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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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ある日の水浜電車 昭和39年

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素晴らしき水浜電車、昭和39年ある日の水浜電車を田辺氏のアルバムから。
撮影: 田辺多知夫氏 1964.04.13

 昭40年6月10日で上水戸駅前~水戸駅前間が廃止される1年前の水戸駅前風景







ある日の水浜電車 昭和39年2

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素晴らしき水浜電車、昭和39年ある日の水浜電車を田辺氏のアルバムから。
撮影: 田辺多知夫氏 1964.04.13
次は浜田から大洗までの風景です。

谷田電停の風景
小さなホームに赤子を背負った母と子、踏切の先を見れば、藁ぶきの民家が連なる、軒下に干された洗濯物、埃道を走るオートバイ、その先に休むオート三輪・・のどかな時代だ。

やがてやって来た水浜行電車.

いかにも水浜線らしい風景 谷田~浜田
4月中旬の日を浴び、新緑始まる頃の木立、低い植栽には春の花が満開。

谷田~六反田

さようなら水浜電車(1)

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水戸駅前~上水戸間最終日の水浜電車を田辺氏のアルバムから。
撮影: 田辺多知夫氏 1965.06.10

田辺さんの2回目の訪問は上記区間の最終日でした。

水戸駅前

翌年もボンネットバスが健在.




さようなら水浜電車(2)

さようなら水浜電車(3)

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次は専用軌道に入って上水戸までの風景.

住宅すれすれに急カーブして走る路面電車らしい風景.

専用軌道区間にある砂久保町.

光台寺裏を水戸駅前へ向かう電車.上水戸-谷中

旧陸軍九七式軽貨車改造の無蓋車.
133号が車輪を上水戸に届けて浜田へ引き上げるところなのでしょう.

茨城交通鉄道線と接続する上水戸駅.正面の小屋の前を左右に鉄道線の線路が走る.

さようなら水浜電車(4)

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水浜線最後の日、田辺さんは水戸駅前から大洗方面へも少し足を向けていました。
こちらの区間(水戸駅前~大洗)はこの後、1年ほど経ってから廃線となりました。


水浜電車は水戸駅前を出てすぐに水郡線をオーバクロスする.1965.06.10

遠くに見えた鉄橋がこれでなんでしょう.

その下を水郡線が走る.

ホームに原子力館の看板がある「三高下」電停

水戸駅前-本社前


ある日の水浜電車 昭和41年(1)

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田辺さんはよほど水浜線を気に入ったのか計4回訪問しています。

1回目1964.04.13 水戸駅前~大洗撮影 ある日の水浜電車(昭和39年)
2回目1965.06.10 水戸駅前~上水戸撮影 さようなら水浜電車
3回目1966.02.09 水戸駅前~大洗撮影
4回目1966.05.14 水戸駅前~大洗撮影 (全廃は1966.05.31)

水戸駅前~東棚間の軌道 (減速進行さんのサイトより)
原子力の看板がある駅は「三高下」ではなく「一高下」かもしれない.

三高下~一高下の丘陵地帯.遠くの小さな駅が三高下でしょう.1966.02.09

左に降りていく軌道跡が見える.電車はこの先↙で水郡線を越える、いや既に超えた後なのか?

水郡線を越える.1966.02.09

水郡線を越えると高架線を走る.1965.06.10

 そして常磐線を越える.1966.02.09
常磐線と並走し高架を下り東棚町に向かう.

ある日の水浜電車 昭和41年(2)大洗海岸

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水浜電車が最も大洗海岸に接近する魅力溢れる区間を、これまでアップしてきた田辺さんと青蛙さんの写真を繋げて推定してみました。昭和41年、大貫から曲松まで海辺の電車の風景はこんなだったのでしょう。

昭和初期の大洗 国土地理院

昭和15年の大洗海岸 大貫を出て海に向かって左にカーブするところ.
鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第5分冊より

大貫停車場から海に向って直進し左にカーブする.1966(昭和41)年2月

左カーブの先を直進し、その先で右カーブすると曲松駅がある(再掲)1966(昭和41)年2月
この頃、軌道から海岸までは昔の写真と違ってずっと遠のいているのでしょう.

