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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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昭和40年7月北海道 雄別鉄道2

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鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第2分冊 雄別鉄道 小熊米雄先生の解説記事を元に田辺さんの写真を追ってみます。

撮影:田辺多知夫氏 1965.07.20
これは凄い!  改造後のコハ1ですね。かっての長州鉄道の客車の1両

自社発注 C56(1001)
C118とC113
雄別炭山にあった機関庫



素晴らしい ワフ5+コハ2+ナハ18の編成

コハ2 前国鉄キハ46351(北海道鉄道キハ501) 日車昭10年製

ナハ18 前国鉄ナエ17174 国鉄大宮工場明45年製

ナハ17 前国鉄ナハニ15726 国鉄札幌工場大3年製


昭和40年7月北海道 雄別鉄道3

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撮影:田辺多知夫氏 1965.07.20
C56(1001)が牽く混合列車  雄別炭山

雄別炭山風景

倉の中のボールドウィン1Dテンダ機 9040形9046 

ナハ12

ナハ17改造後

雄別炭山駅

昭和38年 あの頃の流山電鉄

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以前、本ブログで遠い昔の流山電鉄を紹介したことがありましたが、↓1枚目の写真に縁が深い方からコメント戴きました。昔、ここに住まいがあって中央の小屋のフロ場に入っていたそうです。そういえば私も父が務めていた職場のフロによく入りに行った記憶があります。

撮影 1963.3.31
 崖の下の流山駅奥の佇まい. 

この小屋がフロ場でしたか!  給水タンクの水を小屋に引いて従業員用フロ場としたのでしょうか. 少し前までボールドウィンのサドルタンクが使っていた給水塔でしょう。
そして奥に小さな電車庫、まるで模型のような世界。

けだるい午後の日差しのもと、流山駅の長閑なひと時.
まだ携帯などない時代、女学生達?は何をしていたのでしょうか.


以下も再掲ですが懐かしき流山電鉄の風景を大きい画像で。言い尽くされた車両の型式や経歴などはどうでもよく、この時代の沿線風景が懐かしいものです。
流山駅の背後にあった丘陵、ここが子供たちの遊び場だった. 

右手に醤油工場に行く引き込み線があった.

沿線は自然豊かで長閑な田園風景だった.

この頃の馬橋駅にはローカル私鉄のりかえ駅の風情が溢れていた.

弘前の想い出

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夏の津軽めぐりで訪れた弘前城の写真から、弘前の裏町から発車している弘前電気鉄道(紹介済)のことが思い起こされた。写真に7年の差があるが昭和48(1973)年は各地にまだまだ1960年代の風景が残されていたのだろう。

弘前城を訪れたのが1973年夏. この近くにある弘前電気鉄道を訪問したのは、この7年前1966年3月であった。


1973年、津軽から日本海側を五能線沿いに走ると、未舗装の凸凹道、古びた木造旅館、ドラムカン・自転車などの生活用具、いかにもその時代らしい風景が懐かしい。 旅館兼ガンガラ穴案内所

中央弘前を出た木造車は土淵川沿いに裏町を走り県立弘前高等学校の前でカーブする.
元国鉄のクハニ200形は最後まで木造のまま使われた.弘高下 1966.03.03

倉庫からリンゴの香りが漂ってきた西弘前駅  

クハ202+モハ105

美唄のEタンク

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田辺さんの北海道私鉄・専用線蒸機めぐりで旅の足跡を追いかけたいのですが、下調べに時間が掛かりそうで、美唄のさわりを紹介します(facebook紹介済)。美唄のEタンクの迫力がもの凄いですね。

撮影:田辺多知夫氏
4号 1965.07.27

4号 1965.07.27

4号 1965.07.21

こちらは4142.  1965.07.20

新潟交通 昭和の街並み

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RMライブラリー204巻 寺田裕一さんの新潟交通電車線(下)が発売されました。
そこで県庁前-東関屋の街並みカラーを再度掲載してみます。

