Quantcast
Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
Viewing all 1195 articles
Browse latest View live

関東鉄道鉾田線 石岡機関区

$
0
0
鉾田線を訪問したのは夏休みも終わる1966(昭和41)年の8月末であった。
石岡駅構内には元東横キハ42200形、びわこ型キハ201などが休み、その先に石岡機関区の看板が掛かった木造2階建ての事務所があり、補修の付属工場とピットがある検収庫が事務所と一体になっていた。
この石岡機関区付属工場こそがベルトとプーリによる動力伝達機構、古い工作機械など歴史的遺産を備えた工場で、2007年3月の鹿島鉄道廃線まで歴史的な設備が使われていた。

石岡機関区の建屋を撮ったのはこの写真のみであった. 1966.08.28
左奥にクラウスがいた機関庫がある.

入口に「石岡機関区」の看板を掲げた木造二階建ての事務所.

キハが休む向こうに石岡機関区が見える.

びわこ型キハ201や元東横キハ42201が休む石岡構内


給水塔などがある一角


鹿島鉄道 石岡機関区

$
0
0
次に石岡を訪ねたのは1966年から41年が過ぎた2007年春のことであった。
関東鉄道鉾田線は鹿島鉄道に変わり、当然昔の車両は殆ど入れ替わっていたが石岡機関区がある石岡駅の佇まいは昔のままであった。そしてあの機関区の建屋も外壁や屋根が張替られていたが形状は昔のままであった。

あの頃のびわこ型や元東横キハが居なくなり、平成になってKR500形気動車4両が入線したくらいしか鹿島鉄道のことを知らず関心もなかった私は、その後魅力的な気動車が入線していた事に全く気付いていなかった。沿線風情を含め鹿島鉄道の素晴らしさ気付いたのは廃線まじかの2007年春の石岡訪問であった。

夕方の石岡機関区. 2007.03.08
機関区の建物は改装されているものの昔のままであった.
奥の昔機関庫があったところにキハ431+432が休んでいる.

朝の石岡機関区.   2007.03.08
この頃の朝はいつも金太郎塗りキハが待機していた.

朝の石岡構内.   2007.03.08
手前には元夕張のキハ714がいた.



静まり返った朝の石岡構内. 2007.04.01

これも朝一の石岡機関区と石岡構内を撮ったものだが金太郎塗りキハ431、432そして元夕張キハ714はもうここには居ない.肌寒い昨夜遅くのラストラン喧騒が終わって一夜明けた朝の様子で、天候は一変し春の陽を浴び桜の蕾膨らむ構内は静まり返っていた。昨夜のラストランで鉾田へ向かった金太郎塗りキハ431、432はそれっきり石岡に戻って来ることは無かった。 そして元夕張キハ714も居なくなっていた。
前日のラストランの喧騒 2007.03.31

桜の蕾が膨らんできた頃、役目を終えた石岡機関区.  2007.04.01

石岡機関区の桜と、とり残された車両.
左のキハ602(元国鉄07形)と奥のKR500形何両かは石岡構内で解体された.

鹿島鉄道 廃線直後の鉾田駅

$
0
0
鹿島鉄道のラストラン2007年3月31日の翌朝に石岡駅構内に戻ってこなかった車両は一体どうなったのか、鹿島鉄道の廃線後を訪ねてみました。

廃線から12日が過ぎた桜満開の春爛漫の日、まずは終点鉾田へ。そこには役目を終えたキハ431とキハ601、それにKR-505の3両が留置されていた。鉾田駅に保存する目的がその後いろいろあったようで、この時常陸小川駅に留置(その後搬出)されていた車両を含めて今も無事に保存されているようである。
この日は春の鹿島鉄道の余韻を一日のんびりと楽しむことができた。

桜満開の鉾田駅構内に休むキハ431とキハ601       2007.04.12

とても熊谷のブタ鼻気動車の仲間とは思えない美しいキハ431

役目を終えた鉾田駅

廃止後の鉾田駅に残る気動車のオイル



廃線直後の鉾田駅   2007.04.12

鹿島鉄道 廃線直後の常陸小川駅

$
0
0
鉾田駅の帰りに訪問したのが常陸小川駅で、ここにも石岡へ戻ってこなかった車両が3両留置されていた。石岡には戻らなかったこれらの人気車両は廃線後の引き取り先があったのでしょう。

桜咲く頃、心地良い春の陽を浴びて列車がやって来れば最高の撮影日和であるが、もう列車がやって来ることはない。踏切にはロープが貼られ鉄路は死んでいた。  常陸小川 2007.04.12

静まり返った常陸小川駅に今にも列車がやってき来そうだ。

ひと月前のすばらしき常陸小川駅の夕方.  2007.03.08


小川駅の本線上にシートを被って元夕張キハ714と金太郎赤キハ432そしてKRがいた.2007.04.12

引込線や貨物ホームがあり絵になる常陸小川駅に留置された車両3両.


