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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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小型電車がいる車庫風景

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先月、居酒屋鉄談議でChitetsuさんに初めてお会いし例の小型電車の模型を拝見させてもらいました。
単なる自由型ではなく実物観察に基づいた心象鉄道での自由型と、その仕上がりの素晴らしさにただ々驚くばかり。この直後、この小型電車がいる車庫風景がChitetsuさんブログにアップされました。

1月26日のブログ 電車庫モジュールの製作(34)を見て素晴らしい車庫風景にまた唸る。この連載34回の記事には各地の車庫現場が無数に紹介され、いかに実物観察に基づいた車庫風景であるかがよく分かります。

電車庫のアクセサリーとして製作された驚きの小型電車.2013年1月


楽しさ一杯の電車庫風景、私も何点か実物風景を並べてみました.
朝日を浴びた電車庫と小型電車. 日の丸自動車・法勝寺電鉄 米子 1962.07.31
ジヤッキアッアして馬に載せられた車体から片方の小さな台車が外されている。

都電の電車庫. 目黒車庫 1967.12.03
小型車1000、1100形が配置された車庫

島の電車庫. 淡路交通宇山車庫   1965.08.02
 モハ1005が仮台車に載せられて、外された台車DT10がバラバラに分解されている.

所狭しと並べられたモハ1005の台車DT10のパーツ.

電車庫風景. 南海貴志川線 伊太祈曽車庫.1965.08.04
庫内では点検作業中で奥に改装中らしい2両がいる。

車庫裏の風景. 遠州鉄道二俣線 西ヶ崎車庫  1964.3.25
車庫裏には小さな塗装小屋? とその奥に使われなくなった小型電車や台車がぞろぞろと.


北勢線 西桑名駅風景

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三重電気鉄道(旧三重交通) 北勢線は近鉄に合併し、その後、三岐鉄道の北勢線となって近代化軽便として今も走っている事は良く知られている。訪問した1965(昭40)年は近鉄と合併した年で、近鉄化直後で北勢線西桑名駅は車両やカラーリングに三重交通時代の面影を残していた。
近鉄化直後の北勢線は車体色が三重交通色(緑と肌色のツートンカラー)から近鉄色(ブドウ色一色)へ変更されている過渡期であった。
現在の北勢線の風景はKumaさんの「北勢地方のナロー達」に紹介されています。


美しいツートンカラーに塗られた3車体連接車 モ200形202 西桑名 1965.08.05
この後マルーン一色となり電装解除となる.

真夏の西桑名駅 モ224

同じ電車でも2種類のカラーリングが登場した. モ227

阿下喜駅に隣接した鉄道博物館に近鉄色で保存されているモ226.

西桑名駅ホームの脇にある車庫に休む車両達. 
この頃はまだ三重交通時代のツートンカラーが多かった.


モ226

サ135

3車体連接車 モ200形に準じた仕様のサ140形146

サ150形156

ワフの車体も「近畿日本鉄道」に書き換えられている.

松本電鉄浅間線、早朝の温泉行き電車

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夜行列車で夜明けの都市に到着すると、うす暗い駅前通りに路面電車が停まっている。
こんな早朝の駅前光景を1960年代には各地で見掛けた。

朝5時前に到着した松本駅は夜行でやってきた登山客で賑わい、登山客が向かう上高地方面とは反対の東側に開けた松本市街を浅間温泉行の電車が走っていた。
温泉行電車の撮影は、こんな登山客を除けば早朝でひと気のない松本駅前からスタートした。

陽が出てからの浅間線の紹介は「松本電気鉄道 浅間線」 にあります。

始発前の浅間線松本駅  1963.7.20
まだ薄暗い国鉄松本駅の片隅に、うす汚れた2両の木造電車が休んでいた.
ひと気のない駅と電車はまるで廃線後のようであった.

ひと気のない松本駅前で登山客を満載したバスだけは賑わっていた.
やがて朝の1番電車が発車しガタゴトと松本駅前に出てきた.

早朝で車や人は少なく、静まりかえった松本の大通りを行く電車.

電車の脇を松本駅へ向かうボンネットバスが連なっている.

