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昭和40年7月北海道 雄別鉄道2
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昭和40年7月北海道 雄別鉄道3
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昭和38年 あの頃の流山電鉄
以前、本ブログで遠い昔の流山電鉄を紹介したことがありましたが、↓1枚目の写真に縁が深い方からコメント戴きました。昔、ここに住まいがあって中央の小屋のフロ場に入っていたそうです。そういえば私も父が務めていた職場のフロによく入りに行った記憶があります。
撮影 1963.3.31
撮影 1963.3.31
崖の下の流山駅奥の佇まい.
この小屋がフロ場でしたか! 給水タンクの水を小屋に引いて従業員用フロ場としたのでしょうか. 少し前までボールドウィンのサドルタンクが使っていた給水塔でしょう。
そして奥に小さな電車庫、まるで模型のような世界。
以下も再掲ですが懐かしき流山電鉄の風景を大きい画像で。言い尽くされた車両の型式や経歴などはどうでもよく、この時代の沿線風景が懐かしいものです。
流山駅の背後にあった丘陵、ここが子供たちの遊び場だった.
右手に醤油工場に行く引き込み線があった.
沿線は自然豊かで長閑な田園風景だった.
この頃の馬橋駅にはローカル私鉄のりかえ駅の風情が溢れていた.
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弘前の想い出
夏の津軽めぐりで訪れた弘前城の写真から、弘前の裏町から発車している弘前電気鉄道(紹介済)のことが思い起こされた。写真に7年の差があるが昭和48(1973)年は各地にまだまだ1960年代の風景が残されていたのだろう。
1973年、津軽から日本海側を五能線沿いに走ると、未舗装の凸凹道、古びた木造旅館、ドラムカン・自転車などの生活用具、いかにもその時代らしい風景が懐かしい。 旅館兼ガンガラ穴案内所
中央弘前を出た木造車は土淵川沿いに裏町を走り県立弘前高等学校の前でカーブする.
元国鉄のクハニ200形は最後まで木造のまま使われた.弘高下 1966.03.03
弘前城を訪れたのが1973年夏. この近くにある弘前電気鉄道を訪問したのは、この7年前1966年3月であった。
1973年、津軽から日本海側を五能線沿いに走ると、未舗装の凸凹道、古びた木造旅館、ドラムカン・自転車などの生活用具、いかにもその時代らしい風景が懐かしい。 旅館兼ガンガラ穴案内所
中央弘前を出た木造車は土淵川沿いに裏町を走り県立弘前高等学校の前でカーブする.
元国鉄のクハニ200形は最後まで木造のまま使われた.弘高下 1966.03.03
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美唄のEタンク
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新潟交通 昭和の街並み
RMライブラリー204巻 寺田裕一さんの新潟交通電車線(下)が発売されました。
そこで県庁前-東関屋の街並みカラーを再度掲載してみます。
県庁前-東関屋 1968.08.17
県庁前-東関屋 1968.08.17
県庁前-東関屋 1968.08.17
元小田急のクハが道路上を行く.県庁前-東関屋 1968.08.17
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扇町を訪ねて
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最上川沿いを北上する
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「コクリコ坂から」1963年11月、横浜
今夜、また「コクリコ坂から」がテレビ放映されるようです。
撮影:田辺多知夫氏 1963.11.01
以前、アップした「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。 はこのジブリ作品の時代設定である1963年の横浜市電風景を集めたものです。今回は田辺さんが撮った1963年11月の横浜市電風景を集めてみました。
撮影:田辺多知夫氏 1963.11.01
この時代のオート三輪や軽三輪などクルマが楽しい.
青木橋
横浜駅前
桜木町
桜木町
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下津井電鉄 1枚の写真から
先日、Facebookで1枚の写真 下津井電鉄クハ9を投稿したところ、単端式ガソリンカーまでいろいろ話題が拡大しました。しかし車両経歴などの話題はフロー型のFacebookには向かず、ストック型のブログで取り上げてみます。
下津井電鉄クハ9 茶屋町 1963.07.19 撮影:田辺多知夫氏
専ら朝夕の増結用で、使用頻度は比較的少ない(私鉄車両めぐり下津井電鉄より)
専ら朝夕の増結用で、使用頻度は比較的少ない(私鉄車両めぐり下津井電鉄より)
この下津井電鉄クハ9の元は、2両の単端式ガソリンカーの車体・台枠を背中合わせに接合してできた話はよく知られている。調べてみると下津井電鉄にいた単端同型3両(カハ1~3)のうち1両(カハ2)は井笠鉄道へ譲渡されたそうだ。
井笠鉄道ハ17 1962.07.30 クハ9の元になったのはこんな単端だった。
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下津井電鉄 1枚の写真から 2
先日の1枚の写真、先頭クハ9の編成がとても貴重な写真です、クハ9に続く中間サハも気になります。
1963年に田辺さん、1962年に私が訪問した下津井電鉄の写真で元栗原電鉄のサハを探してみました。元栗原はサハ1、2そして少し長いサハ3の3両が在籍していたようです。
撮影: 1963.07.19 田辺氏、1962.07.29 katsu
1963.07.19 茶屋町
上の写真を拡大してみるとクハ9+サハ1or2+モハ50系
下津井の車庫に休むモハ102+サハ3(元栗原)+クハ 1963.07.19
翌年にモハ102+サハ3+クハ22の固定編成化の改造が行われた.
