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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想

究極の鉄道写真集

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 先日のパーティで広田先生から今度の写真集のパンフレットを頂戴しました。
ネットに数々紹介されている11月5日発売の写真集「広田尚敬 鉄道写真」5.5万円です。


昨日、書泉グランデに積まれていた本書の内容を見ましたが、写真の素晴らしさはもちろんですが、写真の配置、本の作り方などデザインが素晴らしい究極の写真集でした。
鉄道写真の神様で写真集が素晴らしいのは当然ですが、素晴らしい作品を見事な本に仕上げた本造りのスタッフの凄さを感じます。

それとは対照的に、昔のネガに眠っていた写真をただ並べたような鉄道写真集が「今」何と多いことか、余りの乱発に鉄道写真集に興味を失いそう。

全く対照的な写真集を見せつけられた書泉グランデの店頭でした。





11月9日の週

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毎年行事が集中する11月。
9日の週はSLの話題が続いた。

9日は会社OB会で宇都宮LRTと真岡線SL列車乗車。冷たい雨降る日だった。

11日に稲門鉄道研究会(早大OB)写真展へ。
その帰りに書泉グランデで究極の鉄道写真集「鉄道写真 広田尚敬」をしっかり拝見。
稲門写真展を伴にした友人(SLファン)と米坂線のことが話題になった。


真岡線SL列車.真岡


真岡キューロク館の美しい96.

稲門鉄道研究会(早大OB)写真展
SLが美しかった時代のモノクロ写真を拝見.

美しい96で思い出したのが63年前に西舞鶴で初めて見た96、そして米坂線の96.



私が初めて96を撮ったのは夕方の西舞鶴駅だった. 1962年夏

先日の稲門鉄道研究会写真展を伴にした友人(SLファン)と米坂線のことが話題になった。友人は米坂線を6回訪問し1971年秋が最後の訪問だったそうだ。
私が訪問したのも同じ1971年秋で、SLブーム到来の時代だったのか宇津峠越えでは三脚持ったファンをいたる所で見掛けた。ただ、この頃は96牽引の旅客列車は少なくなって米坂線の良き時代は終わっていたようだ。

米坂線1971年春

米坂線1971年秋

松尾鉱業鉄道 東八幡平から望む岩手山

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インフルエンザに罹り半月を無駄にしました。
米坂線の話を纏めている頃に発熱し、米坂線が中途半端に終わってしまいました。

元に戻ったので、停止していたブログも少しずつ始めたいと思います。



東八幡平 1966.3.2


鉄道模型アートマルシェ

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6月と12月に開催のマルシェ、12月吉祥寺開催の予定が決まりました。

私は写真パネルだけで何も出しませんが会場に時々います。
今回の写真パネルは、7年前の写真展に出品した全倍(全紙の倍)サイズのお気に入り2点です。



 

松尾鉱業鉄道

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写真集(地方私鉄1960年代の回想)では使わなかった1枚。

東八幡平を発車して大更へ向かう客貨混合列車.
この先で松尾鉱山から流れ来る赤川を渡る.


1970年代 昭和の風景

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 1974年4月 撮影:田辺多知夫


名鉄谷汲線
遠く霞む山並みを背に静かに電車が走っていく。何でもない風景なのに、ふと懐かしさを感じる。夕暮れ時なのか、向こうの家々から立ちのぼる煙がゆらぎ、ささやかな暮らしの温もりが漂ってくる。


名鉄揖斐線
赤い車体の電車が、川面のきらめきを見下ろしながら鉄橋を渡っていく。昭和の風がまだ残る風景の中で、時間だけがゆっくりと流れていた。何気ない一瞬なのに、そっと昭和の記憶がよみがえる風景。



名鉄揖斐線
鉄橋を行く電車の下では、川辺に子どもたちが遊び、遠くにはお寺の屋根が静かに佇む。まるで寅さん映画のワンシーンのような、昭和の息づかいがそのまま残る風景。

