年の3月だった。
東北私鉄めぐりの全てを終えて、秋田で奥羽本線の夜行列車 急行「第2津軽」で上野に向かったものの、郡山で朝を迎えると欲が出てまた奥羽本線を北上し高畠線が出ている糠ノ目で下車した。

先日、ブログにアップした高畠線を撮り終えるとC57の列車に乗車し更に北上、山形で国鉄左沢線に乗換え羽前高松に到着したのは夕方であった。国鉄ローカル線の羽前高松から出ている三山線がどんな路線なのか、旅の最後のオマケに訪問したのだった。
この時は羽前高松近辺での撮影が体力の限界、この先に一体どんな街があるのかは次回の訪問とし、山形に引き返してまた夜行列車 急行「出羽」に乗って上野に向かった。
  
撮影:1966.3.6
奥羽本線の蒸機列車で北上する。

奥羽本線のC57と仙山線のED17が並ぶ山形駅。
ここで国鉄左沢線に乗換えて羽前高松へ向かう。

羽前高松の駅舎 
左沢線の羽前高松で降りると味わい深い小さな駅舎があった。ここから月山の入口 間沢まで、月山の山並みを背に果樹園の中をのんびり走るが、始めて訪問した3月初旬はまだ寒々しい冬の光景であった。

左沢線気動車から降りてきた乗換客。 羽前高松

左沢線羽前高松駅のホームの片隅に「三山電車のりば」の看板を掲げて電車が待っていた。けっこう乗換客がいて電車(モハ110形)に向かっていた。  羽前高松

やがてやって来た小さな電車モハ106。

残雪がある果樹園の脇を間沢へ向かって走り去って行った。 羽前高松


尾小屋の残影1

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オリンパスペンSで撮ったハーフサイズのネガに残された尾小屋の記録で、1977年3月に廃止となったそのずっと以前1964年のことです。

この時代はマイカー普及もこれからで、新小松へ向かう朝の通勤・通学列車はDC機関車が客車を5両も牽いていた。鉱山の貨物輸送はとっくの昔に終わっていて旅客輸送でこの後13年もよく継続したものだ。
朝の通勤・通学時間帯が終わりのんびりと午前の陽を浴びた尾小屋構内をペンで記録した。

撮影:1964.12.30





尾小屋の残影2

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こちらはすべて35mmフィルムで撮影です。

新小松へ向かうキハ2の単行は各集落から少しづつ客が乗車し新小松近くなると超満員となった。明日は大晦日で仕事も休みで正月の買い物に出かけるのだろう。

新小松にある車庫に到着して訪問記はこの線路図で終わっていた。例によってこの後をビッシリ書こうとノートに空白を残してあるのだが50年間そのままで記憶も消えてしまった。この日は小松に泊まらずこの後金沢へ向かったので車庫でたいしたことも無かったのだろう。

 撮影:1964.12.30
尾小屋からやってきた列車DC122+ホハフ3+ホハフ6。 新小松-西吉竹

ホハフ3とホハフ6  新小松

発車待ちのキハ2。 貨物線に国鉄貨車が停まっている。新小松

 新小松に到着すると昼食も抜きにして庫内の5号蒸機を引き出してもらい、気が済むまで同じような写真を撮り続けた。協三工業製の蒸機は産業機関車風だが貴重なナローの蒸機であり大満足。駅の人は親切で車両竣工図集まで頂戴した。

ボンネットバスが並ぶ車庫のすぐ脇を走る北陸本線「雷鳥」

中々魅力的なホハフ3。 新小松

ワフ4

 キハ1とキハ2

ハフ3

尾小屋の残影3

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35mmフィルムとは違ってオリンパスペンSで撮ったハーフサイズには独特の雰囲気が写っていることがよくある。スキャニングの取りこぼしコマがあるのも楽しいもので、改めてスキャンして拾い集めてみました。

新小松で撮ったものは残念ながら駅舎や人などはなく、多くは模型製作のための車両の断片であるが、当たり前の形式写真よりも面白いものがある。

撮影:1964.12.30  新小松
新小松の車庫風景

あの木造客車の内部はこんなだった。
ホハフ8点描

ホハフ8 (これのみ35mmフィルム)
ホハフ1

車両工場用の台車

キハ1のエンジン

魅力溢れるナロー蒸機の足回り

尾小屋の残影4

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車両の各部さまざま。

キハ1

キハ1
 
キハ1の台車


 ホハフ3

ホハフ5

ホハフ6
ホハフ3+ホハフ6

ハフ3
 
ハフ3
ハフ3

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