$ 0 0 田辺さんのネガに遺された磐越東線のD60と磐梯山麓の沼尻鉄道。旅は常磐線四ツ倉のC62「ゆうづる」から始まっていた。1966(昭和41)年夏の小旅行、まだ常磐線や磐越東(西)線の蒸機、そして沼尻鉄道が健在のよき時代であった。撮影:田辺多知夫氏 1966.08.09常磐線特急「ゆうづる」 四ッ倉夏らしい磐越東線のD60列車. 川前~江田磐越東線の名所 小川郷~夏井真夏の沼尻鉄道.1967(昭和42)年秋に運転休止になる1年前、まだこんな沼尻らしい編成が走っていたのですね。この頃は磐梯急行電鉄になっていたのでしょう。いかにも高原列車らしい雰囲気が.冬とは全くムードが変わる夏の沼尻駅沼尻鉄道の強烈な個性素晴らしい真夏の沼尻デルタ線光景.東北本線「はくつる」 郡山
$ 0 0 山陽電軌を彦島口からアップしたのが2011年2月、あれから5年以上も経ちました。時間が経てばたつほど背後に写る街並みが新鮮に見えてきます。そしてブログ環境も5年も経てば激変、今では小さな画像に不満だらけ、新しい画像を追加しリニューアルしてみます。まだ薄暗い朝、街が動き出す頃 1967.2.27大和町線の終点「彦島口」から下関に向けて似たような工場がや古い建屋が連なっていた。あの工場は何だったのか、写真を順に並べて工場の位置関係を確認してみた。工場の合間に点在する古い建屋はいかにも戦後の雰囲気を残している。彦島口を発車した電車は大興製函段ボール工場の前を下関方面に向かう.背後には大衆食堂が2軒連なる.段ボール工場の先には屋上にハムソーセージの看板掲げたマルハ工場が見える.マルハ工場の出勤風景が始まる.大和町二冷前 良く似た大きなビルは? マルハ工場と思ったがよく見ればそうではなかった.電車の背後にタクシー会社と美容室が.終点 彦島口、本州はここで終わる.この先の橋を渡ると彦島へ.左手に並行する山陽本線は彦島へ渡ってから関門トンネルにもぐる.左手に山陽本線下関のヤードがある.
$ 0 0 画像を横1024pixから初めて1600pixに拡大してみました。朝が明け行く大和町の大通り. 1967.2.27道路にまだクルマは少ない.賑やかな通勤時間になってくる頃.西口幡生行に乗り換えて中心部へ向かう通勤・通学客.下関駅の西口
$ 0 0 昨日の軽便模型まつりから。1/80ナロー猫屋線客車(塗装前)11月の猫屋線発売で今後の9mmナローがどういう展開になるのか。これまでの1/87 9mmナロー模型界に1/80 9mmナローのコンセプトをどう打ち出すか(提案)に掛かってくるでしょう。単なる低価格路線に終わらないで欲しい。新小松駅。国鉄北陸本線と軽便尾小屋の対比が軽便模型の醍醐味.カメラ位置のせいか北陸本線1/87がまるで1/80のように大きく見えてしまう。国鉄北陸本線の向こうに小さな軽便尾小屋がたたずむ.1/87 3'6''ゲージと2'6''ナローゲージの対比.昭和37年夏、三重交通から転籍直後のホハフ8三重交通カラー懐かしい西大野駅Oナローの素晴らしい情景.