年の瀬風景

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短い秋が終わり早や12月へ。

毎年、同じ風景が繰り返される。
 


年末にここの桜の老木1本が消えた。


井の頭公園の紅葉とアートマーケット。


マンリョウ。


12月の夕暮れ時。


京福電鉄嵐山線

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1964年夏に京都で撮ったダイハツミゼットMP型。
Always「三丁目の夕日」でロクちゃんが助手席に乗った鈴木オート店のミゼットはこの二人乗りタイプでしょう。





東武亀戸線

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東京の城東、城南地区には乗ったことのない路線がたくさんある。
東京は広い。
 

亀戸発 曳舟行の東武亀戸線。
いつも曳舟、向島、押上の駅名が出て来ない私です。


京急大師線の廃線区間

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年の瀬の大掃除で出て来た京急大師線の写真。
ちょうど、明日12月20日夜NHKプラタモリで大師線の廃線跡を放送するそうだ。
番組で廃線跡をどこまでやるか?

この写真で行先表示版、三線軌条などからある時代の大師線の塩浜支線と分かる。
川崎市電、国鉄貨物線、塩浜支線の三線軌条の変遷を線路図に書いてみたくなった。


1954年12月


今日の銀座4丁目

大晦日の金沢

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大晦日と言えば金沢の街。
この日の武蔵ヶ辻󠄀は近江町市場の買物客で大変な賑わい。
金沢の街はどこでも人々の正月を迎える高揚感が溢れていた。
いろんなところへ貸出してよく使われた写真です。


金沢市内線 武蔵ヶ辻󠄀  撮影日:1964.12.31


拡大版


2026 新年

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あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。



川越線 川越駅 1966年

軽便鉄道写真展

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今日からスタートした写真展へ行ってきました。
広田尚敬 作品展「いつかまた 軽便鉄道」 草軽、沼尻、九十九里
日本カメラ博物館JCIIフォトサロンで2月1日まで開催です。
写真展案内

1960年代に消えた軽便の頂点3路線、これを撮られた鉄道写真の頂点広田さんの写真展を楽しみにしていました。鉄道写真というより写真家が鉄道を撮るとこうなる、という作品ばかり。写真展の写真はほぼ全て駅や車内の人々を撮った生活感溢れる作品で、まるで映画のスチル写真のようでした。あの時代の駅や車内に溢れていたこんな魅力を撮る人は当時殆どいなかったと思います。
そして、JCII写真展で毎度思うのがモノクロプリントの素晴らしさ。モノクロ写真ってこんなに美しいのか! を感じとれます。あと何回かJCIIへ行くつもりです。

 


今回の生活感ある写真は、軽便鉄道の人気3路線で撮られたところに溢れる魅力があった。ただのローカル鉄道ではこのようには撮れない写真、魅力の軽便鉄道が大きなポイントになっていると思います。


九十九里鉄道の魅力

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九十九里鉄道を弊ブログで紹介したのはブログをスタートした2010年の年末でした。
高校時代の友人(飯島巌氏)が遺した紙焼きプリントを再度アップしてみます。

廃止となった1961年2月頃、私は高校生で九十九里の廃止は知っていたがカメラを持ってなく撮りに行くことが叶わなかった。まさか同じ高校同期に撮りに行ったファンがいることも知らずにいた。私にとって軽便の頂点だった九十九里鉄道を見逃した悔しさが、1962年春から始めた地方私鉄めぐりの動機であった。撮っておかないと後になって後悔する、そんな想いで危なそうな地方私鉄路線を次々と追い続けた。魅力の三大軽便で九十九里、草軽は間に合わず、間に合ったのは沼尻だけだった。

九十九里鉄道の沿線風景は変化なさそうで、魅力は車両にあった。だれでもが車両中心に撮り、走行写真を撮る人もいた。当時(1960年代の半ば頃)、九十九里鉄道の駅や車内の日常風景の魅力を撮った写真を、私は書物や先輩たちの成果で見たことがなく、車両写真と良いポイントで撮られた走行写真で十分満足だった。しかし九十九里の魅力はそれだけではなかった。


