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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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木曽森林鉄道4 上松

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No.128 DBT10 酒井製10トン機、B型客車13    上松 1974.05.02
中央本線上松に隣接した一角にヤードや車庫(奥の建物)があった.

No.107 DB8 酒井製8トン機


No.76 酒井製


車庫内にはNo.84 DB7 酒井製7トン機と、その周辺に酒井製8トン 10トン 奥に5トン機が並ぶ.
機関車は5トン~10トン機で大きさがバラバラなのが楽しい。


仙境のいで湯「銀山温泉」行き尾花沢線のりば

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先日、Cedarさんの「今昔日記」で十八番「正月に観たDVDの鉄分報告(その1=心乱れる道行き列車)で、
奥羽線大石田の駅と銀山温泉の場面が出てきて、無性にあの夏の日のことが懐かしくなったものです。


昭和39年の夏、ガンガン照りの太陽の下、奥羽本線大石田駅に降り立つと
国鉄駅の端に歓迎 仙境のいで湯♨ 銀山温泉 の看板が見え
そこに山形交通 尾花沢線のりばがあり、見たことないような愉快な編成が止まっていた。

構内入替機のような小さな機関車がガソリンカー崩れのボギー客車1両と有蓋貨車1両を従えた素晴らしい混合列車であった。こんな愉快な混合列車がこれから花笠踊りで賑わう夏の尾花沢へ、そしてバス乗り継ぎで銀山温泉へお客を運んでいた。1960年代はこんな貴重な光景を見る事ができた時代であった。


跨線橋から見た看板と尾花沢線のりば 1964.8.5

尾花沢から帰ってきた混合列車は牛車のごとくのろかった. 大石田

機関車の付替え作業.ハフ1は元有田鉄道の気動車.  大石田

DB151 小さな機関車の運転室内は蒸し風呂だったのでしょう.

全線たった2.6kmの終点尾花沢駅構内.ハフ2の向こうにはバスがたむろしている.

ここにもいた元西武の小型電車改造車 ハフ3. 尾花沢

終点尾花沢の駅前風景と山形交通キャブオーバ式バス. 1964.8.5
尾花沢からバスで30分程奥に入った所に銀山温泉があるのでしょう。
バスは大石田からも並走していたようでこの6年後に廃線となった。

今の銀山温泉そして尾花沢についてはHP「夢遊生活の日々」さんの
日本の街歩きに「銀山温泉と尾花沢」の見事な旅日記があります。

いすみ鉄道大原駅 伊勢えび弁当 

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今日から新宿の京王百貨店で開催中の元祖駅弁大会で、今年は大原駅伊勢えび弁当がやってきた。
包装のいすみ鉄道に惹かれて早速昼食に買ってみました。
今年の春は新型車のコマツディーゼルエンジンを見に行く予定で、
春爛漫のいすみ鉄道+大原の伊勢えび弁当で楽しみが膨らみそうだ。


いつみ鉄道大原駅特製 「伊勢えび弁当」  1,500円



サイト 木曽森林鉄道のイラストギャラリー

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先日、木曽森林鉄道を取上げましたが、
本にもなった五十川晋一様のお馴染みのサイト 鉄道車両人相学(車両の顔のギャラリー)の中に
素晴らしい木曽森林鉄道のイラストギャラリーがありますので紹介させて戴きます。


  木曽森林鉄道のイラストギャラリー





      1例) 酒井5t+B型客車    画像クリックでサイトのサイズに拡大します.



「コクリコ坂から」 今夜再び

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「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。
1963(昭和38)年の横浜を舞台としたスタジオジブリの映画「コクリコ坂から」が今夜再び。
昭和38年、オリンピック前年の横浜の風景の懐かしさに泣ける。
ちょうどChitetsuさんの模型の時代設定ですね。







御殿場線 国府津機関区

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小山機関区で扇形機関庫を1枚も撮らなかったのが悔やまれるが東京近郊では国府津にも扇形機関庫があった。この頃はどこでも扇形機関庫が見られ、扇形機関庫は模型では作らない事もあってか真剣に撮らなかったようだ。東海道線国府津から沼津まで巨体の貨物用D52が牽く旅客列車が数本/日あり、国府津機関区では5両のD52を確認することができた。

国府津機関区の水タンクの前に休むD5270     1963年4月

ターンテーブルとその周辺


歴史的建造物である優美な扇形機関庫
扇形機関庫にはD52235、D52403、D52335が休んでいた.

