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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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昭和41年 よき時代の筑波線

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常総筑波鉄道筑波線は昭和40年6月に鹿島参宮鉄道と合併して関東鉄道筑波線になり、その後、昭和54年に関東鉄道から分離して筑波鉄道となった。
1966(昭和41)年に田辺さんが撮った筑波線を紹介します。この頃は関東鉄道筑波線が正しい社名だが筑波鉄道のラベルに入れてあります。
1966.10.10  撮影:田辺多知夫氏

愉快な国鉄乗り入れ列車が岩瀬方面へ向って走っていた.常陸桃山-真壁
国鉄水戸線が筑波駅まで乗り入れていたのでしょうか.

機関車はDC202 常陸桃山-真壁

筑波山麓でまだキハ303が活躍していた. 筑波-常陸北条

キハ303
筑波駅のキハ303

筑波駅のホハフ201

ホハフ201を挟んだ編成.真壁

 ホハフ201を挟んだ編成.

キハ401   筑波-常陸北条


土浦駅の筑波線

常磐線土浦駅風景


昭和42年 伊豆箱根鉄道鉄道線

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先日の伊豆箱根軌道線で1963(昭和38)年2月に廃止となった直後の鉄道線(駿豆線)大場工場で見た艤装中のモハ1000系のその後がその年の夏駿豆線 夏の新車でした。

そこから4年が経った1967(昭和42)年1月、田辺さんが鉄道線を訪問し沿線風景を撮っていました。
この頃の鉄道線は新車1000系を除いては旧国鉄の戦災車など旧国鉄の車両が大半を占めていた。モハ50形(50~59)、モハ60形(62、63)、クハ70形、クハ80形はどれも旧国鉄で1両1両に相違があるややこしい電車が富士を背景に走っていた。

1967.01.07 撮影:田辺多知夫氏

富士を背景に伊豆半島を走るモハ62(旧国鉄モハ31系)

富士を背景に伊豆半島を走るモハ54(旧国鉄モハ30系)

ED32(東芝車両製)が牽くこんな国鉄客車の乗り入れがあったのですね.

153系の乗り入れ.

昭38.西武所沢へ車体を自社発注した新型ボディの1000系 
新しい車体に古い台車の組み合わせがとても魅力的です.



あれから4年が経った軌道線のモハ205廃車体.

参考文献: 鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第6分冊 伊豆箱根鉄道 吉川文夫氏

京王線初台駅の今昔

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先日の京王線初台駅今昔の記事に関し、子供の頃に初台に住んでいた方から更に写真を送って戴きました。53年前(1963年)の初台駅とほとんど同じ位置で撮ったそうです。

写真を並べてみると、初台通りの商店街の道幅や、踏切遮断機といまの横断歩道の位置関係などほぼ符合しているそうで、オリジナル初台駅は相対式二面二線のはずで地下化工事期間中は写真で推測がつくように島式一面二線の仮ホームだったそうです。

水路上?に仮線された初台駅の下り線  1963.7.31.
1963年4月に新宿駅地下化が開業したが、新宿~初台はまだ地下化工事中で新宿~初台の地下化完成はこの1年後1964年6月7日であった。
初台駅の今と(昔).撮影:杉田様
ミタニビルそば屋(コクヨ店)、横断歩道(踏切)、初台通り、遊歩道(京王線下り線) 

京王線初台駅があったところの現在. Google Earth
京王新線の開通により地下京王線の初台駅は使われなくなり、京王新線に初台駅が設けられた。

ところで、この区間の地下化工事について鉄道ピクトリアル誌「京王電鉄1950~1960」によれば、用地買収を少なくする目的で旧玉川上水路用地と京王帝都用地だけを充当した工事で、地下京王線の工事工程順の図解がありました。

旧玉川上水路用地の上に仮線敷設したのが写真↓でこの後、仮線へ移動し本線の下に地下線を設けた。
文化服装学院辺りまで水路の脇を走るカーブが多い区間.1963年4月

甲州街道から文化服装学院の脇を走ると水路がある区間に入る.1963年4月

それにしても美しい電車が走っていた時代.デハ2150形 下高井戸 1962.12.7

広島市内線の単車

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昭和42年3月の朝、広島駅前で市内線を初めて見た時、アクが強過ぎて強烈な印象だったのが150形単車であった。大きな丸みがあるオデコと屋根、これぞ戦前から活躍し戦災をくぐりぬけてきた広島の路面電車のイメージがしたものだった。
この時は余りに強い個性で関心が薄かった150形だが、最近、映画で話題となったあの「江波」の行先表示を見つけると俄然関心が湧いてきた。この時に活躍していた単車150、400、450形を改めて見てみようと思います。