学校前の急カーブを曲がり未舗装の併用軌道を行く.

併用軌道から専用軌道区間へ入ると、家並みの間をくねくね曲がって走る.学校前-清水

流山電鉄の車両

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昭和38年頃の流山電鉄の風景を2011年2月に紹介しましたが、今回は車両編をアップします。
この頃の車両は元南武鉄道のモハ100形(101,102,103,105)が主力の時代であった。

流山駅のモハ101   1963.03.31

お椀型ベンチレータのモハ103   馬橋 1962年3月
美しいボールドウィン台車

モハ105  流山 1962年3月

モハ102  馬橋  1963.03.31


モハ102  流山 1962年3月

西武クハ1215(元武蔵野鉄道サハ)を1963年に譲受したクハ52。 流山 1963.03.31

モハ100形と組んだクハ51(元豊川鉄道クハ60形) 流山 1962年3月

車庫の奥にあった元ガソリンカーのサハ31 1963.03.31

元ガソリンカーのサハ32 1963.03.31

貨車を従えた混合列車.この頃は流山から酒造工場への引込線があった.1963.03.31

頚城鉄道 夏の浦川原駅1962年

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頚城鉄道が新黒井から浦川原まで繋がっていた元気な時代。
部分廃線前でまだ貨物輸送があった夏の浦川原駅を1962(昭37)年と1968(昭43)年に分けて取上げてみます。この数年間は自動車時代到来で真っ先に消えた軽便貨物輸送の最後の数年間であったのでしょう。

新黒井で国鉄と接続していた時代は米どころ新潟の軽便貨物輸送も活発でホジの乗客も多かった。しかし1968(昭43)年秋の新黒井~百間町間と飯室~浦川原間の部分廃線により、貨物輸送が廃止となり陸の孤島となった頚城鉄道は一気に終焉ムードとなってしまった。


夏の浦川原駅の全景 1962.08.03

駅の脇には床屋や中華ソバ食堂がある.

ホームでは混合列車が発車を待っている.薪を満載した無蓋車が愉快だ.

この日はホジ3とDC92が列車を牽いていた.

貨物引込のホームではトラックから貨車へ米俵が積込まれ新黒井まで輸送し国鉄貨車へ積換えしていた。1962年~1968年は急速に自動車が普及した時代で、あっという間に貨物輸送もトラック輸送に切替り、部分廃線した後の1971年5月の全線廃線で頚城鉄道は消滅した。

駅の一番奥にはホハ4が休む.背後に写った民家や床屋が興味深い.

頚城鉄道 夏の浦川原駅1968年

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1962年から6年が過ぎた浦川浦駅は以前と変わらない夏の風景であった。
この年の9月末に飯室~浦川原間の部分廃線を迎え、こんな浦川原駅の風景も消える直前であった。

駅には以前のように貨車の姿が見えなかったが、小さな貨車は貨物長大編成へ出動していたのだった。
部分廃線を迎え貨物輸送も廃止されるというのに、小さな貨車で新黒井まで輸送する荷がまだあったということになる。この夏の貨物長大編成のことは「頚城鉄道4 頚城の貨物」に紹介してあります。

ホームでは客車改造の気動車ホジが発車待ちしている浦川原駅. 1968.08.18
軽便としては立派な駅のこんな風景を1968年夏にまだ見る事ができた.

今もこの場所に残る浦川原駅の駅舎.

待合室の掲示板によると、浦川原から松代(マツダイ)、松之山温泉、十日町などへ向かうバス路線があって、直江津へもバス路線が繋がっていた.1968年ともなれば道路の整備もかなり進んできたと思われる.


浦川原駅の構内.
こんな長閑な風景も、今ではこの線路跡地に立つ高架の上を「北越急行ほくほく線」が走る.

のどかで素晴らしい軽便風景があった浦川原の昼下がり

以前「頚城鉄道4 頚城の貨物」で紹介したことがある貨物長大編成. 百間町

↓ラベル「頚城鉄道」をクリックで過去の頚城記事の全てと繋がります。

頚城鉄道 下保倉あたり

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1968年夏に貨物の長大編成を高台から撮ったのは下保倉駅の近くで、確かこの辺りの今は北越急行が走っているところ。現在の地図に下保倉駅と昔の浦川原駅の位置を入れてみました。
地図で赤ラインが頚城鉄道、黒ラインが北越急行です。

現在の北越急行の浦川原駅の位置は、頚城鉄道の浦川原より少しずれている.