D52236の出番で5番線へ向かう.

発車時刻が迫る沼津行き旅客列車.沼津まで約1時間の汽車の旅が始まる.

御殿場線の栄枯盛衰については田辺幸男様が詳しく纏められた
「御殿場線の蒸気機関車」シリーズ239をお読み下さい。

非電化時代の御殿場線

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富士を見て国府津へ下るD52403旅客列車   1963年4月

1934(昭和9)年に丹那トンネルが開通するまで、かっては東海道本線であった御殿場線.補機の蒸気機関車を連結してこの先の山北から御殿場越えしていた。遠い昔にあのマレー式蒸気機関車が御殿場線で活躍していたとは想像もつかなかった。

かっての東海道線本線の複線跡か.  山北-東山北

夕暮れ時のD5270旅客列車  山北-東山北
国府津から御殿場線の蒸機列車に乗って山北で下車、
山北から小田急と交叉する松田まで夕方の沿線を歩いた。

ヘッドライトが綺麗なD52403が国府津から引き返してきた. 東山北-松田

国府津から乗ってきた沼津行き旅客列車. 山北 
山北を発車し御殿場の急勾配に挑む

御殿場線 C11

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国府津機関区のC112  1963年4月

御殿場線でいろいろとコメント戴いているmoro9さんにD52旅客列車が停車している駅名を調べてもらったところ、この駅の側線に砂利ホッパーが写っているなどで山北ではなく松田であることが判明しました。
当時、国府津にいたC11が国府津と松田間を1日数往復貨物を牽いていたそうで、松田駅の側線にあった砂利ホッパーはそれに使われていたそうです。そういえばC11の貨物列車が鉄橋を渡るところを撮った記憶があり、ネガを漸く見つけてスキャンしたところこんな光景でした。

松田へ向かうC11貨物列車が川音川の鉄橋を渡る.  松田-相模金子

松田を発車し小田急線を越えて直ぐ鉄橋を渡る国府津行列車   松田-相模金子
丹沢から流れる川音川はこの先で酒匂川に合流する.

松田駅の側線と砂利ホッパー
この駅が松田と判明したのは貨物線の砂利ホッパーと左手の電柱に小さく見えた「まつだ」の文字であった。
砂利降ろし用ホッパーの遺構を今も見る事ができる.


オリンパスペンで撮った 橋本駅のC11

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東海道線茅ヶ崎から出ている国鉄相模線の終点橋本駅にC11を撮りに行ったことがあった。
この頃、東京近郊でもC11やC12が貨物用に活躍している風景はよく見る事ができ、
蒸機の入替え作業などはついでに撮る程度であったが、この時は珍しくC11を撮る目的で
オリンパスペンを持って橋本まで出掛けてみた。わざわざ地方へ出掛けなくても東京近辺で
国鉄蒸機ローカル線ムードをほんのチョットだけ味わえる楽しみがあった。

橋本駅3番ホームの相模線気動車
相模線茅ヶ崎行と横浜線八王子行が並ぶ橋本駅. 1964.02.11

旧型国電が走る橋本駅の反対ホームには気動車が停車し、
その脇でC11が入替えに励んでいた。
C11の構内入替え作業

一隅にはC11用の小さな給水給炭設備があった.

2100形(塗分け時代)と1400形. 向ヶ丘遊園
帰りに乗った小田急線の風景.

オリンパスペンで撮った玉電砧線1

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私にとって砧線の思い出は吉沢駅から砧本村の区間であった。子供の頃に狛江から自転車をこいでここまで遊びに来た目的は、この区間を走る砧線を見ることと、もう一つは玉川読売飛行場を見る事であった。写真を撮り始めたのはずっと後であったが、オリンパスペンで撮った1964年は子供の頃に見た砧線沿線風景がそのまま残されていたと思われる。

吉沢の踏切 1964年2月
二子玉川園からやってきた電車は急カーブを曲がり多摩堤通りの踏切を渡ると吉沢駅に到着する。
まるで模型のレイアウトのような光景で、吉沢駅を出ると直ぐ野川の鉄橋を渡り右へ曲がる。

