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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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昭和39年の阪急京都本線

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1964(昭39)年、この頃の阪急電鉄の正式名は「京阪神急行電鉄」であった。
子供の頃によく本で見て憧れた新京阪、P6、桂 のデイ100を訪ね、京都本線の沿線を歩いたのは確か桂近辺であったと思われる。
一面のどかな京都郊外を走るデイ100の余生を見て、よくぞこんな豪快な画期的名車を生み出したものだと関西大私鉄に感心したものだった。デイ100は1973年に全廃されたそうである。
                                                                   撮影 桂近辺  桂-東日向町 1964.07.10

天神橋発京都行きデイ100形136 (1927~1929年に73両製造)

京都発天神橋行き デイ100形127

天神橋行き デイ100形134

特急2枚看板の梅田行き 710系714 (1950年より14両製造)

710系714  桂駅

高性能車2300系 (1960年~1967年に78両製造)
新製から50年あまりを経過しても第一線で走り続けているのは驚異的といえるが、そこには、きっちりとしたものを造って長持ちさせるという関西人の哲学が感じられる。 「鉄道ダイヤ情報」2012年12月号より。

2300系


京阪京津線 雨の京都三条通

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京阪電鉄淀屋橋行き流電1100型.向こうに京津線の電車が見える. 三条 1964.07.10

京阪に乗り入れた近鉄430型.  三条
430型は近鉄京都線の前身奈良電鉄が開業時に用意したデハボ1000型、
近鉄車による奈良から三条行きが運転されていた.

三条駅の出口案内には「浜大津行方面⑤ ⑥ ⑦番のりばへ」とある.

阪急京都本線の次に向かったのは京阪電鉄で、写真に写った表示板からすると駅は「三条」であった。京阪の三条駅には京阪の流電1100型や元奈良電など変化に富んだ電車が並ぶ時代であったが、撮っている私はそんな楽しさに気付かなかった。
目指すのは三条の京阪のホームの先に小さく見える電車で、京阪京津線はここから発車していた。雨の京都三条通を行く光景はさすが京都らしく、古い路面電車タイプの50型、70型が三条通によく似合っていた。


三条駅を発車するとすぐ右へカーブし三条通へ入る.

三条通を浜大津へ向かう.

雨の三条通 「いろは館」の前を行く




古い路面電車タイプの50型、70型が似合う三条通の光景.

あの頃の小田急

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雨の京都三条を撮ってから、京都22:28発の夜行急行「第2いこま」で東京に戻った。
この年(1964)の10月には東海道新幹線が開業している。
阪急京都本線でP-6や710、2300など関西大私鉄を見た数日後、あの頃の小田急はこんな風景であった。
小田急では幅広のNHE車2600形(1964年11月~)の入線直前の頃でHE車2400形が主力であった。

緑多き自然豊かな喜多見駅   1964.07.14
芋畑の向こうに三角屋根の駅舎が見え、下りホームの裏は林に囲まれた静かな住宅地.
現在の駅はコンクリート城壁のような無機質な高架駅になってしまった.

昭和34年に登場したHE車2400形
あまりに頻繁に来るのでまるでD51のように無視するがこと多かった.

2320形 準特急用2扉→3扉へ改造後

特急1700形第3次編成の格下げ車. 特急時代は前面2枚窓であった. 喜多見-狛江

平凡で特徴のない1600形 喜多見-狛江

昭和29年に登場した初のカルダン車 2200形  鶴川-玉川学園前

昭和2年開業時の遠距離用で昭和31年に更新された1200形.  鶴川-玉川学園前

消えた西武池袋線の101系運用

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先月初めには西武池袋線で2本が走っていた101系。
12月に入って朝の所沢駅ホームの表示を見ると、いつもの時刻に3ドアの表示はなし。
やはり11月30日を最後に101系の運用が終わったのは本当だったようだ。
西武で101系なき後、私には精悍な2000系増結用2連を撮るしかない。

日常の101系 お別れカット. 池袋線 元加治-飯能  2012.11.07
大きく引寄せたカットはいつもその場で消去してしまうのだが・・・

2000系クモハ2401形 新宿線 東伏見-武蔵関 2012.12.05
 2丁パンタのクモハとクハの増結用2連.

