嘉永7年(1854年)ペリー艦隊横浜来航時に横浜に持ち込まれた蒸気機関車は大型模型だが日本人が初めて見た蒸気機関車となるでしょう。この時の蒸気車の絵はあまりにも有名ですが、その原本となるのは現場で写生した絵で、それを元に色付け加工した模写がいろいろ出回ったそうです。↓も色付けされた模写と考えられる。
蒸気機関車の大型模型は、嘉永7年(1854年)2月15日にほかの品々とともに陸揚げされた、そして翌16日、横浜村に設置された敷地にレールが敷かれた。その後、23日に幕府応接掛や多くの日本人の前で運転が行われた。*2松代藩藩士 樋畑翁輔の*1遺稿を元にした「米国使節彼里提督来朝図絵」に汽車模型として描かれており、上の絵は樋畑翁輔が描いたものの模写と考えられる。
上の絵と解説要約は、真田宝物館特別企画展の冊子「松代藩と黒船来航」編集発行:長野市教育委員会他 からの引用。
「米国使節彼里提督来朝図絵」は
松代藩 樋畑翁輔の遺稿を息子 樋畑雪湖が編集した冊子で昭和5年に上梓された。
絵は全て白描画で色彩を伴わず筆線のみで完成された絵である。
ペリー来航時の様子を記録した樋畑翁輔の遺稿(写生絵)、その遺稿を息子雪湖が冊子「米国使節彼里提督来朝図絵」にして残した。では翁輔の遺稿は発見されたのか、翁輔の遺稿を雪湖はいったん書き写して15m絵巻物にしてそれを原稿にしたのか、などを調べてみたい。
*1遺稿: 未発表のまま死後に残された原稿のこと。
*2ペリー来航時の松代藩の二つの役目
1.横浜応接場の警衛。
2.松代藩の二人の絵師を参加させ当時の状況を克明に描き絵に遺した。
上の絵と解説要約は、真田宝物館特別企画展の冊子「松代藩と黒船来航」編集発行:長野市教育委員会他 からの引用。
「米国使節彼里提督来朝図絵」は
松代藩 樋畑翁輔の遺稿を息子 樋畑雪湖が編集した冊子で昭和5年に上梓された。
絵は全て白描画で色彩を伴わず筆線のみで完成された絵である。
樋畑雪湖の「米国使節彼里提督来朝図絵」にある蒸気車の絵(白描画)
樋畑雪湖の「米国使節彼里提督来朝図絵」昭和 5年上梓
ペリー来航時に日本で初めて見るものが多数白描画で記録されている。
ペリー来航時に日本で初めて見るものが多数白描画で記録されている。
ペリー来航時の様子を記録した樋畑翁輔の遺稿(写生絵)、その遺稿を息子雪湖が冊子「米国使節彼里提督来朝図絵」にして残した。では翁輔の遺稿は発見されたのか、翁輔の遺稿を雪湖はいったん書き写して15m絵巻物にしてそれを原稿にしたのか、などを調べてみたい。
*1遺稿: 未発表のまま死後に残された原稿のこと。
*2ペリー来航時の松代藩の二つの役目
1.横浜応接場の警衛。
2.松代藩の二人の絵師を参加させ当時の状況を克明に描き絵に遺した。