大洗の海岸 (再掲) 1966(昭和41)年5月

磯浜海水浴場に隣接していた曲松駅(再掲) 1966(昭和41)年5月


昔の鉄道仲間の思い出

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田辺さんが遺した画像の中に貴重な記念写真を見つけました。昭和39年3月の遠鉄奥山線の帰路に寄った駿遠線も雨が止まず東海道線で東京へ引き上げるところです。

学生時代に地方私鉄を撮り歩いた鉄道仲間は田辺、飯島、和田、風間の四人であったがまず四人揃うことはなく2~3人で地方へ撮りに行くことが多かった。
貴重な記念写真と言ったのは、四人揃った旅だけでなく、我々はわが身の記念写真は撮らない主義(フィルムが勿体ない)であったので、まずこういう写真は皆無であった。今思えば一つの旅で数枚くらいは撮っておけばと後悔しきり。

1964(昭和39)年.03.29
故田辺氏

故飯島氏 彼は撮られるのを徹底して嫌った.

 和田(青蛙)氏

私(風間)です.

ある日の水浜電車 昭和41年(3)田園を行く

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田辺さんの水浜線第3回目の訪問で撮影場所が分からなかったのが田園地帯風景でした。
現地の方に調査戴き浜田~谷田間ということが判明しました。

浜田 - 谷田 1966.02.09撮影 




前回新緑の時期に撮影した場所を再び訪問、今回は冬の木立.


谷田 - 六反田

山陽電気軌道 東下関~唐戸

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車庫があった東下関駅 1967.2.27
煙突から流れる真黒い煙、道行くジープやバス、街を行く人々、建物など、いかにもこの時代を感じる。駅のホームに犬小屋か? この時代は道路に放し飼いの犬もいた。

山の口

 丘の上に並ぶ住宅. 新町四丁目

電車通りに並ぶ古い建物. 新町三丁目

川沿いの新町三丁目


唐戸の街.ここで長府行と幡生行が分かれる。

昔の鉄道仲間

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田辺さんが遺した画像の中に貴重な記念写真を見つけました。昭和39年3月遠鉄奥山線の帰路に寄った駿遠線で雨が上がらず早目に切り上げ東京へ向かっているところです。

学生時代に地方私鉄を撮り歩いた鉄道仲間は田辺、飯島、和田、風間の四人であったがまず四人揃うことはなくこのメンバーの中の2~3人で出掛けることが多かった。
この写真の時はもう一人諸河氏(のちの鉄道写真プロ)も参加していたが、彼は駿遠線の新藤枝~袋井間を全線乗車する余力があり藤枝で別れて我々は先に帰路についた。
貴重な記念写真と言ったのは、珍しく四人揃った旅だけでなく、自分たちの記念写真は絶対に撮らない主義(フィルムが勿体ない)であったので、まずこういうスナップ写真などはあり得なかった。今思えば一回の旅で数枚くらいは撮っておけばと後悔しきり。

1964(昭和39)年3月25日
ブログでたびたび使わせてもらっている名作の撮影者 故田辺氏

「私鉄の車両」シリーズ全24巻 保育社を遺した故飯島氏.カメラ向けられるのを最も嫌った彼.

時々ブログのコメントに登場する和田(青蛙)氏.彼と一緒に旅したのが最も多かった.

私(風間)です.

この日、諸河氏が乗った駿遠線. 新藤枝から袋井まで軽便60kmの旅.

新藤枝駅

廃線間際の水浜電車

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田辺さんの水浜電車シリーズも今回が最終回となります。
4回目の訪問は昭和41年5月30日ということで廃線の前日ながら静かな一日であったようです。2015年7月20日にアップした「ある日の水浜電車 昭和41年」がそれでした。

田辺さんが3回目、4回目に訪問した昭和41年は戦後の車両は仙台へ売却済みで、戦前の旧型車だけが走っていた時代。この時期の水浜電車の風景が最も魅力的に見えるのは旧型車だけが活躍していたせいもあるのでしょう。

本町五丁目のSカーブを行く木造車.1966.05.30

 棚町(旧本社前) - 水戸駅前



平戸近辺か?

涸沼川橋梁 平戸 - 磯浜

大洗の松林. 東光台 - 大洗 

海の香りが漂ってきそうな終点大洗.

大串と似ているが?

京王線 中型車最後の活躍4

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京王線中型車を撮った頃は新宿駅地下化が完成し地下駅に移行する頃であった。

撮影場所が不明であったが、ここが初台駅とは!  1963.07.31 
初台の地下化は1964年6月


これが今の初台なんですか! 杉田様よりメールで戴いた写真.