本日の西武「さよなら101系イベント」

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本日は「さよなら101系イベント」の第一会場となる西武球場前駅に行ってきました。
西武球場前の駅前は朝9時から発売の「さよなら101系・301系記念乗車券」を買い求めるファンが長蛇の列。記念乗車券を買って暫くすると西武園発の「101系さよなら運転ツアー」の列車がやってきました。

西武球場前駅に並べられた101系と301系の撮影会は大フィーバであった。
西武101系の人気というより今の鉄道イベントの人気がいかに高いかということなのでしょう。
展示車両は301系8連と「さよなら運転ツアー」101系2+2+2編成であった。  2012.12.09

西武球場前駅の撮影会は大盛況

101系のおいしいところもこれが撮り納め
青空に突き出した2丁パンタ
クモハ同士の連結面
クモハ同士の連結面


「101系さよなら運転ツアー」の101系(281F+285F+271F)と
池袋発臨時直通快速301系8連

301系8連と101系2+2+2編成にカメラの放列   クリックで拡大

クモハ272に向けられるファンの熱狂ぶり

「101系さよなら運転ツアー」の101系2+2+2編成   西所沢

狭山線から本線(所沢方面)へ侵入し、101系2+2+2編成の車体がクネクネとうねる.西所沢

横瀬へ向かうパンタ6丁の101系2+2+2編成.  仏子
全力で駆け抜ける6両オール電動車のモータ唸り音が印象的であった.
カメラを向けた子供達もこの一瞬は一生の思い出になることでしょう. 
西武101系もこれが見納めとなるか?

あの頃の小田急

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1964(昭和39)年11月に通勤型4ドア幅広車体のNHE車2600形が入線した翌年1965(昭和40)年の風景。
白に青帯のカラーリングになる前の小田急カラー時代で、電車も沿線風景も昔ながらを残していた。

NHE車2600形  世田谷代田-下北沢   1965年2月

1400形  世田谷代田-下北沢

環状七号線の上を行く気動車  梅ヶ丘-世田谷代田

新聞輸送車1600形 東北沢

多摩川鉄橋を行く1200形+1400形.  登戸-和泉多摩川

特急用1700形の格下車

国鉄ロクサン改造の1800形20m車

幅広NHE車2600形  鶴川-玉川学園

まるで地方私鉄のような沿線風景の鶴川-玉川学園間を行くNSE3100形(昭和38年登場) 

国鉄御殿場線乗入れ気動車5100形5102  鶴川-玉川学園

山形交通高畠線1 終点二井宿

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山形交通高畠線を訪問したのは1966(昭和41)年まだ残雪のある3月であった。
高畠線は奥羽本線の糠の目(現在は高畠)から沿線の中心部高畠を通り新井宿まで走っていた。この訪問から半年ほど経った昭和41年8月に台風で屋代川が増水し橋梁が損傷し高畠~二井宿間が休止となってしまった。残された糠の目~高畠間が昭和49年11月の廃線まで走っていたが、先に休止となった高畠~二井宿間は閑散区間らしい風情があった。


終点二井宿の駅  1966.3.6
駅の背後に山が迫りここで線路が終わっていたがこの先へ更に山岳路線を延ばす計画があったようだ。

ひと気のない終着駅、電車の客もまばらであった.

二井宿の駅前には集落があったが、あたりはひっそりとしていた.