小さな単端が3両も牽いてノソノソ走る。  家徳 1961年2月

単端に牽かれるケワ + ハニフ + ケハフ。ボギー貨車でどんな荷物を運んでいたのだろうか。家徳



トークイベント「広田尚敬 鉄道写真を語る」

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 2026.1.17 JCIIで開催された主題のトークイベントを聴いて考えさせられることが書き切れないほど多々ありました。今回の貴重なトークを纏めるに、短文のXでは無理、FBなら何とか完結に可能だが、やはりブログが纏めるのに最も適していると思います。



申し込みは100名で締め切られた。


広田さんのトーク


5万円写真集トークで編集長と広田さんと表紙のデザイナー


私は広田さんはSL写真しか知りませんでした。今回の軽便写真展の一部は過去に鉄道誌などに紹介されたようですが知る由もありませんでした。FB友のUsuiさんが所有していた1970年鉄道ファン誌にあった広田さんのどう撮るかの極意は、ファンにほとんど注目されていなく、もしこの極意が広まっていれば1970年代以降の写真が変わっていたと推測します。

昨日のトークショウでは、小さな車両の軽便鉄道でこそ発揮できるその極意(生活感と労働を撮る)を語ることはなかった。ただ、乗客や鉄道員を撮る写真家の技は話してくれました。そこが写真家だからできた、素人にはできない技だけど、せめてどう撮るかの極意さえ知っていれば80年代くらい迄はこの極意で撮れたと思います。今、気がついても手遅れですね。

広田さんが言っていたのは、撮り方は自由で他を否定することはなく、自分が好きなように自由に撮りなさいでした。しかし、ファンの様々な撮り方の作品を並べたら広田さんのような撮り方が世間の評価が高いでしょう。広田さんは写真集をマネして下さいではなく、参考にして下さいと言っていた(マネできる筈はないので)。 参考にすることで良いのにそれが広まることは無かった。

今回の軽便写真の撮り方はそれが全てではないのは当然で、様々な撮り方がある。私は思います、よくある「鉄道写真はこう撮るべき」みたいなそんな風潮は広まって欲しくなかった。

広田尚敬 作品展「いつかまた 軽便鉄道」を観て思うこと

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 2月1日まで開催中の広田尚敬 作品展「いつかまた 軽便鉄道」

私は今回の写真展で初めて広田さんの軽便鉄道の作品を観て感動に震えたが、どういう狙いで撮影すればこういう作品になるのかを知りたかった。そして、鉄道写真でこのような作風に少しでも近いものが1980年代頃までは撮ろうと思えば撮れたのに、なぜ世に広まらなかったのか、それが疑問であった。

写真展を観た数日後、私は友人が教えてくれた55年前の1970年鉄道ファン誌に投稿された広田さんの記事を何回も読ませてもらった。

55年前の広田さんの言葉より
保存機関車からは生を感じることはできないにちがいない。なぜなら、そこには生活や労働がないからである。見る者と見られる物との間に、共通の感覚や空気がないからなのである。私は鉄道写真を写すときに、鉄道の持つ生活や労働のリズムを大切にあつかい、それに私の感覚や感情をプラスして無限に広がる空間を構成する。そして、実物車両や本格的公式写真と共に、もし後世に作品を残すとしたら、単に形をとらえた列車写真ではなく、魂の入ったこのような鉄道写真こそ意義ある記録と信じているのである。

私は広田さんの写真展を観た後だったので、広田さんの言葉にあった魂が入った鉄道写真とは、写真展の作品に一貫してあった生きた鉄道写真であることが理解できた。そして鉄道の持つ生活や労働のリズムを大切にあつかって撮るのに、当時の軽便鉄道はとてもふさわしかったと思う。今も、生活や労働のリズムがあらわになる鉄道の場面は、派手さとは別なところに目を向ける必要があるかも知れない。

その後、広田さんのトークイベントを聴いたが、55年前の広田さんの言葉にあった、鉄道の持つ生活や労働のリズムを大切にあつかい無限に広がる空間を構成する話や、魂が入った生きた鉄道写真の話はなかったのが残念であった。

後世に残す魂が入った鉄道写真、それは感情論ではないのが今回の写真展を観てよく分かった。みなさんはどう感じただろうか。




浅間温泉の朝

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最近、松本郊外の浅間温泉を訪ねた知り合いがいて、温泉通いの浅間線のことが想い出された。



浅間温泉を出て松本へ向かう朝の通勤電車.