美しい田舎の風景を行く長大編成の後ろに下保倉駅が小さく見える. 1968.08.18
現在は北越急行の高架がこの右手に連なっていて沿線風景は一変していることでしょう.
この時代の沿線の田舎風景の美しさは、時が立つほど美しさが際立ってくる感じがする.

一面緑に包まれた小さな下保倉駅.飯室側から見る.
ナローゲージのレールがまっすぐに延びた先をカーブするあたりに今は北越急行の浦川原駅が.

下保倉から飯室側へ少し進んだあたりの田んぼを、ニフを従えたホジが行く.
ホジの車内にはけっこう乗客が乗っているようだ.
夏のあまりの暑さに小川がある木立の下で撮った1枚.

 
小さな森ブタDB81 最後の活躍.  飯室-下保倉 1968.08.18
目の前を森ブタがロッドを忙しく振り回して通過して行った.
新黒井行き混合列車もこの1ヵ月半後の部分廃線で見れなくなってしまった.

頚城鉄道 コッペル2号機さよなら運転

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1966年5月に走った「コッペル2号機さよなら運転」の夢のような光景を撮影された諸河久プロの写真をアップロード了解を戴きましたのでブログに公開します。撮影地は先日のブログにあった下保倉で、遠い昔のコッペル蒸機列車の光景はとても1966年とは思えません。

【moro9さんのコメントより】
懐かしくて泣けてくる撮影地です。 コッペル2号機がさよなら運転したのが1966年5月12日でした。 頸城野は朝から五月晴れに恵まれ、空前絶後と思われる素敵な軽便列車が 蜃気楼のように私の眼前を走ってくれました。 この日のお別れ列車は今流に言うと「フォトラン」形式で走ってくれました。 好撮影地で我々を下車させ、適当なところまで逆走。こちらがオーケーのサインを出すと、 カメラの前を力走するという手立てで、下保倉~浦川原間の起伏にとんだ区間が、そのハイライトになりました。 このときの収穫があまりに大きかったので、その後の普段着の頸城鉄道に行きそびれたことを後悔してます。


夢のようなコッペル蒸機列車  下保倉-浦川原 1966.05.12 撮影: 諸河久氏




私は頚城鉄道の沿線風景は単調だったという記憶しかありませんが、下保倉から浦川原へかけての沿線風景はこんなに素晴らしかった。写真の背後にある野山、わら葺屋根、田畑、起伏に富んだ風景などがコッペル蒸機列車を惹き立てます。 この区間こそは頚城鉄道廃線跡と北越急行が唯一接近した区間で、旧→新の鉄道のあまりの落差に愕然とします。katsu


頚城鉄道 夏の飯室駅

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2010年11月にアップした「晩秋の頚城鉄道 飯室」 は部分廃線後の終点飯室駅でしたが、今回は全線が繋がっていた時代の飯室駅です。

飯室駅 1968.08.18

写真の飯室駅はまだ部分廃線前であり、浦川原側へと線路が一直線に延びていた。と云ってもこの1ヵ月半後には部分廃線で線路はこの先で行止まりとなってしまう。
飯室駅前の道路は舗装され浦川原、飯室から直江津へバスで行けるので、豪雪シーズンを除けば浦川原、飯室から新黒井までわざわざ軽便で輸送する必要性は少なくなっていたのでしょう。
部分廃線後の寂れた飯室駅のムードはまだ感じられなかった。

 飯室駅に到着したホジ3+ニフ1 1968.08.18

ホジ3に牽かれていたニフ1は6年前に較べ塗装が剥げ格段にくたびれていた.新黒井 1968.08.18
よくお供をしていたニフ1の内部には一体何があったのか興味深々.
ちょっとした小荷物程度を運んでいたのでは?

1962年の夏は飯室で列車交換していた.1962.08.03
この頃の車両はよく手入れされていて文化財古典車のような美しさがあった.