吉沢駅 1964年2月
吉沢駅の昔と今

2007.04.15
鉄橋の先を砧線と別れ土堤を越えると、今は河川敷に緑地運動場が開けるが、昔ここに玉川読売飛行場の格納庫と滑走路があった。自動車に牽引されて上昇するグライダーの練習風景や格納庫に新聞社のセスナの機体が並ぶ光景は正にこの場所であった。

別世界のような砧線沿線の玉川風景 1964年2月
1964年2月の撮影で場所は少し上流と思われ、この頃はまだ読売飛行場は存在し
砧線の吉沢~砧本村間はこんな長閑な土手の近くを走っていた。

何もない長閑な沿線風景の中を砧本村に到着する.

オリンパスペンで撮った玉電砧線2

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砧本村駅 1964.11.03   撮影: moro9さん  クリックで拡大

駅の向こうに「わかもと」の工場が見える懐かしい砧本村駅の風景、moro9さんに提供して戴きました。子供の頃に見た「わかもと」とはこの工場だったのだ。私が駅を撮った頃は「わかもと」の工場が眼中に無く工場があったのかどうかも記憶になし。電車のことしか頭になかったのでしょう。
わかもと製薬㈱玉川工場は1967年に工場跡地を駒澤大学に売却し、神奈川県大井町に相模大井工場を新設しています。

切符売り場がある終点砧本村駅 1964年2月

当時と現在の対比
ホームにあった待合所は90度向きを変えバス待合所に.2007.04.15

営業時間午前10時~午後6時と書かれた切符売り場の窓口.脇に貼られた
二子劇場の時代劇映画のポスターや、裏の洗濯物を干した民家がいかにもこの時代を表わす.

西日を浴びたホームの待合所

待合所はそっくりそのまま今もバス停に使われている. 2007.04.15

昔線路があったところを直進すると、その先にあった「わかもと」は駒澤大学玉川校舎グラウンドになっていた.

オリンパスペンで撮った玉電砧線3

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玉電砧線の名所と云えば吉沢の急カーブでしょう。ギィギィ音をたて90度方向転換するのが面白くて何回も撮ったはずだが出てきたネガはこの1枚のみ。ラッシュ時には連結運転があたそうで、連結運転でこのカーブを曲がる光景はさぞや見ごたえがあったことでしょう。

吉沢の急カーブ  1963年4月
廃線跡めぐり  吉沢の急カーブがあったところ. 2007.04.15

この頃、二子玉川園駅の砧線側線にこんな貨車が留置されていて昔のジャリ電時代の名残でしょうか。二子玉川下流の砂利採取が禁止されたのが昭和9年だそうで、貨車はその後保線などに使われていたのかも知れません。こんな貨車を牽く砂利軌道線を模型の世界で楽しんでいました。

 二子玉川園 1963年7月
時代物のカプラー

二子玉川園駅の日常風景. 1963年4月
ホームの看板には「アンリ・ファルマンからジェット機まで航空博 3月16日~5月31日二子玉川園」 と.

二子玉川駅  2010年12月

玉電風景 中里から三軒茶屋へ

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1969(昭和44)年5月11日、玉川通り(国道246号)上への首都高速3号渋谷線の建設、営団地下鉄銀座線と接続する地下鉄(のちの新玉川線)建設の計画等により、下高井戸線である三軒茶屋 ~下高井戸間を除いて、東急玉川線、砧線は全線廃止された。

廃線直前の1969年4月に撮った玉電風景を中里あたりから三軒茶屋方面へ向かって追いかけてみました。この頃はまだ高速道路の建設前で玉川通り(国道246号)の空は広々としていた。
道路は満杯の状態であったようだが、玉川線廃線後の1971年12月には首都高速3号渋谷~用賀間が開通し玉川通りもあっという間に一変してしまった。

上馬  1969.04.22

電柱に表示された電停名で「玉電中里」と分かる. →上馬方向.

専用軌道を三軒茶屋方面へ向かう. 三軒茶屋-中里

三軒茶屋方面へ向かう.  三軒茶屋-中里

三軒茶屋電停

満員の二子玉川園行き電車. 三軒茶屋

二子玉川園行き電停の向こうが分岐点.  三軒茶屋

三軒茶屋の分岐点を行く下高井戸行き.

