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朝の別府港
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朝の別府港 雨宮の蒸機
塀の隙間から見た向こうは機関区で盛んに煙を吐いた蒸機が貨車の入替をやっていた。動いているのは雨宮の1号機ではないか。さっそく機関区の門をくぐってことわりを言うと裸のおじさんが事務所の方へ案内してくれた。所長さんの話によると単車のキハ1と2は使われていないらしい。大型ボギーのキハ3は三岐から来て最近使い始めたとのこと。朝は単車のキハ1と2では小さ過ぎる。自動車と衝突して転覆したことがあるそうだ。
そんな話をしているうちに雨宮1号機が庫内の兄弟機2号機を表に牽き出してくれた。2両の雨宮はとても綺麗な蒸機であった。蒸機を撮り終わって、さっきの裸のおじさんにトビラを開けて別の引き込み線の奥に案内してもらうと、そこには湘南色に塗られた2軸客車が大変な台数休んでいた。
社紋
雨宮の1Bタンク2号機
外に牽き出された2号機.
雨宮の1号機と2号機.
この日活躍していた1号機.
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朝の別府港 別府機関区
客車がいた一角や機関区をだいたい撮り終えて帰ろうとすると、さきほどの上半身裸のおじさんが貯炭場脇の小屋の中で井戸で冷やした麦茶でもてなしてくれた。夏の私鉄めぐりの初日、こんな有り難いエピソードからスタートした。 1962.07.28
両側を板塀で囲われた機関区全景で左が雨宮2号機が休んでいた長い機関庫で、その先のもう一つの機関庫で6号機が休んでいた.そして板塀に「←扉」と示したトビラを開けると客車が留置されている一角があった.
板塀で囲ったまるで要塞のような別府機関区は、右手に長い機関庫が見えその左にヤグラのような得体のしれないものが見える.その先にハリマ○○と書かれて煙突があった.
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朝の別府港 2軸客車
扉を開けた中にあった引き込み線の一角については訪問記に記録なしでした。そこにいた2軸客車の経歴などは既にブログの「別府鉄道の旅客車両」で紹介してあります。写真で客車の周囲が少しだけ分かりますが、あるのは何かの残骸だけのようです。
お馴染みの2軸客車を含め7両も2軸客車が留置されていたのは、これだけ客車を必要とした多客シーズン(海水浴)が昭和30年代前半まであって、訪問した昭和30年代後半はかっての客輸送の跡形をかろうじて残していたと言う事になるのでしょう。
お馴染みの2軸客車を含め7両も2軸客車が留置されていたのは、これだけ客車を必要とした多客シーズン(海水浴)が昭和30年代前半まであって、訪問した昭和30年代後半はかっての客輸送の跡形をかろうじて残していたと言う事になるのでしょう。
ハフ7 別府機関区 1962.07.28
ハフ5 (ハフ6は同形)
ハフ1、2
別府港を発車した土山線の5号機+客車ハフ6+貨車.
別府港へ戻ってきた土山線の5号機+客車ハフ6+貨車.
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田辺さんが撮った呉市電
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田辺さんの山陽路 広島市電
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田辺さんの山陽めぐり 岡山電軌
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衣笠鉄道 50年前の撮影ポイント。
50年前に撮った写真で記録がないと撮影場所当ては厄介なものです。記録さえつけておけば何の苦労もないのですが。以前、井笠鉄道の「しっかりした線路」の写真を取り上げたことがありますが、この素晴らしい撮影ポイントがやっと分かりました。
私の切符出費記録(大井村下車が判明)から、大井村の北川と南側を当時の五万分の一地図と現在の地図を付け合わせ、ストリートビューで確認してみると、廃線跡らしき小路はほぼ確認できるものの、撮影ポイントが確定できたのはこの位置くらいでした。大井村~小平井
私の切符出費記録(大井村下車が判明)から、大井村の北川と南側を当時の五万分の一地図と現在の地図を付け合わせ、ストリートビューで確認してみると、廃線跡らしき小路はほぼ確認できるものの、撮影ポイントが確定できたのはこの位置くらいでした。大井村~小平井
井笠鉄道のしっかりした線路 1967.3.8
直線区間の先を右にカーブする。
左にカーブして直線区間へ入る 1966.12.9 撮影:田辺多知夫氏
この列車の位置に今は高速道路のインターチェンジがある。
山陽自動車道 笠岡インターを潜った小路(廃線跡)はその先が直線区間となり50年前の面影を残す。 googleストリートビュー
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南紀の小私鉄
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御坊臨港鉄道 終点日高川(リニューアル)
御坊臨港鉄道の眠いネガをスキャニングとトーン調整とリサイズをやり直して、2012年11月11日の記事をリニューアルしてみました。
御坊臨港鉄道の西御坊から日高川まで消えた区間を現地図上に赤で記入。
日高川の駅全景。日高川の手前で線路は終わり、右手に日高川を渡る熊野街道の天田橋が見える。日高川上流に日高材の産地があり、河口にある御坊市には製材・製紙業が多かったそうである。1964.07.09