頚城鉄道 2軸客車

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頚城鉄道の2軸客車について1962(昭37)年と1968(昭43)の状態を比較してみました。

まだ元気だった頃の頚城鉄道 新黒井駅構内  1962.08.03
雑草が刈り込まれた真夏の構内にニフ1やハ5、ハ6が並んでいた.

奇麗な状態のニフ1 1962.08.03

ハ6とハ5.  1962.08.03 新黒井

以下は部分廃線直前の1968(昭43)年夏の光景。


ホジ3の編成に付いた くたびれたニフ1. 新黒井 1968.08.18

荒れ果てたハ6とハ5 新黒井. 1968.08.18

草むした真夏の新黒井駅構内. 1968(昭43).08.18

玉電風景 道玄坂を下る

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玉電風景シリーズは坂を下り始める「玉電風景 道玄坂」で中断していましたが
更に道玄坂を下って東横百貨店西館内の渋谷駅までを
当時と、44年後の目まぐるしく変貌する今の渋谷とを比較してみます。

道玄坂 玉電専用軌道. 上通り-渋谷 1969.04.22
銀座線の留置線と商店街裏の間を東横百貨店西館へ向かって下る.
前方にラウンド状した東横百貨店西館が見える.

左手が写真(上)の銀座線と玉電専用軌道があったところの今. 2013年1月
渋谷マークシティが建ち、その内部に銀座線の留置線が納まる.
前方に渋谷ヒカリエがそびえ建つ.

地下鉄銀座線が東急百貨店西館から留置線へ出てくるところ.

道玄坂を下るとそこが渋谷駅.上に銀座線の留置が見え今はビルの中に収まっている.

東横百貨店西館に頭を突っ込んで行止まりとなる渋谷駅.1969.04.22

左が東急百貨店西館で、昔玉電があったところに渋谷エクセルホテル東急が建つ. 2013年2月
この先40、50年後は更に変貌を遂げ、こんな写真もきっと懐かい風景になるのでしょう。

華やかな私鉄ターミナル駅

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3月16日から地下駅がスタートする東横線渋谷駅。
地上駅の機能はまもなく停止し、私鉄ターミナル駅の風景は消滅する。
そんな消え去る風景の最後を切り取ってみました。

正面階段を上がって出発ホームに向かう私鉄ターミナル駅らしい風景. 2013.02.27

華やかなホーム4面4線の私鉄ターミナル駅

カマボコ屋根の駅とその線路下に展開する「東横のれん街」

華やかさの裏面は、上と下を246号に挟まれた駅のゴチャゴチャ感が魅力的.

ホーム4面4線のターミナル駅

頚城鉄道 夏の百間町

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百間町から北四ッ屋方面を見る.百間町-北四ッ屋 1962.08.03

762mmゲージの草むした軌道が百間町の先で左へカーブし新黒井まで一直線に進む。遠くに新黒井に向けて過ぎ去った列車が小さく見え、あたり一面は真夏の太陽が照りつける田園風景が拡がる。この百間町~新黒井間が部分廃線となるずっと前の1962(昭37年)、頚城鉄道はまだまだ元気があった。

赤字路線であったが豪雪地帯の冬の交通として存在し、この頃は廃線の話しも全く聞かれなかったそうである。百間町の車庫にいた豪雪に備える車両達は冬になれば毎年活躍していた。

満員の客を載せた新黒井行き列車. 百間町-北四ッ屋
列車は新黒井で直江津行きの信越本線やバスに接続していた.

百間町には頚城鉄道自動車㈱の本社があった.
翌昭和38年には創業50周年を期して直江津に新社屋を作って移転した.

夏の百間町駅 1962.08.03

百間町の機関庫.中ではDB81が休んでいた.

十勝鉄道からやってきたDC123. 冬の除雪で重用されていた.