新宿駅地下化完成(1963年4月)直後のダブルルーフ中型車.この時はまだ昇圧化前でその後すぐに昇圧1500V化で消えた中型車.撮影:田辺多知夫氏 1963.06.02 昇圧化は1963年8月

水浜線シリーズを終えて

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大貫停留場  1966年5月 撮影:青蛙氏 

田んぼの中を走る. 1966年5月 撮影:青蛙氏 

2013年11月29日の青蛙さんからのメールに添付されていた水浜線の衝撃的な大貫停留場の1枚。これが本ブログで水浜線を取り上げるきっかけでした。青蛙さんの画像が暫く続いた後、田辺さんが4回訪問した画像が見つかり水浜線の記事は計18回も続きました。

水浜線がこれほど魅力ある路線だったとは!!  私は最近になってそれに気付きました。田辺さんは4回訪問して沿線各所を撮影されましたが、水浜線の魅力はまだまだ尽きないようです。
水浜線の風情溢れる魅力は今に至るまで殆ど知られていなかったと思います。市内大通りを走る風景はどこでも見られた路面電車風景ながら一歩専用軌道へ入ればそこは別世界であった。車両写真を大通りと浜田車庫で撮ればそれでおわり、そん車両ファンが多かったのかもしれません。

当時は鉄仲間で訪問の成果(写真)を見せ合うことはなく、水浜線未訪問の私にとってその素晴らしさは知る由もありませんでした。約50年を経て初めて写真で見た水浜線の魅力、この鉄道風情にタイトルを付けるとしたら「海辺のトロリーライン」とでも、これはぜひ廃線跡めぐりに行かねばなりません。軌道跡の小路に立つと潮風、匂い、陽光など当時の空気を感じることが出来るかもしれません。

水浜線最終回の記事に戴いたコメントをここに紹介させてもらいます。

4月中旬の日を浴び、新緑が始まる頃の木立、低い植栽には春の花が満開.
谷田~浜田  1964.04.13  撮影: 田辺多知夫氏

何も説明がいらない感動の一場面. 大串 1966.05.30
撮影: 田辺多知夫氏 

匿名


 匿名 さんは書きました...

素晴らしかった水浜電車こと、茨城交通水浜線のシリーズをありがとうございました。数々の素晴らしい光景に、思わず我を忘れて見入っておりました。こんなにも素晴らしい軌道線(路面電車)があった事、それをこのように纏まった記録にされて事は、後世への画像遺産として誠に相応しいものと思われます。

思えばかつて、あちこちに素晴らしい路面電車が存在していました。私の地元にも、伊豆箱根鉄道の島津軌道線(三島~沼津間)がありました。その廃線跡となった道路を、たびたび所用にて車で通行します。そのたびに、よくもこのような狭い道路(旧国道1号線)に、曲がりくねった路上に、ポール集電の電車が走っていたものだと感心します。そして古地図に現状を重ね、その沿線にあった素晴らしい光景を想像しております。

このたびの水浜線は、その沿線風景の変化の大きさに驚かされます。ことに海岸の風景、松林の傍らを走る姿や、鄙びた漁港の終点に向かって走る姿は感涙物です。その一方で海水浴客が押し寄せ、旅客輸送に翻弄された夏の風物詩など、人々に永遠に伝えられるべき存在の軌道線だったと思います。その姿を現実の物とし、シリーズで掲載して下さった事に、重ねまして心より御礼を申し上げます。これからもぜひ頑張って下さい!


国鉄横手駅の片隅で

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羽後交通横荘線は以前に1回だけ車両を主体に取り上げたことがあります。
横荘線のあの古ぼけた機関庫の位置関係が気になって写真を並べ確認してみました。

横荘線は横手駅を発車すると国鉄の線路の合間を縫って横手機関庫の脇を通り、その先にある横荘線の小さな機関庫の脇を抜け畑に出て奥羽本線と並走して南へ向かっていた。
撮影 1966.03.04


構内配線図は略図です
横手駅を発車した列車は奥羽本線と国鉄横手機関区の合間を縫って走る.

その先に横荘線の機関庫があり奥羽本線と並走し線路は南に延びる.

横手へ到着する気動車が機関庫脇に顔を見せる.

横荘線機関庫を背にして奥羽本線と並走する横荘線の混合列車.遠くに見える横手機関区の煙.

北(横手駅)側から見た横荘線の機関庫

キハ2、3は2台ともバケット無し側が南側となる.

機関庫に対面して横手駅側にもう一つ格納庫があった.背後が横手機関区.


国鉄横手機関区の風景

横手駅から横手機関区の脇を南に向かう線路.