$ 0 0 車庫があった東下関駅 1967.2.27煙突から流れる真黒い煙、道行くジープやバス、街を行く人々、建物など、いかにもこの時代を感じる。駅のホームに犬小屋か? この時代は道路に放し飼いの犬もいた。山の口 丘の上に並ぶ住宅. 新町四丁目電車通りに並ぶ古い建物. 新町三丁目川沿いの新町三丁目唐戸の街.ここで長府行と幡生行が分かれる。
$ 0 0 以前、弦巻3丁目の交差点のことを紹介したことがあります。この交差点のすぐ近くに1992年から(株)ネコ・パブリッシングがあったことを今日初めて知りました。会社が碑文谷へ移転する前に暫くこの弦巻に本社があって、その場所は昔から住んでいる友人宅の正面でした。昭和30年代前半のバス停「弦巻3丁目」ここが弦巻3丁目。昭和37から昭和41年にかけて鉄仲間と地方私鉄めぐりの旅プランを練ったたまり場、それがこの写真のバス停を降りたところの高校同級生のお宅であった。写真はその5年前くらいだろうか。この写真を提供してくれたのがすぐ近くに昔から住んでいるもう一人の高校同級生(非鉄)で、今もよく電話する相手であるが、彼の家の正面にあるカーマニアらしきクルマが出入りするビルの昔話を以前からよく聞かされていた。そのビルこそが1992年に用賀から移転してきた(株)ネコ・パブリッシングであった。初期のRMライブラリーでお世話になった頃は碑文谷に移転した後で、私は碑文谷以前のネコ・パブを全く知らなかった。
$ 0 0 昭和30年頃の世田谷といえば、過去に数日間だけこんな写真をアップしたことがあります。写真は、1960年代の高度成長期が始まる前、デハ2200形登場後からすると1950年代の後半でしょう。私は喜多見で各停に乗って成城で急行に乗換え下北沢までの通学はこの後の時代であったが、小さな中学生の身体は大人達に挟まれて浮いたままであった。座席の前に立ち背後からくる圧力を手で支えきれない客は座席客のヒザの上に崩れ落ちる。時には窓ガラスが割れることもあった。下北沢までのノンストップ・ノロノロ運転で満員電車の乗客は長い時間を耐えていた。下北沢で乗換える客が殺到する井の頭線渋谷行きはもっとひどかった。夏は着膨れがなくなり冬よりマシだが車内にクーラは無し、夏のサラリーマンは皆ワイシャツ姿が当たり前で夏にスーツ着用できる時代ではなかった。こんな小田急の頃があった。 急行に新鋭デハ2200形が登場。左の各停は1400か1200形でしょう。急行には乗れない小学生が眺めている。 朝の成城学園前各ドアごとに押し込み駅員が配置して、押し込みアルバイトもいたのか全身使って押し込む.車掌氏はハラハラし最後の閉まらないドアを数人で押し込んで電車はやっと発車する. 画像所蔵 狛江市 吉原様
$ 0 0 1970(昭和45)年のSL運転会で観音下~倉谷口で撮った写真を見ると、背景に鉱山用ゴンドラが見える。この時ゴンドラが動いていた様子はなく、昭和37年の日本鉱業の尾小屋鉱山閉山で私はゴンドラはとっくに使われていないと思い込んでいた。しかし引き継いだ北陸鉱山が細々と採掘を続けていたようで写真の翌年の北陸鉱山閉山までゴンドラは使われていたかも知れない。もしゴンドラが使われていたとしても、産出物を鉄道輸送したような施設は見当たらず尾小屋が鉱山鉄道と言える時代はとっくに終わっていた?鉱山用ゴンドラが見える観音下~倉谷口 1970.11.03昭和37年の尾小屋鉄道.1962.08.01遡ること8年、昭和37年は日本鉱業が尾小屋鉱山閉山と同時に傘下の尾小屋鉄道から撤退している。この夏はまだ車両に日本鉱業の社紋◎をつけていて、なるほど鉱山鉄道かと思ったが、それらしきイメージの施設は鉄道用ではなくトラック輸送用に使われていて、それらしき貨車もこの時点で皆無であった。以下は1962(昭和37)年時点の新小松駅の鉱山関係の設備だが当時鉄道用に使われていた様子はなく、トラック輸送の積み替えホームだった。 昭和30年頃に鉱山輸送の全てが鉄道からトラック輸送に切り替わっていたのであった。よく言われる鉱山鉄道の尾小屋は見たことのない昭和30年頃に終わっていたことになる。左手の鉱山積み替えホームと右手に鉱山事務所.鉱山積み替えホームに延びてきていた国鉄貨物線(手前側)貨車はごく普通の無蓋・有蓋車.1962(昭和37)年の新小松駅