松本から車内ガラガラで浅間温泉に戻って来た電車.


立派な浅間温泉駅.


通学時間の運動場前

昭和38(1963)年夏

車庫がある横田駅で電車に乗り込むと、電車の運転室が一段下っていて、客室からは前方がよく見えない。よくぞこんな時代ものの木造電車を残してくれたと嬉しくなった。

10分程で着いた浅間温泉はなかなか立派な終着駅で、尖った屋根は西洋館を思わす。この温泉町を少し散歩してみたいものだが、走行写真を狙っているので、温泉町を見る事もなくさっき来た線路を逆に松本方面へ歩いて行った。朝の浅間温泉を背に田畑の向うを行く通勤電車は、観光ではなく、生活の脚としてそこにあった。窓は開き、仕事へ向かう人々の顔が見える。

沿線で走行写真を撮りながら、3つ先の交換駅まで行くと、高校生を満載した電車が次々とやってきた。朝8時を過ぎたであろう、太陽はギラギラ容赦なく照りつけて来た。しばらく列車交換の風景を眺めた後、また松本へ向って電車に乗った。

かつての新宿駅はこんなだった

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古い写真を見ると、私の10~20歳頃の新宿駅はこんなだった。(先輩のアルバムから)
60~70年前の新宿駅がその後すっかり変貌し、更に今また変わりつつある。 


 小田急の地上ホームで、上は南口に向かう通路。地下ホームも出来て、上に出来た小田急百貨店は、今、取り壊されて再開発中。最も美しかった特急SE車(原形)だった。撮影は1957(S32)年7月以降


小田急のホーム脇で一段高い所にあった京王線の地上駅。駅は地下に潜り、駅の上に京王百貨店ができた。 1963.4.1 写真は地下駅が開業した日だった。


地上の京王新宿駅から甲州街道に出て来た京王線。京王新宿駅は地下に潜り、新宿駅南口がこれから大きく変わって行く。1963.3.20


京王線の中型車

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甲州街道をゴロゴロ走った。1963.3.31
翌日の4.1に京王新宿地下駅が開業した。


デハ2403を先頭に全車パンタ付5両編成。下高井戸


つつじヶ丘を出た下り電車、遠くに国分寺崖線の台地が見える。 1963.7.31

デハ2150形 1961.8.31 笹塚  先輩のアルバムより。

デハ2150形 下高井戸 1962.12.7


新宿行 デハ2125 つつじが丘  1963.07.31


1963年4月に開業した京王線新宿地下駅。
まだ昇圧化がされてなく中型車が数か月地下駅にやってきた。

北陸本線 石動駅(再掲)

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10年前の2015年10月28日に投稿した過去の思い出記事です。


北陸本線の金沢と高岡の間にある石動(いするぎ)駅といえば加越能鉄道加越線。
北陸本線はこの年に金沢まで電化され石動は電化工事が始まる頃で、石動駅の片隅には加越能鉄道のりばがあって砺波平野を庄川町まで19.5Kmを走っていた。東急車両製で湘南型2枚窓のキハ120形2両は加越能鉄道の廃線後関東鉄道に転じ鹿島鉄道で有名な人気者キハ431と432となった。。
一連の北陸を撮影した田辺さんは富山から金沢へ向かう途中、石動駅に降りて加越能鉄道とDF50や特急白鳥を撮っていた。 加越能鉄道はこの9年後1972年9月に廃線となった。

撮影:田辺多知夫 1963.07.12  石動駅

北陸本線石動駅の全景 特急「白鳥」

石動駅の端から出ていた加越能鉄道加越線.発車を待つキハ3 昭和6年日車製

石動駅の加越能鉄道

ハフ31(元キハ1)  サボに表示された「石動⇔庄川町」


まるで模型のような外観の機関車DL112 昭和32年東急車両製
中々アカ抜けしたスマートな機関車です.