       

        

        
半月前の廃線直前は多くの人で賑わっていたのが一変し
時計が止ったようで人気のない常陸小川駅. 2007.04.12

鹿島鉄道 気になったキハ714

$
0
0
梅が咲き始める頃 八木薪を行くキハ714. 浜 - 八木薪 2007.03.28

銀色の屋根を光らせて通り過ぎたキハ714.    浜 - 八木薪 2007.03.28

霞ヶ浦湖畔を行くキハ714.     2007.03.28

1976年に夕張鉄道の廃止により転入してきたキハ714は昭和28年新潟鐵工所製で、正面2枚窓湘南型と側面のバス窓は昭和30年頃前後の気動車によく見られたスタイルをしていた。
加越能から転入してきた全長短いキハ430形は昭和32年東急車両製でこれとよく似ていたが、正面の顔は714形の方がずっと美形であった。最後の頃のキハ714は側面の大きな週刊誌広告がちょっと残念であったが。

常磐線のホームから鹿島鉄道のりばを見るといつもキハ714が目に入った. 2007.03.08

石岡構内でいつもここに休んでいたキハ714. 2007.03.08
側面の週刊誌広告『週刊の怪物Gallop』とは産経新聞社の競馬週刊誌のことであった.


最終日に乗ったキハ714

キハ714 最終日の走り. 榎本 - 玉造町  2007.03.31

最終日の夜20:30には石岡にいたキハ714.    2007.03.31

小海線 夏の思い出

$
0
0
小海線と言えばC56、そして夏の賑わい。C56は高原の人気物であった。

佐久海ノ口  1971.08.14

清里駅のC56

清里の賑わいとC56   1971.08.15

清里駅のC56

道路に人と車が溢れた撮影ポイント. 清里 - 野辺山  1971.08.14

野辺山  1971.08.15

小海線 臨時急行「こうみ」

$
0
0
1970年頃から一時期小海線沿線をたびたび訪問していたことがあった。しかし上田丸子電鉄のついでに立寄ったり、八ヶ岳赤岳登山や高原ハイキングで利用したり、沿線をドライブしたりしたりで、小海線をまともに撮る事はなかった。唯一1971年8月14~15日の小海線訪問だけは珍しくC56を目的としてクルマを利用した撮影旅であった。

小海線のC56が牽く客車列車は新宿発の季節臨時「八ヶ岳高原」号だけでなく、お盆休みの8月18日まで上野~小海間に夏の臨時急行「こうみ」があった。上野発急行「こうみ」は列車を小諸で分割して小海線の小海まで上下各一本が走っていた。

朝一に中込駅に待機していたC56125の単機回送を追い掛け小海駅までやって来ると、小海駅ではC56125が9:19発上野行き旅客列車の準備に動きまわっていた。清里の喧騒とは違って静かな小海駅の旅客列車はローカルムードに溢れていた。

上野行き旅客列車の準備で、C56の煙と転車台が右奥に見える.小海 1971.08.14

小諸側に向きを換えたC56125は停車中の客車3両を連結する. 小海

小海9:19発の上野行き臨時急行「こうみ」は千曲川沿いに小諸へ向かう

「こうみ」撮った後は貨物を撮りながら清里へ向う. 松原湖-小海
松原湖が近い

佐久海ノ口

海尻-佐久海ノ口?

佐久海ノ口を出たあたり?