映画「この世界の片隅に」ですっかりお馴染みとなった「江波」行き単車.
6系統150形155.広島駅前 1967.03.07
150形は全長が9mもあり単車の中で最も大きい

朝のラッシュ時に次々とやってきた単車.6系統 150形157 

7系統横川行き150形159

6系統150形156(江波車庫保存車) 十日市町

3タイプの中で最も全長が短い400形.魅力的なスタイルの単車で、拘りの映画に描かれたのはこのタイプだったのだろうか?  400と450は側面の窓が5つしかない。 

400と類似の450形

広島市内線 単車が走っていた街

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150形、400形、450形の単車が活躍していた頃の広島の風景はこんなであった。

軌道線と鉄道線の接点 己斐(西広島)駅.1967.3.7

己斐(西広島)駅の400形404.中桟が入った側面窓のガラス.

己斐(西広島)駅ではこんなボギー車もいました.750形(元大阪市電)

己斐(西広島)駅の単車の先にあったのが鉄道線風景.かって単車450形も鉄道線に乗り入れたこともあったそうだ.

素晴らしき鉄道線の電車.

己斐から広島駅へ向かう400形

 土橋で分岐し己斐へ向かう400形、左に直進するとあの「江波」に向かう.  

単車で賑わう十日市分岐点の450形.

甲斐発宇品行きの400形、直進すると相生橋を渡る. 十日市町電停

倉敷市交通局 リニューアル

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倉敷市交通局をアップしたのは7年も昔でした。最も地味で何の特徴もない路線で書くこともないですが画像を今のサイズにしてリニューアルします。

1970年に設立された水島臨海鉄道の前身は、この倉敷市交通局であった。
昭和37年の夏、旅客は元国鉄のキハ305が水島~倉敷市間を往復していて、地味で話題もない鉄道であった。交通公社の時刻表に出ていたのを頼りに訪ね、水島駅から倉敷市まで乗ってみた。

真夏の太陽のもと、ひと気がない殺風景な水島駅. 1962.07.30

側線にいたオハ31系4両、これで運ぶお客がいたのだろうか.

ホフ301  

午前11時 静まり返った水島駅.表示板を見ると次の列車は11時50分までない.


水島駅で発車を待つ倉敷市行のキハ305.

キハ305の車内

模型用に撮ったキハ305の下回りだが、この種の写真は結局活用されることは無かった.

山陽本線の車窓から見た倉敷市駅

美しき日本の風情7

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昨年秋の6回まで続けた「美しき日本の風情」シリーズでアップして直ぐに引っ込めてしまった第7回目がありました。 

BSジャパン「ローカル線気まぐれ下車の旅」の番組に提供した画像(と言ってもTVはロクなことありません)。津軽鉄道 五所川原駅 1966年3月. 3月とはいえ寒くてなんとなく正月休みの帰省のような雰囲気です。

豊沢街道を行く花巻電鉄軌道線 交換駅二ッ堰? 1964年8月

お盆休みの羽後交通雄勝線 1964年8月
今は明治村で走っているこの古典客車はしっかり整備して美しい状態で日常的に使われていました。小野小町の秋田米どころでどんな新型車両よりも美しい古典車が走っていた。

茨城交通湊線 昭和41年

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マルーン一色の北海道勢が大挙入線する前の昭和41年、いかにも茨城交通らしいツートンカラーの気動車が活躍していた時代がありました。茨城交通茨城線の廃線で転じて来た気動車ケハ401(山鹿温泉鉄道向)やケハ301(元国鉄07)かと思ったが茨城線から入線があったは後の昭和46年頃でした。
それにしてもこの数年前までナスミスウィルソンがオハ31系を牽く海水浴列車が走っていたとは驚きで、大変に変化に富んだ楽しい湊線だったのですね。

撮影:田辺多知夫氏 1966.02.09

阿字ヶ浦のケハ301

茨城線にも同型401がいた 湊線ケハ402

  この時代独特の沿線風景によく似合う ケハ402.


ケハ301(元国鉄42000)

海辺?を行くケハ402

湘南2枚窓タイプのケハ402とケハ601

昭和35年にデビューした日本初のステンレス製気動車 ケハ601

電車崩れではなく客車として造られた東武電車形客車 ナハニフ22、21

昭和39年頃まで右のオハ31系を牽いて活躍したナスミスウィルソン製 4号機.

ケキ103  背後に民家のTVアンテナが林立していた時代.