ひなびた駅に似合う小さな電車

二井宿から線路に沿って一駅歩いてみた.
二井宿を発車した糠の目行きの電車


山形交通高畠線、ここも小ブログの初期に紙焼プリントを数枚スキャンしてアップしただけであり、今回、初めてネガをスキャンして新規にアップしました。以前にアップした記事は抹消します。

山形交通高畠線2 モハ1が走る風景

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二井宿駅のモハ1


上駄子町-二井宿   1966.3.6
二井宿を出発した電車は暫く七ヶ崎街道に沿って走る


上駄子町-蛭沢
山間を右へカーブしてやって来た糠ノ目行電車はひと気のない蛭沢駅に到着する
ただ土を盛っただけのような小さなホームがある蛭沢駅


竹ノ森-高畠. 高畠から糠ノ目まで平坦な光景が続く


山形交通高畠線3 石造りの高畠駅 

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高畠駅  1966.3.6
閑散区間を走ってきた小さな電車モハ1が高畠につくと、一変して乗客で賑わってきた.
背後に石造り(高畠石)の立派な駅舎がみえる.

3ドア車は高畠止まりで糠ノ目~二井宿間を小さなモハ1が往復していた.

高畠止まりの電車

山を背後にした高畠駅の全景. 車両も興味深いものが多く素晴らしい光景であった.

高畠駅構内  左手に工場引込線があり貨車が多い.


石造りの駅と名物電機


山形交通高畠線4 糠ノ目駅

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糠ノ目駅に到着したモハ1   1966.3.6

高畠線の基点である奥羽本線糠ノ目駅に電車が到着すると、乗客は隣にある奥羽本線のホームへ向かって行く。国鉄の駅の脇に「○○線のりば」の看板を掲げたホームがあって、そこにひなびた電車が1両ポツンと客を待っている・・・こんな地鉄乗換え駅光景は当時どこにでも見られた。
奥羽本線糠ノ目駅もそんな典型的な地鉄乗換え駅の光景で、「山形交通 高畠線のりば」の看板を下げた小さなホームにモハ1がお似合いで、隣の奥羽本線にはC57の旅客列車が走っていた。まるで模型のような情景が当たり前の時代であった。

高畠線の乗客は、やがてやって来た奥羽本線の蒸機列車に乗換える. 糠ノ目

ひと気の無くなったホームで乗客を待つモハ1

奥羽本線糠ノ目駅ホームから見た山形交通高畠線のりば
背後に白銀の山並みが見える

3ドアのモハ4とED2

山形交通高畠線5 高畠線の車両

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モハ1  高畠 1966.3.6
 高畠線電化時に購入された昭和4年日車製デハニ1. その後西武所沢工場でモハ1に改造

モハ2
モハ1と同形の昭和8年日車製デハニ2で、昭和37年所沢工場でモハ2に改造.

モハ3  元西武多摩湖線のモハ101形で、元々は所沢工場でクハ1114として製造された.
山形交通三山線、羽後交通雄勝線、豊橋鉄道渥美線でも同形を見ることができた.

モハ4
元西武の川崎造船所製クモハ156で昭和41年2月に入線.
写真は入線翌月でマルーンと桃色に塗り分けられた更新車はまるで新車のようであった.

ED2 元鳳来寺鉄道のデキ50で大正14年英国EE社製

ED1 昭和4年の電化時に川崎車両から購入しその後西武所沢工場で更新改造.

ハフ3 元国鉄のホハを昭和28年に払下げを受けた明治44年日車製
ラッシュアワーに使われたそうだ.

ハフ1 開業以来の生えぬきで大正11年日車製

ハフ2  一本柳

O番ナロー 下津井電鉄モハ101+クハ21

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モハ101+クハ21   下津井車庫  1962(昭37)年7.29

下津井電鉄モハ101+クハ21のこと。
元ガソリンカーの改造車ではなく下津井電鉄初の新造車で両端運転台であったが、昭和37.8.29認可で編成の固定化を図って連結面の運転室を撤去して客室を延長。更に昭和38年8.12認可で貫通路・貫通幌を設けた。 (鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第6分冊より)

この記述から写真を撮った昭和37年夏は連結面の貫通化はまだ着手前であったことになる。ツートンカラーは昔からのチョコレート色と窓回りクリームで正面は湘南式塗り分けではなかった。

こんな貫通化以前のモハ101編成を模型化進行中なのが下の写真で、先日初めて見学した「機動楽会」運転会で会員の方が出品されていました。今回で何と発足47周年にもなる「機動楽会」で、大先輩方のOJ作品(国鉄主体)と並んだ異色のO番ナロー軽便電車でした。

「機動楽会」運転会 下津井電鉄O番ナロー(製作途上)  2012.12.15

OJ 1/45(24mmG)と、O番ナロー1/45(16.5mmG)の体格比較.
尺度1/45に揃えることでナローの楽しさが生まれる.