小海線 臨時 「八ヶ岳高原号」

$
0
0
清里の民宿に一泊し、翌日は1日一往復だけ走る臨時「八ヶ岳高原号」を往復とも撮れたがこの時は背後の八ヶ岳が見えず「八ヶ岳高原号」は不発に終わった。この前年には上田丸子と長野電鉄の合間に一日掛けて立寄って上りだけ撮れたがこれも煙吐かずイマイチであった。今思えばお立ち台などには目もくれず視点を変えて小海駅でC56旅客列車を小さく入れた駅風景を気の済むまで撮るべきであった。
この頃の小海線C56については「津島軽便堂写真館」さんで地図とダイヤ入りで詳細に紹介されていますのでご覧ください。

下りは朝霧の中にかすむ「八ヶ岳高原号」 清里-野辺山 1971.08.15

上りの「八ヶ岳高原号」  1971.08.15

小海線お立ち台の賑わい

前年に撮った上り「八ヶ岳高原号」    野辺山-清里 1970.08.16   


茨城交通湊線 那珂湊車庫

$
0
0
1972(昭和47)年夏の茨城交通湊線は「海辺の終着駅」で阿字ヶ浦駅風景を紹介したことがあります。この時の湊線は北海道からやって来た暗いえんじ色気動車集団に入れ変わった頃で、これらの車両には全く無関心だったのですが、改めて那珂湊車庫で撮った写真を見てみると活躍の場を失った元茨城交通茨木線の残党や湊線で活躍していた残党がまぎれていました。まずは那珂湊車庫の風景から。

1972年夏の那珂湊車庫
車庫には元北海道集団の有り余る大変な台数が占領していた. 
右に休むのは元々湊線でツートンカラーに塗られていた湘南スタイル2枚窓で
北海道集団の暗いカラーリングに統一されて見分けがつかなくなっていた。

元留萠鉄道のキハ1001


茨城交通発注の生え抜きケキ103とケキ102 新潟鉄工所製.  那珂湊車庫 1972年8月
どこかで見たようなB-B型機関車は津軽鉄道のDD351、352と全くの同型機だそうだ.
ケキ103は通勤時や海水浴シーズンには客車5両を牽いて活躍したそうである.

主力となっていた元北海道濃えんじ色気動車

茨城交通湊線 湘南スタイルの気動車

$
0
0
北海道集団がやってくる以前の茨城交通に所属していた気動車はキハでなくケハと表示され、那珂湊車庫にはケハ401、ケハ402、ケハ45が休んでいた。この日出動していたステンレス車ケハ601を含めこの頃の湊線には地方私鉄らしい湘南スタイルの気動車が3両(ケハ401、402、601)揃っていたわけです。

ケハ401  那珂湊 1972年夏
ケハ401は茨城交通茨城線(赤塚~御前山)で最後まで活躍した車両で、1971年2月の廃線後に湊線へ移動して間もない姿であった。ドアのステップが大きく下った田舎臭いスタイルでツートンカラーで茨城線で活躍していた姿は想像しただけで堪らない魅力を感じてしまう。
こちらが有田鉄道キハ250と同形で山鹿温泉鉄道の注文流れを引き取ったとのこと。

有田鉄道の同形車

ケハ402   那珂湊 1972年夏
ケハ402は元から湊線にいた気動車で、これも湘南スタイルでツートンカラーの気動車を雑誌などで見て湊線と言えばこのケハ402のイメージが強かった。こうして2両とも羽幌炭礦鉄道カラーに塗られてしまうと別物になってしまうものだ。


ケハ45  那珂湊 1972年夏
元国鉄04のケハ45も茨城線で最後まで活躍して湊線へ転籍した気動車で茨城線時代のツートンカラーのままであった。

湊線を代表するのが日本初のステンレス製気動車ケハ601で昭和35年新潟鉄工所製。湊線の湘南スタイル気動車ケハは全て新潟鉄工所製が揃った。国鉄規格型北海道集団の投入で、この後の湊線は地方私鉄らしさ(車両)は一掃されてしまった。
ケハ601   阿字ヶ浦 1972年夏

阿字ヶ浦のいも畑と潮風の中を行く湊線ケハ


奥能登の蒸機列車

$
0
0
1972(昭和47)年の能登半島には国鉄七尾線(津幡~穴水~輪島)と国鉄能登線(穴水~蛸島)があったが、
第三セクターの「のと鉄道」になってから穴水~輪島間と穴水~蛸島間が廃線になっている。

1972年秋に車で能登半島めぐりをした頃は、半島は奥能登ブームであったようで半島外浦側は女性観光客が多かった。そして国鉄七尾線・能登線にはC11のふるさとSL列車「奥のと号」が走っていてC56の貨物列車もまだ走っていた。
wikipediaによると七尾線の蒸機は1974年まで走っていたことになる。