玉電風景 大橋

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大橋の商店街風景をよ~く見ると精肉・鮮魚店の脇に電車が顔を出している.
ここが大橋車庫の入出庫線であった.  1969.04.22

道路を横断し商店街の間を大橋車庫へ入って行くデハ200形.

大橋停留場の向こう高台の木立の中に氷川神社が見える.

「連結2人のり」が表示された連結運転車. 大橋停留場

大橋停留場風景

下高井戸行きのタルゴ式連接車も乗客が溢れていた.  1969.04.22

車庫に休むデハ80形と30形.  1962.12.07

最古参のデハ30形.1965(昭40)年から予備的存在に. 1962.12.07

玉電 タルゴ200形と鉄道模型趣味誌のこと

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デハ200形 上通り  1969.04.22

コメントで思い出話が出ました昭和30年に登場した玉電タルゴ200形。玉電タルゴと言えば兄が毎号購読していた鉄道模型趣味誌で、玉電タルゴの製作記事を子供の頃に読んだことがあり、無性に読みたくなって昔の鉄道模型趣味誌を神田の古本屋で買戻して? きました。この記事が掲載されたのは58年前の1955(昭30)年9月号の86号でした。
「TKK玉川線 新車200形の作り方」のタイトルでO番1/42の製作記事が3回に亘り連載され、筆者は第1第2東京電鉄工機とあり、かの有名な自由形2線式Oゲージャーの兄弟だったと思います。

玉電タルゴ製作記事の出だしはこんなでした。
クリームとライトグリーンと夏の粧いも華やかにスマートな80系で名を売った玉電にデビューした新車 !
超軽量、超低床等々幾多の新機軸を採用した200形は、モデルファンがデザインしたような近代的な連接車です。
モデルとしては軽量車の価値を再検討する意味も併せて、R部分の工作を容易にするために、オールペーパ床板なしの張殻構造を採用、また台車、伝動関係等も極力簡易化するなど運転本位の近代的車両とする所に重点をおいてあるつもりです。貴社に於いても、50糎級の堂々たる路面電車を一本増備されては如何でしょうか。縮尺は1/42としてみました。

1955(昭30)年発行の86号

玉電タルゴの模型製作記事(第1回)

【鉄道模型趣味】誌のこと
機芸出版社の山崎喜陽氏によって1947(昭22)年に第1号が創刊された。鉄道ピクトリアルの創刊が1951年であり、鉄道模型趣味誌では模型だけでなく実物記事も多く掲載されていた。上記86号でも「電車を訪ねて」が第50回となり地方私鉄の紹介などは100号くらいまで続いた。子供の頃に夢中で読んだ1~100号の実物記事は私の鉄道趣味の原点であった。

数年前に古本屋行きとなった兄の鉄道模型趣味 1号~100号他


玉電風景 大橋の今と昔

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大橋と言えばあの有名な大橋ジャンクション。大橋車庫の跡地は大橋ジャクションとなり地図を書いたところで車庫跡地の今昔は複雑で、現在の大橋風景で昔の車庫入出庫線と電停大橋があったところを推定してみました。

のどかな大橋車庫風景 1962.12.07

 電停大橋.渋谷方面に今回目印となった木立ちと陸橋が見える.1969.04.22
右へ入出庫線が車庫へ向かう.
246渋谷方面を見る.青の道路行先表示がある陸橋からの距離で、
この辺りに電停大橋があったと推定される.右手が大橋ジャンクション.2013年1月
246渋谷方面を見る.バス停大橋
大橋ジャンクション.昔、精肉店や車庫の入出庫線があったのはこの辺りでしょう.
車庫跡地には巨大なインターチェンジが建ち、脇に高層マンションがそびえ建つ.
すっかり陽が当らない大通りとなってしまった.