以下は昭和47年夏
茨城線からやってきたケハ401はマルーン一色に塗り替えられた.1972年夏

私が訪問した昭和47年夏は茨城線から来たケハ401 ケハ45がいたが、北海道勢軍団が主力になっていて活躍の場が無くなっていたようだ。


宮下洋一作品展-2

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先日、さかつうギャラリーで開催されたchitetsuさんの「宮下洋一作品展-2」を見てきました。今年も数えきれないほど多数の作品が展示されましたが、なかでも新作「福島交通さいわい橋」は、私も木橋「さいわい橋」に思い入れがあり作品に惹きこまれました。50年前の「さいわい橋」風景と並べてみました。
作品撮影は全てiPhone7です。

宮下洋一作品展-2

 福島交通さいわい橋 1/87 12mmゲージ

 キャベツ畑の一角

冬のさいわい橋 1966年12月 
上の写真と同一方向から見た改修直後のさいわい橋です.

田辺さんの名作 夏のさいわい橋 1964年7月

お馴染み中越地方鉄道 田島口駅 1/80 16.5mm

阪堺電気鉄道 住吉

阪神国道線 金魚鉢

東武鉄道リバティ 運行開始

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4月21日運行開始した浅草発6:30の会津田島行きリバティ一番列車に乗って南会津へ。ダイヤ改正で残念ながらあの浅草発会津田島行2ドアセミクロスシート快速は無くなってしまったのですね。

先日の小田急ロマンスカー利用箱根一泊と比べてみると、同一費用で満足度は数倍以上であった。見どころふんだんの日本のふるさと南会津、温泉宿の料理の素晴らしさ、そして特急の楽しさ。今度はリバティに乗って昔SLを追いかけた会津線撮影名所に行ってみたい。

初日の浅草駅 6:30発R表示とリバティ取材陣.

浅草発車時の3両(会津田島行)+3両(東武日光行)

会津田島に到着した一番列車 2017.4.21

会津田島到着の歓迎ぶり
会津田島駅前は町総出のリバティ歓迎一色で大変な盛り上り.
一番列車乗客に地元食べ物や日本酒がふるまわれた.

地元の号外
会津田島 クマ汁のふるまいで歓迎の魚屋

会津鉄道と並ぶリバティ


日本のふるさと南会津 前沢曲家集落.いずれ大内宿のように「道の駅」化してしまうのか?

鹿島参宮鉄道竜ケ崎線

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昔、ブログでアップした画像は横500pix程度が多かった。そんなネット環境が年々進化して今やパソコンで見ると横900pix程度でも小さく感じるくらい。facebookでさえスマホで撮ってアップする時の自動リサイズは横960pix。昔アップした小さな画像を1024pixにしてみました。


常磐線佐貫駅で畑の中にポツンと待っていた気動車に乗ると、すぐに終点竜ヶ崎駅に到着する。駅構内に立つと遠くに見えるトラックやバスはまだボンネットの時代であった。盛んに入替え作業をやっていたCタンク4号機は暫くして佐貫へ向かった。55年も遠い昔の風景はまるで模型のセクションレイアウトのようだ。

1962年3月 常磐線佐貫駅
元国鉄キハ41000形ではなくキハ40402が動いていたのが幸いであった。

1962年3月 竜ケ崎駅




 



江ノ電の人気

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この連休は江ノ電が大変なことになっているそうですね。
主要駅では、江ノ電に乗るだけの観光客が長蛇の列で1時間待ちとか。
一時、江ノ電の廃線が検討された時代には想像もできないこと。
鎌倉~江ノ島地域の人気が下地にあるが、
いかに小私鉄路線に乗ることが楽しいかSNSで拡散されたためでしょう。

 江ノ島 - 腰越 1963.04.28

  腰越

江ノ島

腰越 - 七里ヶ浜
鎌倉高校前

鎌倉駅

玉電大橋

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4年前にアップした「玉電風景 大橋」の写真大きくしてみました。
精肉店と化粧品店があった車庫入り口は、今や巨大な大橋ジャンクションに。
昭和44年の大橋、246号が広々として空が広い。


大橋の商店街風景をよ~く見ると精肉・鮮魚店の脇に電車が顔を出している.ここが大橋車庫の入出庫線であった.  1969.04.22鮮魚店と化粧品店の間から電車が出てくる。 

道路を横断し商店街の間を大橋車庫へ入って行くデハ200形. 

下高井戸行きのタルゴ式連接車も乗客が溢れていた.1969.04.22


広々とした大橋停留場. 

「連結2人のり」が表示された連結運転車. 大橋停留場

大橋停留場の向こう高台の木立の中に氷川神社が見える.

