京福鞍馬線 岩倉盆地 を読まれた方から頂戴したメールに1966~1968年当時の岩倉駅や鞍馬線の素晴らしい描写がありましたので、了解を得てここに紹介します。私もあの正月厳寒の岩倉盆地を訪れた時のことを改めて思い出しました。1960年代後半(昭和40年前半)に入っても、郊外にはまだこんな質素で優雅な時代が残っていたのですね。
比叡山を望む岩倉駅 1969.01.02
正月の厳寒に震え上がった岩倉駅に客は暖かそうなお二人だけ
岩倉駅近くに66年から68年まで暮らしてました。とても懐かしいです。当時は山村という感じでとても京都市内とは思えないところへ来てしまったという感じでしたね。岩倉駅の薄水色の駅舎が目に浮かびます。改札口?の所に持ち込み可能な手荷物の見本が立方体の木型で置いてありました。当時から無人駅でしたが時々切符売りの駅員さんが来てました
ダイヤは1時間に4本で岩倉駅折り返しが2本鞍馬まで行くのが2本で便利さはまあまあでしたが春の連休時に必ず24時間か48時間のストライキで運休するので岩倉は陸の孤島になりました。
2つ目の写真の岩倉川にかかる鉄橋のレールに夏になると蛍がとまっていました。川のたもとにお粗末なお便所があり、京都バスの女車掌さんが使ってました。この写真ではもうなくなってますね。
当時は駅前によろずやが一軒あるだけ、食堂も銭湯もなく、不便さに耐えかねて中京へ移りましたが、市内との温度差はかなりあり、夏の深夜はかけ布団がないと寝られなくなる岩倉が懐かしくなりました。
あの頃の叡電の年中行事ときたら春の連休のストライキと晩秋に行われる鞍馬の火祭りの際の電車のエンコでしたよね。
鞍馬の火祭りは鞍馬線にとって最大のイベントで市内と鞍馬を結ぶ最大の交通機関である叡電にとって年間最高の稼ぎ時でしたが、なにしろオンボロ電車でしたから毎年積載オーバー?で過熱して?立ち往生し、祭りから帰るお客さんはいつも市バスも市電もなくなってしまった出町柳駅に降り立つのでした。それでも非難轟々とならなかったのんびりした時代でした。
以上 匿名さん
正月休みの京都(私の記録より)
1969年の正月、この頃は私の会社人生がスタートした頃で、貴重な7日間の正月休みは寝屋川の友人宅を訪ね正月の関西観光の筈であった。この頃は鉄撮りは全く関心なしで、元旦に奈良へ行き翌2日は京都見物の筈であった。ところがこの日突然友人は彼女と京都ドライブだということで、私一人で京都へ行くことになった。
一人の観光では楽しくなく、仕方なく京都市電や京福叡山線を撮りながらなんとなく岩倉盆地にたどり着いた。正月の京都市内各所でさんざんアベック姿を見せつけられ、岩倉盆地では余りの寒さに良い想いもなく早々に岩倉を切り上げ東京へ引き上げてしまった。
こんな寒々しい正月の京都であったが不幸中の幸いで、もしこの時に友人と京都観光でもしていたら京都市電も京福叡山線も撮ることはなかったろう。しかし鉄撮り趣味を辞めていなければ友人宅をベースに正月休みの殆どを使って京都の私鉄を撮りまくっていた筈で、更なる収穫があったのに・・
今思うとほんとうに残念なことをしてしまった。
なんとなく撮った大晦日の大阪市内 1968.12.31
元旦の奈良 1969.01.01