県庁前-東関屋   1968.08.17

県庁前-東関屋 1968.08.17

 県庁前-東関屋 1968.08.17

元小田急のクハが道路上を行く.県庁前-東関屋 1968.08.17

 雨の県庁前 モハ16(元国電旧伊那)+クハ36(初代モハ16) 1968.08.16 

クハ37(元国鉄41000形) 東関谷

東関谷駅の風景 形式モハ17(元東武デハ2形) 1968.08.17

 モワ51 東関谷

 クハ46 元小田急 東関谷.元はつまらぬ小田急デハ1408でも新潟交通仕様になっているところが魅力的です。

扇町を訪ねて

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以前こんな記事をスタンバイしてあったのを忘れていました。
三井埠頭の1、3、5号機は既に紹介ずみですが、昭和39年12月の扇町界隈はこんな風景でした。

尻手から浜川崎へ 1964.12.25

浜川崎の国鉄C11

鶴見から扇町へ

三井埠頭1号機(ピーコック)と5号機(汽車会社)が働いていた現場.
こんな現場に立ち入るのをよく許可してくれたものです。

 三井埠頭5号機(汽車会社)


 憧れの三井埠頭1号機(ピーコック)

最上川沿いを北上する

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昭和46(1971)年5月の連休に最上川沿いを北上したことがあった。
長井線の長井駅前旅館に泊って、米坂線の宇津峠の96を撮ってから、
今泉を後に最上川沿いをのんびりと北上し左沢へ向かった。

米坂線と長井線の接点今泉.1971年05月

米坂線今泉のクーロク

長井線長井の駅前旅館「和泉屋」に泊まる.

 朝日連峰を望み月山へ続く砂利道.

 最上川沿いを北上する砂利道.

 5月の木々と最上川沿いの集落.朝日町あたり

集落を拡大してみると茅葺き屋根の民家が懐かしい.

最上川の向こうに連なる白銀の山並み.


「コクリコ坂から」1963年11月、横浜

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今夜、また「コクリコ坂から」がテレビ放映されるようです。


以前、アップした「コクリコ坂から」 1963年5月、横浜。 はこのジブリ作品の時代設定である1963年の横浜市電風景を集めたものです。今回は田辺さんが撮った1963年11月の横浜市電風景を集めてみました。

撮影:田辺多知夫氏 1963.11.01
この時代のオート三輪や軽三輪などクルマが楽しい.

青木橋

横浜駅前

桜木町

桜木町

桜木町

楽しい単車が活躍していた時代.

下津井電鉄 1枚の写真から

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先日、Facebookで1枚の写真 下津井電鉄クハ9を投稿したところ、単端式ガソリンカーまでいろいろ話題が拡大しました。しかし車両経歴などの話題はフロー型のFacebookには向かず、ストック型のブログで取り上げてみます。

 下津井電鉄クハ9  茶屋町 1963.07.19 撮影:田辺多知夫氏
専ら朝夕の増結用で、使用頻度は比較的少ない(私鉄車両めぐり下津井電鉄より)

この下津井電鉄クハ9の元は、2両の単端式ガソリンカーの車体・台枠を背中合わせに接合してできた話はよく知られている。調べてみると下津井電鉄にいた単端同型3両(カハ1~3)のうち1両(カハ2)は井笠鉄道へ譲渡されたそうだ。

井笠鉄道ハ17  1962.07.30 クハ9の元になったのはこんな単端だった。

1962年夏のくじ場には様々な単端や単端崩れがいて、下津井電鉄カハ2が井笠に来て客車化されたハ18がいた。写真は同型のハ17である。エンジン、ボンネット、リヤバスケットが外されて客車化されたが単端ガソリンカーの面影が十分残されている。
下津井電鉄の自社工場でこんな単端2両をつなぎ合わせてクハ9がで製作された。単端2両では長さが足りなかったのか客室窓2個分が延長されている。

井笠鉄道 夏のくじ場の単端群  1962.07.30

コッペル1号機の向こうにいたハ18

参考:鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第1分冊、第6分冊
狭軌鉄道Ⅰ下津井電鉄車両竣功図

下津井電鉄 1枚の写真から 2

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先日の1枚の写真、先頭クハ9の編成がとても貴重な写真です、クハ9に続く中間サハも気になります。
1963年に田辺さん、1962年に私が訪問した下津井電鉄の写真で元栗原電鉄のサハを探してみました。元栗原はサハ1、2そして少し長いサハ3の3両が在籍していたようです。

撮影: 1963.07.19 田辺氏、1962.07.29 katsu

 1963.07.19 茶屋町

上の写真を拡大してみるとクハ9+サハ1or2+モハ50系   

下津井の車庫に休むモハ102+サハ3(元栗原)+クハ  1963.07.19
翌年にモハ102+サハ3+クハ22の固定編成化の改造が行われた.