日高川の駅。駅周囲には木材が積み上げられ雑然としていた。ここにあった機関庫は戦災で破壊され西御坊へ移転したが日高川氾濫で水没し災害続きの機関庫は紀伊御坊構内へ移転され屋根なし機関庫となった。
街外れにある日高川の駅前はひと気がなく閑散としていた。
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御坊の車両たち(リニューアル)
紀井御坊 1964.07.09
紀伊御坊の構内には車庫代わりに様々な車両が留置され、注目は元芸備鉄道キハニ19の大型キハ40801と、元富南鉄道キハ3の小型キハ103であった。この2両は当時の地方私鉄ではよく見掛けた両端に荷台を備えたタイプで、いかにも御坊臨港鉄道らしいキハであったが大型のキハ40801が多客時に出動するくらいでキハ103は使われていなかった。
紀伊御坊
DB158+キハ103
DB2012 立山重工製蒸機B20形の足回りを利用した森製作所製デーゼルロコ
DB2012
DB158 元B形蒸機をディーゼル化した森製作所らしい凸型ロコ
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有田鉄道(リニューアル)
2012年11月16日にアップした有田鉄道もスキャンやり直した写真と入替えました。
紀伊本線の藤並駅から有田川上流の金屋口までを結んでいた有田鉄道。廃線が2002年とは意外でよく生き続けた小鉄道であった。1964年に見た車両や施設はその後大きく変貌し、2002年廃線時の有田鉄道とはかなりイメージが異なる鉄道であった。
あまり話題にならない地味鉄道であったが、地元有田川町では鉄道施設や車両の保存活動が活発で、2010年3月に立派な「有田川町鉄道交流館」がオープンしている。
紀伊本線の藤並駅から有田川上流の金屋口までを結んでいた有田鉄道。廃線が2002年とは意外でよく生き続けた小鉄道であった。1964年に見た車両や施設はその後大きく変貌し、2002年廃線時の有田鉄道とはかなりイメージが異なる鉄道であった。
あまり話題にならない地味鉄道であったが、地元有田川町では鉄道施設や車両の保存活動が活発で、2010年3月に立派な「有田川町鉄道交流館」がオープンしている。
有田鉄道 藤並駅の光景。紀伊本線のホームに降りるとそこに有田鉄道の改札口があった。 1964.07.09
この日はキハ210が活躍していた。元国鉄42000を昭和27年に払い下げを受けた。藤並
キハ210に乗って着いた金屋口は御坊臨港鉄道と同様で木材だらけ。有田川上流が木材産地で御坊臨港の終点日高川とよく似ている。
スマートなキハ250 山鹿温泉鉄道の注文流れ品で昭和29富士車両製の新製気動車。
こんな機関車がいた.DB10
昭和29年森製作所製でこれも蒸機の足回りを利用したディーゼル機.
有田川が流れる金屋町の玄関金屋口の駅前風景
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野上電鉄 日方の車両
野上電鉄は紹介済みですが、未使用の写真で昭和40年の野上の車両を紹介します。この頃は関西大手私鉄の残党が殆どであった。以下は前回の紹介文です。
日方駅は国鉄海南駅と接続していないため、80mほど先に乗換え専用の「接続口」駅がある変わった駅であった。この二つの駅の間に拡がっている留置線には、南側に迫る和歌山の山並みを背に、至るところ元阪神の小型車オンパレードであった。よくぞこれだけ同類を集めたもので、5枚窓モハ24以外はどの車両もよく似ている。富山地鉄笹津線からやって来た小さなデ10型が入線したのはこの後の時代であった。後に人気者となった元阪神5枚窓のモハ24は既に入線していた。
野上電鉄で最も大型だった3扉のモハ23(元阪急1形26)。この車両もまた電動機とブリル台車は南海の中古品を流用したらしい。こんな由緒ある名車が活躍していた時代であった。
日方 1965.8.4
左からモハ26(阪神)+クハ104、 モハ31(阪神)+クハ101 日方 1965.8.4
日方駅は国鉄海南駅と接続していないため、80mほど先に乗換え専用の「接続口」駅がある変わった駅であった。この二つの駅の間に拡がっている留置線には、南側に迫る和歌山の山並みを背に、至るところ元阪神の小型車オンパレードであった。よくぞこれだけ同類を集めたもので、5枚窓モハ24以外はどの車両もよく似ている。富山地鉄笹津線からやって来た小さなデ10型が入線したのはこの後の時代であった。後に人気者となった元阪神5枚窓のモハ24は既に入線していた。
野上電鉄で最も大型だった3扉のモハ23(元阪急1形26)。この車両もまた電動機とブリル台車は南海の中古品を流用したらしい。こんな由緒ある名車が活躍していた時代であった。
日方 1965.8.4
日方
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野上電鉄 日方の車両2
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東武鉄道のC11
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美しき日本の風情8
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美しき日本の風情9
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富士急&富士山1
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富士急&富士山2
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海辺を走る土佐電安芸線
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