頚城鉄道が新黒井から浦川原まで繋がっていた元気な時代。
部分廃線前でまだ貨物輸送があった夏の浦川原駅を1962(昭37)年と1968(昭43)年に分けて取上げてみます。この数年間は自動車時代到来で真っ先に消えた軽便貨物輸送の最後の数年間であったのでしょう。
新黒井で国鉄と接続していた時代は米どころ新潟の軽便貨物輸送も活発でホジの乗客も多かった。しかし1968(昭43)年秋の新黒井~百間町間と飯室~浦川原間の部分廃線により、貨物輸送が廃止となり陸の孤島となった頚城鉄道は一気に終焉ムードとなってしまった。
部分廃線前でまだ貨物輸送があった夏の浦川原駅を1962(昭37)年と1968(昭43)年に分けて取上げてみます。この数年間は自動車時代到来で真っ先に消えた軽便貨物輸送の最後の数年間であったのでしょう。
新黒井で国鉄と接続していた時代は米どころ新潟の軽便貨物輸送も活発でホジの乗客も多かった。しかし1968(昭43)年秋の新黒井~百間町間と飯室~浦川原間の部分廃線により、貨物輸送が廃止となり陸の孤島となった頚城鉄道は一気に終焉ムードとなってしまった。
夏の浦川原駅の全景 1962.08.03
駅の脇には床屋や中華ソバ食堂がある.
ホームでは混合列車が発車を待っている.薪を満載した無蓋車が愉快だ.
この日はホジ3とDC92が列車を牽いていた.
貨物引込のホームではトラックから貨車へ米俵が積込まれ新黒井まで輸送し国鉄貨車へ積換えしていた。1962年~1968年は急速に自動車が普及した時代で、あっという間に貨物輸送もトラック輸送に切替り、部分廃線した後の1971年5月の全線廃線で頚城鉄道は消滅した。
駅の一番奥にはホハ4が休む.背後に写った民家や床屋が興味深い.