コッペル2号機

豪雪時期には活躍したラッセル車 ラキ1(元国鉄魚沼線)

構内の除雪用に使われた貨車を改造したロータリー車 ロキ1.
百間町のこれらの車両は全て現役であった。


6年後の昭和43年夏の百間町駅.1968.08.18


参考: 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第5分冊 頚城鉄道

頸城鉄道 夏の新黒井駅

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真夏のガンガン照りの下、新黒井の駅で待ち受けていた列車. 1962.8.3
笠をかぶった人が二人草刈りをしていて構内はきれいに手入れされていた.


ボギー客車のデッキまで客が溢れている.

浦川原まで往復して新黒井に戻ると、真夏の日照りも弱まり新黒井の構内は夕方を迎えていた。
夕暮れ時で客が多くなりボギー客車は2両連結となった。客貨混合列車でやって来る貨車は国鉄貨車の脇で盛んに荷の積み替えをやっていた。
信越本線黒井駅からの乗換え客で賑わう新黒井駅.  1962.8.3

夕暮れ時の新黒井駅構内

新黒井へやって来た混合列車は貨車が何両も繋がれていた.

軽便貨車から国鉄貨車への積み替え作業.


以下はその6年後の夏の風景。

1968年の夏はまだ新黒井~百間町間が部分廃線される前であったが、構内の奥には夏草が生え茂り、留置された放置車両が荒れ果てていた。そんな荒れ果てた光景でも、日中は客貨混合の長大編成が何本か走っていたので国鉄貨車への積み替えは部分廃線前日まで盛んに行われていたのだろう。
部分廃線直前の新黒井駅.   1968.08.18
この直後に新黒井駅は閉鎖され、国鉄との接続がなくなり貨物輸送も全廃となってしまった。

部分廃線を控え夏草が生い茂る新黒井の構内.

加悦鉄道 DB機関車と片ボギー車

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2010年のブログ初期に数枚アップしただけになっていた加悦鉄道の古いネガを全てスキャンしてみました。

加悦鉄道は蒸機だけでなく古典の客車も多く、まるで動態保存鉄道のようであったことはよく知られている。古典物の前にまず車庫で撮ったのがDB機関車と片ボギー車であった。軽便でよく見掛ける車両形態の3フィート6インチゲージ版といったところ。

DB201 (昭和28年森製作所製)   1962.7.31
頸城の森ブタDB81を大きくしたような同じ森製作所製DBが
庫内でジャッキアップされて点検補修中であった.

片ボギー車の単軸駆動台車

車庫に佇む片ボギー車キハ101 (昭和11年日車製)



加悦鉄道 古典客車

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昭和37年、加悦鉄道の加悦構内には数多くの古典客車が居て、保存鉄道ではなく現役の姿でこれだけの文化財が生きていたとは驚きの世界であった。どの客車も外観上は老いた痛みもなく、しっかり保守管理がされてきたのでしょう。

大江山を望む加悦鉄道の名場面 加悦   1962.7.31

現役の古典客車が休む加悦構内

ハ10 大正15年 梅鉢工場製

ハブ6 大正15年 梅鉢工場製

ハブ2 大正5年 名古屋電車製

ハ21 明治26年 新橋工場製

最古参客車 ハブ3 明治22年  ドイツ バンデル・チーペン工場製

ワブ1 大正15年 梅鉢工場製

休車中の2号機 明治6年 英国スチーブンソン製 元国鉄No.123

明日で終わる渋谷駅風景

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いよいよあと2日となった本日の東横線駅渋谷駅、お別れで賑わう風景を撮ってみました。2013.03.14



今朝の渋谷駅地下化

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今日の朝一に代官山へ駈けつけてみると、昨日までのレールが梁桁の上に乗っていたのには驚いた。代官山の地上にあった線路を地下線へと切り替える工事は、前日15日の終電後から16日始発まで深夜のたった4時間で行われた。

工事は総勢1200名態勢による一部ホームや架線・線路の撤去、桁打上・降下、地上線と地下線の接続、試運転などだそうで、高級住宅地の中でこれだけの付替え工事を4時間でやってしまうとは !
朝の現場は写真の通りで、深夜の作業の全てが終了し工事関係者は見かけず警備員がいるだけの静かな朝であった。


今朝の代官山の地上線と地下線の接続部分. 2013.03.16
桁打上区間の線路を上げ(梁桁の上に前日の線路が見える)、桁降下区間の線路を下げ、
クレーンで線路撤去し地上線と地下線が接続された。

代官山駅の桁降下区間と線路撤去区間.徐々に下って地下線と接続.
バラスト軌道が昨日までの地上線の下に既に出来上がっていた区間でしょう.