下津井の車庫風景 1963.07.19

モハ103+クハ24の向こうに見えるサハ3(元栗原)   1963.07.19

 モハ52+サハ1(元栗原)+クハ23  1962.07.29

電装解除されたサハ1(元栗原)  1962.07.29
元に戻したら素晴らしい電車になることでしょう.


モハ103+クハ24 下津井  1963.07.19
1961年に登場したモハ103+クハ24 茶屋町  1963.07.19
私はこの新鋭電車を全く無視してしまい1枚も撮らなかったが、田辺さんはこの電車を何枚も撮っていたのでお気に入りだったのだろう。茶屋町は軽便にしては立派な駅であった。

ナロー模型ではこんな元栗原や元単端のような異種中間車を組み合わせた箱もの編成の楽しみ方がありますね。


岡山駅の準急「鷲羽」1963.07.19 宇野線経由で宇野まで走っていた。
宇野線茶屋町で下津井電鉄に乗換えれば鷲羽山に行ける時代であった。


栗原電鉄 空腹と田園とM15形

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栗原電鉄で私の記録は一言でいえば空腹と単調さ(田園風景、M15形一形式のみ)であった。何もない沿線はいつも空腹に悩まされる、そんな栗原の旅日記を追ってみます。

撮影:1966.03.01
 石越駅
仙北鉄道の訪問を終え、瀬峰から鈍行で石越に着くと連絡ホームはなく駅前に出てみると、単行のM15形が停車している栗原電鉄「のりば」があった。

 M152  石越
M15形(151~153)は先ほどまで軽便(仙北鉄道)に乗っていたせいか、ばかに車内が広く感じられ堂々とした車両に見え、アカ抜けしたスタイルにグリーンとクリームのツートンカラーが文句なく似合っていた。二つ目の若柳で下車し本社で許可をとると親切に車庫まで案内されて車両の説明までして戴いた。

M153 若柳
ちょうど元西武の二枚窓M18形(撮ってなかった)が入場中で、この日の運転はM15形だけであった。

M151 若柳
この駅の近くに高校があるようで今日は卒業式らしく免状らしい筒を持った女高生が三々五々駅に集まってきて駅は高校生で一杯になってしまった。やってきた電車は単行のため高校生で満員、車内には派手な広告がデカデカと下がっていた。

 M151 津久毛
沢辺まで切符を買ったが沿線は一面の田んぼばかり、仕方なくその先の津久毛まで乗った。ここは交換駅だが田んぼのど真ん中、入場券(コレクション)を買ってから外に出たが駅前に店はなく民家が数軒のみ。ここで飲食店に入って昼食の予定が狂ってしまい、空腹が続いた。


M15形
津久毛から細倉方面に歩き出すと、暖かい初春の日差しの下、仙北鉄道と同じように田んぼの向こうに連なる農家の佇まいの風景が美しかった。冬枯れの黄ばんだ枯草とぼつぼつ芽が吹いた新緑の木立、そして何かの木の花が咲き誇っていた春の訪れ。よく考えればこの日は朝から何も取ってなかったが、空腹を我慢して次の杉橋駅まで1.5kmほどを歩き出した。


 M15形 杉橋駅の手前
杉橋駅の近辺にはわりと家があり駄菓子屋くらいはありそうで先へ進んでみた。杉橋は無人駅で駅近くに石碑と松の木があるムードある駅でほっとした。駅前には商店街みたいなものは全くないが、あの淡路島にあったような駄菓子屋(今ならコンビニ)があった。ここで菓子パン2個(35円)を買ってやっと昼食。川辺で菓子パンをかじっているとやってきたのがMT編成であった。

24レで石越へ戻ることにしてこの無人駅で休んでいると、あたりは暮れ落ち夕飯の支度なのか家々から煙が立ち上り、旅の寂しさを感じさせた。ベンチでボッーとしていると地元のお年寄りがこちらを向いて挨拶したのには驚いた。純朴な地方では地元の駅で誰とでも挨拶するのは当たり前なのだろう。

