山形交通尾花沢線は過去に記事3本アップしましたが、第1回目がブログスタートの直後であれから早や5年、今ではGoogleブログBlogger の環境も大きく変わりました。当時のケチケチサイズの画像も大型化し再編集してリニューアルいたします。
跨線橋から見た看板と尾花沢線のりば 1964.08.05
昭和39年の夏、ガンガン照りの太陽の下、奥羽本線大石田駅に降り立つと国鉄駅の端に歓迎 仙境のいで湯♨ 銀山温泉 の看板が見えそこに山形交通 尾花沢線のりばがあり、見たことないような愉快な列車がやってきた。
構内入替機のような小さな機関車がガソリンカー崩れのボギー客車1両と有蓋貨車1両を従えた素晴らしい混合列車であった。こんな愉快な混合列車がこれから花笠踊りで賑わう夏の尾花沢へ、そしてバス乗り継ぎで銀山温泉へお客を運んでいた。1960年代はこんな貴重な光景を見る事ができた時代であった。1970(昭和45)年9月廃止。
今の銀山温泉そして尾花沢については「夢遊仙人」さんのHP日本の街歩きに
「銀山温泉と尾花沢」の見事な旅日記があります。
DB151 小さな機関車の運転室内は蒸し風呂だったでしょう.
小さなDBとは言え軽便に比べると3'6''ゲージで車幅がでかい.
尾花沢から戻ってきた混合列車は牛車のごとくのろかった. 大石田
客車のカラーリングはピンクとマルーンの塗り分け(山形交通カラー)
客車のカラーリングはピンクとマルーンの塗り分け(山形交通カラー)
尾花沢市街
あの夏の日の出来事を旅日記を読み返してみると、新庄で乗った準急が大石田に到着すると尾花沢線のホームに列車は居ず30分以上も待たされたから始まっていた。
ホームにいた客は我々以外は1人だけ、この尾花沢へ向かう客と話をしていたら東京の水不足に驚いていた。やがてやってきた列車は定刻よりだいぶ遅れて発車したが、昨日乗った仙北鉄道に比べるとおそろしくのろくて、軽便よりのろい列車だった。沿線はほとんどが田んぼで尾花沢の近くになると木立が現れ少しは変化のある風景になってきた。車内のシートはほぼ満員で我々より後の国鉄列車で大石田に着いた乗換客であろう。あっという間に到着してしまう尾花沢は家が多くやはり大きな町で奥羽本線大石田は町外れであったことが良くわかる。
ホームにいた客は我々以外は1人だけ、この尾花沢へ向かう客と話をしていたら東京の水不足に驚いていた。やがてやってきた列車は定刻よりだいぶ遅れて発車したが、昨日乗った仙北鉄道に比べるとおそろしくのろくて、軽便よりのろい列車だった。沿線はほとんどが田んぼで尾花沢の近くになると木立が現れ少しは変化のある風景になってきた。車内のシートはほぼ満員で我々より後の国鉄列車で大石田に着いた乗換客であろう。あっという間に到着してしまう尾花沢は家が多くやはり大きな町で奥羽本線大石田は町外れであったことが良くわかる。