本日のさいたま鉄道模型フェスタ2012

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KIHA ペーパーシートシリーズ CABを見に大宮へ行ってきました。
地方私鉄の気動車を主体に1/87 1/80でシートと車体組立済が用意されていて、地方私鉄の車体がペーパーでこれほど多く発売されているのを初めて知りました。

気になるナローは仙北キハ2406、遠州鉄道キハ1803、静岡鉄道木造片ボギーの3タイプを1/87、1/80で用意。そして遠州鉄道キハ1803、静岡鉄道木造片ボギーの2タイプはO番ナロー1/48、1/45で用意され、O番ナローに1/45があるのが嬉しい。
シートは展開図をプリントしたペーパシートで、自分でカッターナイフで窓を切り抜き、接着剤で組立てる昔よくやったペーパー工作が楽しめる。

完成品車体の展示 2012.12.22

O番ナロー1/45 遠州鉄道奥山線キハ1803の車体

O番ナロー静岡鉄道片ボギー車の1/48と1/45の車体

巨大軽便 駿遠線の新藤枝駅

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東海道線の新藤枝から袋井まで何と60.7Kmも走っていた巨大軽便 静岡鉄道駿遠線。
1964年9月には堀野新田~新三俣間が営業廃止となり新藤枝側と袋井側に分断されてしまった。

1964年3月25日遠州鉄道奥山線の帰りに立寄った時は、まだ分断前で大手までの支線も健在で、新藤枝駅では次々と列車が発着し、これが軽便とは思えない賑わいであった。
新藤枝駅の3番線に発車待ちしている袋井行きのサボをつけた気動車を見つけたが、袋井まで60.7Kmも走破する巨大軽便もいよいよ路線の分断化を迎えていた。

1~3番線まであった新藤枝駅の光景はいかにも巨大軽便であった.
左の1番線が大手行、2、3番線が袋井方面行のホーム.

3番線の袋井行列車はこれから軽便線を60.7Kmも走る.新藤枝 1964.03.25

編成はキハD8+ハ12  新藤枝

この時は鉄仲間5人で、誰もがこの列車に乗って袋井まで乗車するかどうか迷ったが、乗車したのは一人だけ、あとの4人は天候に嫌気をさして東京へ引上げてしまった。もしこれに乗っていれば大変な体験ができたことだろう、ちなみに袋井までの所時間は約2時間。

新藤枝~袋井まで線路が繋がっていた時代.

新藤枝駅の3、2、1番線ホーム

キハD7が牽く列車が発車して行く

大手行きのキハD10(旧赤穂鉄道 カ6)

ハ12
ハニ1
ハ114 (旧草軽ホハ30)
何に使われていたのか異色のDB606

駿遠線は車両のタイプ、台数が軽便としては桁違いで巨大軽便の車両写真を整理するのは容易でない。

巨大軽便 駿遠線の袋井駅

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巨大軽便駿遠線でもう一方の東海道線接続駅となるこの日の袋井駅はこんな風景であった。
新藤枝~袋井全線走破の列車には乗車しなかったが雨の中を新藤枝と袋井に寄っていた。

駿遠線から東海道線へ乗換える乗客も意外に多かった. 袋井 1964.03.25

東海道線の脇に並んだ小さな軽便

東海道線袋井駅の隅っこから次々と発車して行く小さな軽便

雨に煙る袋井駅. 発車する車両が様々で飽きることのない大軽便の光景.