大橋-上通り.木立の脇の陸橋から渋谷方面を見る.遠くに見える大坂上の陸橋まで坂を登る.1969.04.22
木立の脇の陸橋から246渋谷方面を見る. 2013年1月

大橋ジャクション Google Earth

消えゆく下北沢駅風景

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小田急下北沢駅の地下化は、新聞によれば3月22日の終電後に切り替え工事をし、23日始発から地下線の運行を開始するとあります。いよいよ小田急の下北沢地上駅が停止し、その後取り壊される地上駅と街並で下北沢風景も一変してしまう事でしょう。


小田急下北沢駅  2013年2月
駅周辺には高層ビルがなく、街全体に建物が低いのが魅力であったが・・・。

商店街や街行く人々の目線にある駅もまもなく過去の風景に.

玉電風景 大橋から上通りまで

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「大橋」から坂を上り道玄坂の「上通り」あたりまで進みます。


大坂上の陸橋から渋谷方面を見る. 大橋-上通り  1969.04.22
坂を上りきったところで山手通りの交叉点を左にカーブする.
大坂上の陸橋から渋谷方面を見る.旧山手通りと神泉町で立体交叉する.2013年1月

神泉町交叉点の先を道玄坂へ向かう  1969.04.22
神泉町交叉点 2013年1月

  道玄坂の通りを行く.電停「上通り」 1969.04.22
道玄宿、家具山水堂などの看板が見えるあたりで専用軌道に入る.

道玄坂に入ると木立があり空が見える.この辺りに電停「上通り」があった.2013年1月

玉電風景 道玄坂

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いよいよ玉電風景も道玄坂の専用線軌道に入ると渋谷へと下ります。
中里あたりからスタートした現役時代の懐かしい玉電風景を現在の跡地風景といろいろ対比させてみると、皆さんから様々な熱い想いのコメントを頂戴しました。現状の良し悪しは別として道玄坂を渋谷へ下り始めるあたりの風景についても昔と今を比較してみました。

道玄坂商店街の間を玉電は右へ曲がる.上通り-渋谷 1969.04.22
道玄坂交番前交叉点の手前. 2013年1月

左に渋谷へ下る道玄坂の道路、正面をカーブすると渋谷へ下る道玄坂の専用軌道へ.
道玄坂交番前交叉点


映画「津軽絶唱」の看板の横を専用軌道に入る.
渋谷マークシティへの取り付け道路あたりが玉電軌道だったのでしょう.
玉電軌道跡と地下鉄銀座線の上にマークシティのビルと渋谷エクセルホテル東京が建っている.

1960年代らしい道玄坂商店街の風景の中に電車が顔を出す.
道玄坂交番前交叉点.玉電の軌道はこの先をカーブしていた.

渋谷駅へ下る専用軌道. 1969.04.22
写真を撮った1969年は東横百貨店→東急百貨店東横店になっていて、玉電の渋谷駅の終端が東横店西館の中に入っていた。この年は東横店南館がまだ建設中で翌1970年に完成している。そんな東急東横店が電車の背後に見える.

消える東横百貨店東館

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昔、玉電渋谷駅が「東横百貨店」2階にあり、その東横百貨店(現東急)が今年3月閉店になるということで
東横百貨店について調べてみました。

東横百貨店増築の歴史は
1934(昭9)年 東館創業
1954(昭29)年 西館増築
1970(昭45)年 南館増築
ということで玉電風景が消えようとしていた頃は南館が増築工事中だったということになる。
玉電と云えば「東横百貨店」だが1967(昭42)年に現在の「東急百貨店東横店」に改称されている。

JR渋谷駅を複雑に取り囲む東横店各館の配置を分かり易く書くと下図のようで、JR渋谷駅東側にあるのが創業からの東館(緑色)で3月末に閉店し取り壊するのはこの東館であった。その後東横店は渋谷駅西側にある西館(黄色)と南館(青色)に集約するそうである。

JR渋谷駅東側は東横線渋谷駅の地下化で地上駅が取り壊され、東横店東館、東横線地上駅、その下1階の東横のれん街 と渋谷駅の象徴的な風景が消えることになる。

昔あった玉電渋谷駅と東横店西館の位置関係は下図の通り。

3月末閉店し取り壊しとなる東急東横店東館 2013年1月

東急東横店西館と南館

消えゆくJR渋谷駅西側の風景
東急など鉄道3社が渋谷駅を再開発し高さ約230mのビルなど建設し2027年度まで順次開業.

駅地下化で取り壊される東横線地上駅とその下の東横のれん街

華やかな私鉄ターミナル駅

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