加越能の珍車キハ15001. 構内には北陸本線電化工事の電柱が並ぶ.
昭和28年輸送機工業製で、将来の電化に備え過ぎて失敗した車両.外観は電車形で台車はFS13を履いている(鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり4より)
FS13台車を履いた電車になりそこねた珍車

「いするぎ」の駅名

石動駅信号機切替レバーで、1本しかないのは国鉄用ではなく加越能鉄道用ではないかとのこと。ネコパブ「国鉄時代」に連載中「鉄道施設探検」の榊原氏談


石動駅のDF50 (再掲載)

キハ82系特急「白鳥」

これから電化工事が始まる北陸本線を倶利伽羅峠へ向かう汽車の車窓で、沿線の民家や電柱を運ぶ日通トラックが見える.

参考: 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第4分冊 1963年

泗水(しすい)の朝

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熊本電鉄 1967年春
あの朝、ホームに犬がいても誰も驚かなかった。菊池からの上り電車が到着し、小学生の一団が改札へ向かう。犬は動かない。ただ、線路の向こうを見ている。

やがて下り電車が到着し、降りてきた男の足もとへ犬は迷いなく寄り添った。声もなく、尾を振るだけで迎えは済んだ。

改札の駅員も、運転士も、乗客もそれを特別な事にはしなかった。危ないと叱る者もいなければ、規則を持ち出す者もいない。私も何も感じなかった。それが当たり前の時代だった。
今になって思うのは、あの当たり前はもう戻らない。


菊池初の上り藤崎宮前行が到着するとホームに犬が一匹。

小学生の一団が改札へ向かうとまだホームにいる犬。


やがて客車を牽いた下り菊池行が到着し電車は交換する。


電車を降りてきた乗客に寄りそう犬。


電車が去り静まり返った駅に美しい文字「しすい」



上武鉄道を訪ねた日

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上武鉄道 1962年12月
あの頃の撮り歩きは、日帰りだと宿や移動の心配もなく、一日撮影を楽しむことが出来た。十二月のある日、蒸機がまだ動いているらしいと聞き、上武鉄道を訪ねてみた。よく晴れた暖かな一日で胸が自然に高鳴っていた。

八高線の丹荘に降り立ち、どんな列車が来るのかと待つ時間が楽しい。やがて現れたのは、最後尾に客車一両をつけた貨物列車だった。構内で貨車を切り離すと、奇妙な機関車は客車一両だけ牽いて引き返すのでそれに乗った。

列車が終着駅に到着すると、そこは西武化学の工場の内部だった。構内で見慣れない蒸機が何両か煙を吐いている。事務所で許可をもらい蒸機を求めて構内を自由に歩き回り、夢中でシャッターを切った。

あの頃は情報がなかった。行ってみなければ、何が居るのか分からない。そこに大きな楽しみがあった。今は事前に多くのことが分かる。便利で効率的になったが、あの時の胸の高鳴りは遠くなった。


埃に煙る桑畑を行く.


丹荘駅構内の片隅.


西武化学の構内.

この日に活躍していたアメリカンロコ.

雨の耶馬渓

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 大分交通 耶馬渓線  1967年春
耶馬渓を流れる山国川は、雨が降るとすぐに増水する。その川沿いを、耶馬渓線が走っていた。羅漢寺駅周辺は観光地として知られた土地だった。だがあの日は雨が楽しさを奪っていた。

耶馬渓に冷たい雨が降り、観光客の姿は見えない。増水した川辺に下り、雨に濡れながら一人列車を待った。何のために飲まず食わずでこんな辛いことをしているのか。学生だった私は、よくこんな問いかけを自分にすることがあった。

あれから40年余りが過ぎた頃、やっと苦労が報われる時代がやって来た。あの時に撮り歩いた蓄積は無駄ではなかった。



羅漢寺駅の向うにそそり立つ耶馬渓の奇岩.

青の洞門.


朝の東和歌山駅前

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 和歌山軌道線 1964年夏
この頃、各地の小私鉄で、こんな朝の風景をよく見かけた。
団塊世代がいっせいに通学する、独特の賑わいである。
おそらく、そのピークは1965年前後だっただろう。



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