栗原電鉄 元ナローの電機

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栗原鉄道の軽便時代の名残はED20形電機にあった。小さな軽便ボディーに762→1067mmゲージに改軌した台車。このガニマタスタイルは模型でいえば1/80 9mmナローを13mmゲージに改軌したようなものである。

軽便時代の電化そしてED20形3両の導入が昭和25年9月、762→1067mmゲージに改軌が昭和30年9月、この電機が軽便時代に走ったのは5年程度であったことになる。
(画像は2010年6月にアップ済の再掲です)

撮影:1966.03.01
ED202  若柳

ED202  若柳

若柳に休むED20形

田んぼを行くED20形

長崎のきっちんせいじ

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長崎の眼鏡橋ちかくにある「きっちんせいじ」という楽しそうなレストラン。
お店の長崎電軌は何をモデルとしたのでしょうか。
一度入ってみたいものです。

最近のお店


長崎駅前の古典車160形 1967.03.02.  

 あの古野電気の前を行く170形(元西鉄) 長崎駅前 

思案橋から蛍茶屋へ向かう160形(元西鉄) 西浜町(アーケード前)


こんな木造単車が走っていた時代もあったのですね。

美しき日本の風情1

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Facebookでシリーズ「美しき日本の風情」を始めたのが確かこの長崎の街の写真だったと思われます。どれもブログで公開済みのお気に入りの1枚で、これまでのFacebook投稿はたいした枚数でありませんが一覧で見れるようにしてみます。

1960年代の日本は決して「美しい風景」ではなかった。しかしそこには「日本の風情」があった。今は見違えるような美しい日本になったが、あの頃の「日本の風情」は失われてしまった。少し前の日本にあった「日本の風情」に何を感じるかは人様々であろう。

長崎の街 1967.03.02
グラバー邸の一角から長崎の街と大浦支線を眺める.築町から海岸通りを走り電停「大浦海岸通り」で→ へ曲がる大浦支線が見える.遠くの木立に囲まれた美しい三角屋根は活水女子大学のようだ.

長崎電軌 大浦石橋通り 1967.03.02
日本の至るところこんな街並みは消え、路面電車残れど昔の面影は観光建物(レプリカ)しかないのでは。

長崎電軌 大浦通り弁天橋(現在の大浦天主堂下) 1967.03.02
決して美しい風景ではないが、美しい風情があった時代.

鹿児島市電上町線 薩摩藩士碑の前を行く. 1967.03.01

鹿児島市電上町線 岩崎谷駅.1967.03.01
鹿児島出身の方が見て待合所の看板は堂園産婦人科だそうだ.そこのお嬢さんと同級生だったそうで、1枚の看板から話題が拡がる。


美しき日本の風情2

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北陸鉄道石川線 鶴来 1968.01.15
松本清張が小説の舞台として好んだ北陸の気候と北陸鉄道。「ゼロの焦点」に登場した金沢郊外の鶴来は殺人事件の舞台となったが、鶴来の地名がなんとも言えない風情を醸し出している。


美しき日本の風情、日永の夏.三重電気鉄道内部・八王子線 1965.08.05

スタジオジブリの「コクリコ坂から」の舞台となった昭和38年の横浜風景.
横浜市電 本牧トンネル.1963.5.3

真夏の軽便.沼尻鉄道 沼尻 1966.8.9  撮影:田辺多知夫氏

美しき日本の風情3

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茨城交通湊線 阿字ヶ浦 1972年夏
干しいも畑とステンレス気動車ケハ601に唯一魅力があった当時の湊線.

何も説明がいらない感動の一場面.茨城交通水浜線 大串 撮影: 田辺多知夫氏

美しき日本の風情4

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 美しき日本の風情、大江山を望む夏の加悦駅.1962.07.31 

嵐山線とダイハツ・ミゼットMP4型. 1964.07.10

松山市内線の朝.公園前 1969.5.2

昭和40年の瀬田の交差点と電停 玉電瀬田駅 1965.7.27 
この頃、電停前の米屋で繰り広げられた物語が私小説「夜間急行」になった。

美しき日本の風情5

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夏の福島交通軌道線 1964年7月  撮影:田辺多知夫氏 
日本の夏の風情溢れる「さいわい橋」 

まるでジブリのアニメに出てきそうなシーン. 保原近辺?

日本の風情6

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大晦日の浅野川線. 粟ヶ崎 1964年12月

お盆休みの蒲原鉄道.五泉 1968年8月

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