$ 0 0 1968年1月に訪問した京福電鉄永平寺線(永平寺~金津)は一度紹介したことがありますが新規画像を加えて再度アップしてみます。永平寺駅 1968.01.14曹洞宗の大本山永平寺に向かう観光路線にツートンカラー(緑とクリーム)の旧型電車がよく似合う感じで、いかにも永平寺線らしい時代があった。生え抜きのデハ101は車庫で休んでいたが、どの車両も楕円窓がある好ましい旧型電車であった。この後すぐに車両も入れ替わりカラーリングも不釣り合いな永平寺線になってしまった。電車が到着すると乗客の多くは永平寺へ向かう、団体観光客などまだ鉄道輸送があった時代だったのだろう。永平寺駅からすぐのところに永平寺があった。広大な雪の永平寺雪が降りだしてきた頃、永平寺見物の客を乗せて電車は金津へ向かう.金津で乗り換えると芦原温泉へ、そしてその先の東尋坊まで行ける。車庫に休む デハ1011962年夏に金津で見たデハ101
$ 0 0 九州最南端の鹿児島交通(南薩鉄道)を訪問した田辺さんの画像からネガのコマ順に追ってみました。加世田の車庫で蒸機の廃車群を撮ってから西鹿児島へ向かったようです。これら沿線風景の撮影場所は不明です。撮影:田辺多知夫氏 1969.02.10DD1202 キハ106茫洋とした薩摩半島を行くキハ302、キハ303キハ302キハ106キハ302 西鹿児島
$ 0 0 今月30日にNHK BSプレミアムで美しく再整備された南薩線の車輛たちが紹介されます。http://www.nhk.or.jp/bs-blog/2000/257031.html rd50keiさんより1969(昭和44)年の鹿児島交通で加世田と隣の阿多にいた車両たち。撮影:田辺多知夫氏 1969.02.10DD1202キハ105キハ101キハ301ホユニ66テフ25阿多駅に留置されていたホハフ68ホハニ59
$ 0 0 田辺さんが加児島交通(南薩鉄道)訪問でまず向かったのがやはり加世田の車庫であった。南薩鉄道といえば加世田そして小型蒸機の群れでしょう。蒸機は昭和23~38年にかけて廃止されていて昭和44に屋外に留置されていたのは小型Cタンクが4両、C12型が3両であった。red50keiさんの鹿児島交通(南薩鉄道)のサイトに保存機関車の詳細が紹介されています。1969.2.10 撮影:田辺多知夫氏手前から2号機、1号機、4号機と並ぶCタンク機2号機 大2年 HANOMAG製1号機 大2年 HANOMAG製 シリンダーの位置が異色で前方に突出している.4号機 大15年日車製5号機 昭5年製 これがTMSスタイルブック(1963年)に図面が紹介されたあの汽車会社製南薩5号機.カツミ模型のCタンクはこれをイメージしたが動輪がまるで貧弱だった。13、14、12号機12号機参考:鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第6分冊 鹿児島交通・南薩鉄道 谷口良忠著参考:交友社「機関車の系譜図2」臼井茂信著
$ 0 0 田辺さんが訪問した2年前、私が鹿児島交通を訪問しようと国鉄指宿線に乗って西鹿児島を出発したのは1967(昭和42)年3月の夕方であった。その日は指宿温泉に泊り翌日に枕崎に出て、そこから鹿児島交通の加世田を訪問するつもりだった。指宿線の気動車が指宿駅に到着するとあたりは薄暗くなり不安が的中、いつも泊まるような安い駅前旅館などこの有名温泉地にある筈はなし、指宿温泉の旅館やホテルに泊まるくらいならもっとフィルムが買える、ということでまた西鹿児島へ引き返し、博多行き夜行列車のボックスシートに寝て翌朝博多から長崎に向かった。もう一度夜行列車で南下し伊集院から鹿児島交通を訪問するのを断念してしまったのが悔やまれる。鹿児島駅前 1967.03.01市電通りから一歩入った鹿児島の裏通り指宿線のC12貨物列車夕闇迫る指宿駅 立派な温泉地で駅前安宿などあろう筈はなし.唯一、私が撮った鹿児島交通の1枚は夜の西鹿児島で真っ暗であった。博多で長崎行き夜行に乗り換え夜が明ける頃.