新藤枝側と違って袋井側では蒙古の戦車が盛んに活躍していた.
DB609とDB608
DB608
DB609
DB607


関東鉄道常総線のこと

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東京に近い非電化私鉄、関東鉄道常総線には未だに撮りに行ったことも乗ったこともないが
何かのついでに撮ったことがあった。時代により鉄道名は変化し、その経緯を調べてみると、

1945年 常総鉄道と筑波鉄道が合併し常総筑波鉄道となる。
1965年 常総筑波鉄道と鹿島参宮鉄道が合併し関東鉄道となり
 常総線、筑波線、鉾田線、竜ヶ崎線があった。
1979年 関東鉄道から筑波線、鉾田線が分離独立して筑波鉄道、鹿島鉄道となり
 関東鉄道は現在の常総線と竜ヶ崎線になった。


関東鉄道常総線の大田郷駅  1970.05.24

大田郷駅
地元では『内山街道』と呼ばれる古河・下館(県道124号)線を車で走ると大田郷駅近くで踏切を渡るが、列車に出会うことは滅多になかった。たまたま来た列車を撮ったようだ。かってこの駅から常総関本まで砂利採取線の鬼怒川線が1964年まで走っていた。

大田郷付近をのんびり行く  1970.05.24

常総筑波鉄道常総線の取手駅  1962年3月
寒々とした風景で、駅には蒸機時代のなごりか水タンクらしきものが見える.
常総ニュータウンの建設開始が1971年で、東京通勤時代到来はこのずっと後になる.

小山機関区

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明けましておめでとうございます。
今年も「地方私鉄 1960年代の回想」をよろしくお願い致します。



元小山機関区所属 C50123  小山市駅東公園
 
年末30日にお掃除会のみなさんにより奇麗になった保存機.  2012.12.30

年末に小山のC50に会い、そして42年前の懐かしい小山機関区の扇形機関庫跡を訪ねてみました。
昔ここに小山の扇形機関庫があった. 2012.12.30

あれから42年、小山駅と水戸線の今.
小山駅はすっかり変わり、C50が活躍していた貨物ヤードも廃墟になっていた.

42年前の水戸線列車と入替用C50108. 1970.05.24
背後の小山駅はまだ新幹線開業前ですっきりしていた.

小山の扇形機関庫  撮影 moro9さん

木曽森林鉄道1

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木曽森林鉄道は林鉄の中でも超メジャーで多くの出版物があり、
ネットではHP「津島軽便堂写真館」さんの木曽森林鉄道が圧巻で木曽森林の全貌はこちらをご覧ください。

何を今さらの感じがありますが、廃線1年前の昭和49年に上松で見た木曽森林のほんの一端をアップしてみます。この時の目的は模型化(客車)のための採寸と車両写真が目的で、ごく一部の車両から林鉄サイズを知る事ができました。



鬼淵  1974.05.02


鬼淵

木曽森林鉄道2 春爛漫

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5月初めの五月晴れの日。

上松の周囲では、新緑と遠くの山の残雪で春の色が満ち溢れていた。

そんな春爛漫の中を山から下りてきた運材列車。

昭和49年の時代にまだ林鉄が動いていたとは、不思議な感じがしたものだった。

鬼淵 1974.05.02


鬼淵


上松

木曽森林鉄道3 上松貯木場

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上松の貯木場の奥に客車が置いてあり、それらの車両に気を奪われてしまったが
注目は貯木場の脇から下る引込線とその先に開ける木材加工場であるのを後で知った。
貯木場の下に模型のように敷き回された線路は既に無かったが、なんとなく廃線跡を感じる雰囲気は残っていた。

上松の貯木場と奥に客車の留置場がある.  1974.05.02

昔、貯木場の左手から下る引込線があった.

昔、貯木場と木曽川との間(一段下がった一帯)に木材加工場があり、ここまで線路があった.

上松のΩループ線の跡
左上の貯木場の脇から下りこのΩループで橋を渡り木材加工場へ向かっていた廃線跡.

貯木場にいた車両達

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