 桁打上げ区間

前方に跳ね上がった桁打上げ区間を反対(渋谷)側から見る.

昨日までの華やかな日常光景から一変し、使命を終え静まり返った渋谷ターミナルの朝.
今回の地下化工事により、地上の東横線渋谷駅は24時49分の終電到着を最後に
ターミナルとしての使命を終え地下5階にある現在の副都心線ホームへと移行した.


加悦鉄道 大江山鉱山と小型蒸機

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大江山と丹後ちりめんの町加悦に似合う終着駅.  1962.7.31

加悦鉄道は国鉄宮津線(現・北近畿タンゴ鉄道宮津線)の「天橋立」の先にある丹後山田(現・野田川)駅から、古くから丹後ちりめんの町として知られた加悦町(現・与謝野町)にある加悦駅まで5.7kmを走っていた。
他に貨物線として丹後山田~岩滝精錬工場、加悦~大江山鉱山があった。大江山鉱山ではニッケルを採鉱し日本海に面した岩滝町の精錬場まで輸送していたが、昭和20年に鉱山が閉山し専用線も廃止された。訪問した昭和37年夏は日本冶金工業㈱岩滝線の貨物輸送で蒸機がまだ活躍していた。その後23年間に亘り営業が続けられたが昭和60年に全廃となった。

終点「加悦」駅は伝説の山丹波の大江山が迫ってくる土地で、加悦駅構内の行止まりに立つと、その先に延びていた昔の大江山鉱山駅までの専用線を偲ぶことができた。古典客車と蒸機がたむろする素晴らしい加悦鉄道の光景は大江山と丹後ちりめんの町によく似合っていた。

格調のある加悦駅の現役時代 1962.07.31

加悦の貨物駅

C160、1261、2号機が休む機関区

C160号機 昭和17年大江機械製作所製
日本冶金工業が購入し専用線に使われていたのを引き継いだ.

1261号機 大正12年日車製

この日煙を吐いていた4号機 大正12年川崎造船製
加悦では4両の蒸機を見ることができた.
大江山を背に4号機が動いていた加悦の構内風景.

側線の一番奥にあった給炭所.
ホームの線路の先は昔大江山鉱山駅に至る貨物線が延びていたが戦後閉山し貨物線は廃止されていた。現在は貨物線の道床跡を利用したサイクリングロードがこの風景の先へ向かっている。

加悦鉄道 キハ51

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思えば昭和37年の加悦鉄道を含む「地方私鉄めぐり」のスタートは渋谷駅であった。
1962年7月27日、渋谷駅の大階段を上がった東横線切符売り場あたりに集合し、東京駅から18:30発明石行急行「はりま」で西へ向かった。山陽道~山陰を経て加悦鉄道に到着したのが7月31日。
昭和37年は東京も地方同様に戦後の面影を色濃く残していた筈。なのにその時代の当たり前の風景に驚きもなく都電も渋谷駅も1枚も撮ってなかったのが悔やまれる。いつも「私鉄めぐり」の集合場所となったあの頃の東横線渋谷駅は改装前で凄まじい戦後の光景だったはず。その渋谷駅が幕を閉じ、あの時の渋谷駅から50年が経っていた。

国鉄宮津線の丹後山田駅では派手なカラーに塗られたキハ51が客を待ち受けて、日中はこのキハ1両が往復していた。

更新直後でピカピカのキハ51.  加悦  1962.7.31
船木鉄道より1962(昭37)年4月に入線し、自社改装され白に近いクリームと朱色のツートンカラーに塗られ7月21日より使用開始された。荷台付気動車はローカルムードがあったがあの渋いマッチ箱客車の加悦鉄道にはマッチしないカラーリングであった。

加悦を発車し丹後山田へ向かう

丹後山田駅の加悦鉄道線のりば. 昼過ぎで乗客もまばらであった.

キハ15と4号機

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