$ 0 0 過去にリニューアルした「瀬戸内海の呉」ですが、話題のアニメ映画「この世界の片隅に」を観て戦後の呉市電の風景を再びアップしたくなりました。アニメの舞台となったのは戦時中の呉と広島で、戦後22年が過ぎた昭和42年の市電が走る呉の街、そこにはまだ戦後の暗さを感じさせる風景があった。そして戦時中の悲しい過去があった今の呉を見てみたい。話題のアニメ映画 市電川原石← 呉線呉駅 (山並み) 呉線安芸阿賀駅 →市電長浜 現在のgoogle航空写真長浜行の電車 呉駅前 右手が呉駅 1967.03.07 呉駅前 左手が呉駅 背後の山並みは鉢巻山. 川原石行の電車 右手が呉駅で海側、背後の山並みは休山.殺伐とした阿賀駅前.長浜へ向かう電車 阿賀駅前の車庫分岐線.阿賀駅前 右手に市電車庫がある.呉線安芸阿賀の駅前通りは子供達の遊び場.街に戦後の暗さが漂っていたが、この頃、呉線で活躍していた蒸機が美しかった.呉駅のC59呉駅のC62鈍行列車
$ 0 0 この日、白金から目黒通りを歩いて目黒駅前に到着するとこんな見覚えのある駅前風景があった。今、駅東側で盛んに駅前再開発中の場所は確か都電の目黒車庫があったところだ。都電が走っていた頃、目黒車庫には5系統4系統の小型車1000、1100形などが配置されていた。再開発で車庫の跡地は大きく変貌を遂げているが、駅ビルには50年前の目黒駅の面影が残されていた。今や時代遅れとなってしまった駅ビルもいずれ建替えられるのだろう。現在の目黒駅前で左手が工事中の駅前再開発現場.2016.12.13昭和42年の目黒駅前。各所に見られた「祝目黒駅完成」の表示から目黒駅ビルが完成直後だったのでしょう.目黒駅ビルは築50年の今も変わりない.手前の分岐線から目黒車庫へ入る。1967.12.03ここから都電5系統が発車していた目黒駅前電停(4系統は五反田から発車)祝目黒駅完成の看板を掲げた商店街目黒駅前電停 駅ビルは今も変わらない.駅前電車通りの商店街に掲示された「夢のショッピング 目黒ターミナルビル 11月1日開店」.当時としては画期的な駅ビルだったのでしょう。表通りから奥へ入ったところに目黒車庫があった.車庫のトラバーサ目黒車庫には5系統4系統の小型車1000、1100形が配置されていた.車庫跡に工事中の目黒駅前再開発ビル
$ 0 0 特集 米国人が記録した”東京の歴史”昭和30年代の日本の原風景、地方私鉄と路面電車をカラーで記録したあのJ・ウォーリ・ヒギンスさんが日本に住んでおられるとは。昨日朝のNHKテレビの紹介で初めて知り驚いた。余りにインパクトが強すぎて私はまだこの写真集を買っていないのですが、この都電の踏切光景を見てやはり1~3偏は買わねばと思いました。昭和30年代の路面電車や地方私鉄をこのようなカメラアイで捉え、しかもカラーで撮影されたことがもの凄く、これを見てしまうと単なる鉄道写真集は見れなくなってしまいそう。来年90になられるヒギンスさん
$ 0 0 12月27日の最終日、予告通り23時59分にブログ「編集長敬白」最後の記事がアップされました。まるで廃線の最終列車を見送る感じのラストランでした。2005年5月にスタートし11年半に亘り楽しませて貰ったブログ、ほんとうにお疲れさまでした。先日購入したRMライブラリー209号、これが最後の編集になるのでしょうか。
$ 0 0 今年もよろしくお願い申し上げます昨年も皆さまからのアクセス、コメントをありがとうございました。スローペースとなりましたが今年もブログを続けていくつもりです。頸城鉄道 大池 1970年2006年に原宿で開催した軽便写真展から早や10年が過ぎ去りました。あの時の1枚がこの日本の原風景↑ホジが森に消えてゆく、それを待って駅に現れた親子、遠くの畑に草をはむヤギ、夢のような世界があった頸城野。明治村