1973年(昭和48年)9月29日: SL「奥のと号」運転終了。
1974年(昭和49年)4月4日:蒸気機関車運転終了。
1988年 (昭和63年) 穴水~蛸島間が第三セクター「のと鉄道能登線」として開業。
1991年(平成3年)9月:和倉温泉~穴水~輪島が「のと鉄道」に経営移管される。

七尾能登線を行くふるさとSL列車「奥のと号」 輪島比良付近 1972.09.16

C11が牽くふるさとSL列車「奥のと号」

通りかかったC56の貨物列車.  輪島比良近辺
この時に見た C56123は七尾線を引退してから七尾市で動輪のみが保存されていて七尾市の解説によると「C56123は昭和16年に七尾線に配属されて以来昭和48年まで32年間走り続けてきた」とあるが、1966年に小諸で中込所属のC56123が動いていた。一時期小海線に転出していたのだろうか?

奥能登 外浦側の海岸線

能登金剛ともう一つの能登線

$
0
0
能登半島の元国鉄七尾線・能登線のその後は名称の経過が複雑で調べていると大混乱。今走っている鉄路はJRが津幡~七尾~和倉温泉間まで、のと鉄道が七尾~和倉温泉~穴水まで、その他は廃線で消えたという事になるのでしょう。

能登半島の鉄道

能登半島の東側にある能登金剛と言えば松本清張の「ゼロの焦点」、その能登金剛に近い「三明」までもう一つの能登線である北陸鉄道能登線(羽咋~三明間25.5Km)が何と昭和47年6月まで走っていた。
現役時代の北陸鉄道能登線を訪問したのはこの能登半島めぐりのずっと昔昭和37年であった。昔は国鉄七尾線の羽咋で北陸鉄道能登線に乗換え三明まで行き、そこから国道をバスで能登金剛の近くまで行く、そんな観光ルートだったのでしょう。

「能登金剛」は約30kmに亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸. 1972年9月
この「能登金剛」巌門はかっての北陸鉄道能登線の終点三明から数キロの位置にある.

夏の能登海岸をのんびり走っていた能登線. 1962年夏

 

海岸線を行く能登線 柴垣-滝

キハニ5102 雨宮製作所昭和6年製.  羽咋
能登線には能登にふさわしい個性的な気動車が揃っていた.

小型ボギートレーラ.  コハフ3001

七尾線のC58

小諸で見たC56123

$
0
0
国鉄能登線で見たC56123を小諸で見たのは6年前の1966(昭和41)年夏で、中込区所属のC56123号機であった。七尾区に永く所属し能登で活躍したC56123は一時期小海線中込区に所属していたのだろうか。
真夏の白い雲が浮かぶ信州の山並み望む小諸でC56は美しい姿で貨物入替え作業に励んでいた。

 機関車データベースより抜粋 C56123
1942-01-21志布志区→七尾区
1964-04-01七尾線管理所
1968-03-31現在 七尾区
1973-01-22和倉駅付近で踏切事故発生
1973-06-16廃車
1991-05現在 希望の丘公園にて保存
1997-04現在 解体 動輪のみ七尾鉄道発祥地に保存

小諸で見たC56123  1966.08.19

入替え作業に励むC56123   小諸 1966.08.19

小諸城址懐古園から浅間山方面を望む

1/80模型 大人と子供

$
0
0
以前、近鉄四日市駅の内部・八王子線(旧三重電気鉄道)「大人と子供」を紹介したことがありますが、
この駅の「大人と子供」対面風景を模型で再現した方からメールを戴きました。
模型は近鉄湯の山線が18mmゲージ、内部・八王子線の軽便が9mmゲージで、縮尺1/80。
更に13mmゲージがあり1/80 9mmナローの存在理由がここにあります。
接続駅がある軽便鉄道の楽しさは、実物も模型も正にこの対比にありと思います。

四日市駅の大人と子供  1965.8.5
近鉄湯野山線と内部・八王子線(旧三重電気鉄道)の
標準軌1435mmとナロー762mmの電車が対面する場面.