最後の駿遠線訪問

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駿遠線を最後に訪問したのは袋井線(袋井~新三俣)廃止の直前であった。
1963(昭和38)年の駿遠線隆盛が僅か4年後の1967(昭和42)年には衰退を迎えていた。
ちょうど、1964年東京オリンピック開催を境に日本が変貌して行く時代であった。

訪問年月日メモ
1.1963(昭和38)年4月4日訪問1 初めての訪問 袋井側/ 諸井
2.1964(昭和39)年3月25日訪問2 袋井駅と新藤枝駅
 1964(昭和39)年9月26日 大手~新藤枝 堀野新田~新三俣間 廃止 

3.1964(昭和39)年11月1日訪問3 袋井側/ 芝 
4.1966(昭和41)年9月23日訪問4 地頭方~大井川
5.1967(昭和42)年7月9日訪問5 最後の訪問 藤枝側/大井川と袋井側/新横須賀
 1967(昭和42)年8月27日 袋井~新三俣廃止間 廃止 袋井工場閉鎖 DB601~609の全廃
 1968(昭和43)年8月21日 大井川~堀野新田間 廃止
 1970(昭和45)年7月31日 新藤枝~大井川間 廃止


新藤枝を発車し東海道線を越える.1967.07.09

駿遠線の土手から見る東海道線EH10  藤枝

昭和38年 上野駅

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昭和38(1963)年の上野駅といえば、写真家 本橋成一氏の「上野駅の幕間」1979~1982年から更に16年以上も昔の上野駅ということになります。時代をさかのぼってもあの「上野駅の幕間」の風景はあまり変わっていないようです。上野駅の風景は宝の山であった。

上野駅 1963年3月16日 撮影:田辺多知夫氏



6番線からC58の客列車が発車する.成田線でしょうか.



駿遠線の線路

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駿遠線を袋井から諸井の先へ進むと何の変哲もない茶畑や田んぼの中をナローの線路が延びていた。ナローの線路に威圧感がなく自然に溶け込んでいる。こんな線路が御前崎半島を延々60kmほど半周する駿遠線は正に巨大軽便。

諸井~芝  1964.11.01 


駿遠線の客車

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駿遠線の客車の話題が出たところで客車の写真をランダムにアップしてみます。
全て撮影日1967年7月9日だけで、巨大軽便 総勢45両(客車)のほんの一部に過ぎません。


ハ3 袋井工場

 ハ115
 ハ19
 ハ2
 ハ106
  同時期撮影でこれとは別のハ106(バス窓ではない)がいる.駿遠線にはよくあること.

 ハ103
 ハ10
 ハ9
ハ28
ハ13 新藤枝

ある日の水浜電車 昭和41年(3)田園を行く

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田辺さんの水浜線第3回目の訪問で撮影場所が分からなかったのが田園地帯を走る風景でした。水戸の樫村様に現地調査戴き浜田~谷田間ということが判明しました。今も水浜と表記された杭があるそうで、小さな道路に水浜線の面影を残しているようです。

モノクロ写真 浜田 - 谷田 1966.02.09撮影 

田園風景の今昔 浜田 - 谷田.現在のカラーは全て樫村様撮影

浜田 - 谷田

水路を渡る風景の今昔.浜田 - 谷田

前回、新緑の木立を撮影した場所を再び訪問、今回は冬の木立.浜田 - 谷田

浜田 - 谷田

水浜の杭.

谷田 - 六反田  1966.02.09

谷田 - 六反田 1回目の訪問1964.04.13 
六反田風景の今昔.

駿遠線の客車

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先日アップした駿遠線客車は本意でない車両写真の羅列で失礼しました。
せっかく客車車両解説のコメントを戴きましたが、記事を入れ替えます。


東海道新幹線が走る時代にまだこんな別世界があった.袋井のハ9 1967.07.09


  袋井工場にいたくたびれたハ3.1967.07.09 

O番模型製作でお問い合わせがあったハ1.  袋井 1964.03.25


新藤枝を発車したハ13.まだ大手線があった時代.1964.03.25

最高傑作 ハニ1.  新藤枝 1964.03.25

ハニ1の荷物室ドア

車体と台車のバランスを見るために撮ったもの.ハニ1

雨上がりのひと時.ハ20  新藤枝

鉾田線の元東横キハ

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関東鉄道鉾田線の元東横キハ42202のカラーリングについてコメント欄にお問合せがありました。この時代のキハ42201と2は一体どんなカラーリングだったのでしょうか。
それにしても今の時代になって見てもほんとう美しい気動車でした。

キハ 42201  石岡 1966.08.28

キハ42202 石岡

以下はモノクロ画像のカラー画像化です。
ツートンカラーの下側は赤ではなく水色のよう.

キハ42202より濃いブルー(紺色)だったキハ201 1966.08.28
  
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