翌年にモハ102+サハ3+クハ22の固定編成化の改造が行われた.
下津井の車庫風景 1963.07.19
モハ103+クハ24の向こうに見えるサハ3(元栗原) 1963.07.19
モハ52+サハ1(元栗原)+クハ23 1962.07.29
モハ103+クハ24 下津井 1963.07.19
1961年に登場したモハ103+クハ24 茶屋町 1963.07.19
モハ52+サハ1(元栗原)+クハ23 1962.07.29
電装解除されたサハ1(元栗原) 1962.07.29
元に戻したら素晴らしい電車になることでしょう.
モハ103+クハ24 下津井 1963.07.19
1961年に登場したモハ103+クハ24 茶屋町 1963.07.19
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栗原電鉄 空腹と田園とM15形
栗原電鉄で私の記録は一言でいえば空腹と単調さ(田園風景、M15形一形式のみ)であった。何もない沿線はいつも空腹に悩まされる、そんな栗原の旅日記を追ってみます。
撮影:1966.03.01
石越駅
仙北鉄道の訪問を終え、瀬峰から鈍行で石越に着くと連絡ホームはなく駅前に出てみると、単行のM15形が停車している栗原電鉄「のりば」があった。
M152 石越
M151 津久毛
M15形(151~153)は先ほどまで軽便(仙北鉄道)に乗っていたせいか、ばかに車内が広く感じられ堂々とした車両に見え、アカ抜けしたスタイルにグリーンとクリームのツートンカラーが文句なく似合っていた。二つ目の若柳で下車し本社で許可をとると親切に車庫まで案内されて車両の説明までして戴いた。
M153 若柳
ちょうど元西武の二枚窓M18形(撮ってなかった)が入場中で、この日の運転はM15形だけであった。
M151 若柳
この駅の近くに高校があるようで今日は卒業式らしく免状らしい筒を持った女高生が三々五々駅に集まってきて駅は高校生で一杯になってしまった。やってきた電車は単行のため高校生で満員、車内には派手な広告がデカデカと下がっていた。
沢辺まで切符を買ったが沿線は一面の田んぼばかり、仕方なくその先の津久毛まで乗った。ここは交換駅だが田んぼのど真ん中、入場券(コレクション)を買ってから外に出たが駅前に店はなく民家が数軒のみ。ここで飲食店に入って昼食の予定が狂ってしまい、空腹が続いた。
M15形津久毛から細倉方面に歩き出すと、暖かい初春の日差しの下、仙北鉄道と同じように田んぼの向こうに連なる農家の佇まいの風景が美しかった。冬枯れの黄ばんだ枯草とぼつぼつ芽が吹いた新緑の木立、そして何かの木の花が咲き誇っていた春の訪れ。よく考えればこの日は朝から何も取ってなかったが、空腹を我慢して次の杉橋駅まで1.5kmほどを歩き出した。
M15形 杉橋駅の手前
24レで石越へ戻ることにしてこの無人駅で休んでいると、あたりは暮れ落ち夕飯の支度なのか家々から煙が立ち上り、旅の寂しさを感じさせた。ベンチでボッーとしていると地元のお年寄りがこちらを向いて挨拶したのには驚いた。純朴な地方では地元の駅で誰とでも挨拶するのは当たり前なのだろう。
杉橋駅の近辺にはわりと家があり駄菓子屋くらいはありそうで先へ進んでみた。杉橋は無人駅で駅近くに石碑と松の木があるムードある駅でほっとした。駅前には商店街みたいなものは全くないが、あの淡路島にあったような駄菓子屋(今ならコンビニ)があった。ここで菓子パン2個(35円)を買ってやっと昼食。川辺で菓子パンをかじっているとやってきたのがMT編成であった。
24レで石越へ戻ることにしてこの無人駅で休んでいると、あたりは暮れ落ち夕飯の支度なのか家々から煙が立ち上り、旅の寂しさを感じさせた。ベンチでボッーとしていると地元のお年寄りがこちらを向いて挨拶したのには驚いた。純朴な地方では地元の駅で誰とでも挨拶するのは当たり前なのだろう。
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栗原電鉄 元ナローの電機
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長崎のきっちんせいじ
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美しき日本の風情1
Facebookでシリーズ「美しき日本の風情」を始めたのが確かこの長崎の街の写真だったと思われます。どれもブログで公開済みのお気に入りの1枚で、これまでのFacebook投稿はたいした枚数でありませんが一覧で見れるようにしてみます。
1960年代の日本は決して「美しい風景」ではなかった。しかしそこには「日本の風情」があった。今は見違えるような美しい日本になったが、あの頃の「日本の風情」は失われてしまった。少し前の日本にあった「日本の風情」に何を感じるかは人様々であろう。
長崎の街 1967.03.02
グラバー邸の一角から長崎の街と大浦支線を眺める.築町から海岸通りを走り電停「大浦海岸通り」で→ へ曲がる大浦支線が見える.遠くの木立に囲まれた美しい三角屋根は活水女子大学のようだ.
長崎電軌 大浦石橋通り 1967.03.02
日本の至るところこんな街並みは消え、路面電車残れど昔の面影は観光建物(レプリカ)しかないのでは。
長崎電軌 大浦通り弁天橋(現在の大浦天主堂下) 1967.03.02
決して美しい風景ではないが、美しい風情があった時代.
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美しき日本の風情2
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美しき日本の風情3
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美しき日本の風情4
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美しき日本の風情5
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日本の風情6
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