横手駅の奥羽線特急つばさ

旧東海道を行く木造ポール電車1 リニューアル

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2011年5月に投稿した伊豆箱根鉄道軌道線、あれから6年が過ぎ、今のフォーマットに合わせてリニューアルします。当時のコメント欄はそのまま残してあります。

旧東海道の未舗装路の脇を木造ポール電車が三島と沼津の間を走っていた。この軌道線がまもなく消えるのを知り、正確な廃線日も知らずに訪問したのが1963年2月22日。廃線して18日が経っていた。旧東海道を行くこの素晴らしい軌道線光景を僅かの差で逃してしまい、悔しい思いをした。三島広小路の駅は何もかもがそのまま残っていて今にもポール電車がやってきそうな雰囲気であった。

その先には外されたレール、道路の凸凹など軌道の面影残す旧東海道が沼津方面へと続いていた。こんな軌道線の名残を求めて歩き、そこから現役時代の軌道線を想像してみた。幸い車両の殆どは鉄道線大場車庫に集結していた。素晴らしき伊豆箱根鉄道軌道線。
1963(昭和38)年2月4日に廃線となっていた。

旧東海道脇のドロ軌道を、三島広小路から沼津までポール電車が走っていた.
外された軌道線レールと軌道跡が残る廃線直後の風景. 1963.2.22

鉄道線の三島広小路から軌道線が出ていた.廃線直後の駅はそのままの状態で、
今にも電車がやってきそう.

三島広小路を出ると右にカーブし旧東海道に入る.左は鉄道線への連絡線

廃線直後の三島広小路の商店街.軌道跡は舗装路に.

線路がはずされた旧東海道.

国立病院前の一つ手前 長沢にあった車庫. 
 
長沢車庫から三島方面を見る.道路の右側が廃線跡

こんな木造ポール電車が旧東海道を走っていた.大場車庫

旧東海道を行く木造ポール電車2 リニューアル

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廃線前の昭和36年に台風で黄瀨川に架かる橋が流出し、三島広小路から沼津行きは国立病院前で折り返し運転となり、その先の国立病院前~沼津間は代行バスを運転していた。川向うの沼津側に残された3両は廃車になり、最終日まで残ったのは7両(内1両休車)であった。

ED11(元国鉄アプト式電機ED40形)の背後に見える軌道線の車両.大場車庫

鉄道線の大場工場に集結した軌道線の車両.1963.2.22
最終日まで残った7両がそのまま留置されていた.

廃線記念にオープンデッキの花電車3号に改造されたモハ202.
201と202の西武時代はこんなオープンデッキで伊豆箱根転入時にドアをつけた.


モハ15(元大雄山線)車中から見た隣の異様に運転台が低いモハ206頭部.

最後まで残った小ぶりで頭が下がった最も魅力的な電車モハ206   1963年7月
同型205は廃車体で残っていた.

モハ45さてこの車両は何か? 

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鉄道線大場工場の中では西武へ発注したモハ1000系の自社艤装中であった.
昭和38、39年に2編成6両が導入された.車内のクロスシートが見える.

旧東海道を行く木造ポール電車3 リニューアル

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廃線直後に鉄道線大場車庫に集められた車両は休車1廃車体3を含め計10両で、半年後に訪問した時もそのままの状態でした。旧東海道を走った木造ポール電車を車両一覧としてみました。


モハ15 15~17が大雄山線から昭25年に転入.元鉄道線用でかなり車体が大きい.1963.2.22
モハ16 1963年7月
モハ17

モハ206 1963年7月
モハ206と同型のモハ205

モハ8  元武蔵野中央電気鉄道軌道線.大雄山線を経て昭和24年本軌道線へ.
当線唯一の半鋼製で廃線時は休車中. 

元西武モハ201

元西武モハ202

モハ204
モハ204と同型の203で元はオープンデッキ.

参考文献: 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第4分冊

旧東海道を行く木造ポール電車4 物置小屋のような駅

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廃線になる以前、1961(昭36)年6月の台風による木瀬川橋の流失で国立病院前~沼津がバス代行運転を行っていた。このバス代行区間を国立病院前から廃線跡を歩いて沼津駅前まで向かったが何故か軌道線沼津駅の写真が1枚もなく下記のこんなメモがあった。

レールを組んで板を張った軌道線沼津駅

軌道線沼津駅
軌道線沼津駅は確かに物置小屋のような駅で中に電車が何両か留置されていた。1963年2月廃線の1年半前から使用されなくなった沼津駅。 1963.2.22記


廃線前にバス代行運転していた時代の沼津駅の風景1枚を、HP「む~さんの鉄道風景」からお借りしました(掲載許可済) 

こんなだったのですね、軌道線沼津駅. 1962.1.28 撮影:む~さん

この時、203、205、17の3両がこの沼津駅に取り残され廃線前に廃車となり、大場車庫でダルマになっていた3両と一致する。
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