 模型で再現「大人と子供」 9mmGと18mmG  1/80

複線が狭軌13mm、単線が標準軌18mm、右端の小さいのが軽便9mm  全て縮尺1/80   
軽便が楽しくなる羨ましい運転会です。


昨日の講演で使った資料

花巻電鉄 クルマ社会到来の直前

$
0
0
1960年代前半の地方の道路は幹線や都市部を除けばどこも未舗装でトラックもバスも滅多にやって来なかった。車も来ない砂利道の端をお客を満載した軽便電車が走って行く。花巻電鉄軌道線の昭和39年頃はそんな風景であった。日本がクルマ社会到来で大きく変わるほんの直前、昭和39年頃の地方私鉄は廃線ラッシュであったが、その一方でまだ元気に走っていた路線もあった時代であった。
あのクルマ社会到来の直前から50年が経った今、どこへ行ってもマイカーが綺麗になった道路や見違えった街並みを走っている。そんなマイカーもEV時代到来となる今年の東京モーターショー2013がまもなく開催される。

滅多に車が来ない砂利道と花巻軌道線の線路. 鉛温泉-山の神 1964.08.02
豊沢側に沿った街道(現:県道12号)でもこの辺りではバスやトラックを見掛けなかった.

そんな道路の端をお客満員でやってきた軽便電車. 鉛温泉-山の神

花巻近郊の西公園停車場へやって来た「滝乃沢」行きのバス.
花巻近郊には既にバス網が進んでいたようだ.

西公園を過ぎると道路は狭くて穴ぼたらけ.こんな道路をバスが走っていた.
天気が良いと水をまいて少しでも埃を抑えるのは東京郊外でも同じであった.

雨が降ると悲惨な状況に. 埃と泥に悩まされた時代であった. 1966.03.04


国分寺駅と下河原線

$
0
0
1964年に国分寺駅の中央線ホームから撮った1枚の写真に見慣れない国電が。
拡大してみると行先表示板には「国分寺」と「東京競馬場前」の文字が読める。
これが1973年4月の武蔵野線開業で消えた下河原線(国分寺~北府中~東京競馬場前)
の電車ですね。八王子区のハチロクが貨車入替えで盛んに煙を吐いていた頃。

中央線国分寺駅3番線下りホームより駅南側を見る. 1964年4月

国分寺駅南側に出る跨線橋の下に小さなホームがあり
ここから下河原線が発着していたようだ.1963.09.08

国分寺駅下河原線ホーム.駅の南側高台に西武多摩湖線のりばの表示が見える.

現在の中央線国分寺駅と駅北側から発着している西武国分寺線.2009年12月

西武国分寺線を走っていた新101系2+4連も消えてしまった. 恋ヶ窪 2009年12月

九十九里鉄道 キハ102の最後

$
0
0
九十九里鉄道のあとかた」 で九十九里の車両の解体残骸現場を紹介したことがありますが、そう云えばあの現場でキハ102を採寸したことを思い出しました。ノートをめくってみるとキハ102そしてボギー客車ケハ111の一部が採寸してありました。不思議なのは採寸した窓回りなどの残骸が写真に写ってなく、ボギー客車に至っては何も写っていません。たぶん、採寸できた残骸はバラバラになって草むらに転がっていたのでしょう。
こんな残骸は更に細かくされてトラックへ積まれているところで、あとかたも無くなる寸前のキハ102でした。

解体現場の残骸を採寸したノート S50-5-3 東金にて 九十九里鉄道ケハ111、キハ102
ボンネット含む車両最大寸法(長×幅×高)については鉄道模型趣味No.81にあった
九十九里キハ100形の車両竣功図と諸元表により把握することができた。


悲しいキハ102最後の姿     東金 1975.05.03

側面の社紋とキハ102表示

リヤ面の102表示

ラジエターと散乱しているキハ100形の各部位

解体撤去作業

1/80 9mmナロー 九十九里キハ102タイプ(車体) 南洋物産㈱製

あれから50年の東京モーターショー2013

$
0
0
サニー、カローラが登場しマイカー時代幕開けとなった東京モーターショー1966から約50年が経った今年の東京モーターショー2013。あの時の人々のクルマへの憧れはすっかり消えたが会場の熱気は50年前と変わらないようだ。

マイカー時代幕開けとなった1966(昭41)年の東京モーターショー1966

東京モーターショー2013
これからの生活の足はEVの時代. ミニEV

究極の燃料電池の時代がいずれ来るのでしょう

今の日本には似合わない昔憧れたクルマ

会場の熱気

竜ヶ崎線の小さな旅

$
0
0
東京通勤圏として発達してきた関東鉄道(元鹿島参宮鉄道)竜ヶ崎線。
何回か訪問した昭和30年代後半の頃は蒸機の貨物列車が走りまだ昭和30年代の面影を残していた。
鉄仲間と訪れた昭和38年夏の竜ヶ崎線はあいにくの曇天であったが近場で小型蒸機を存分撮ることができた心休まる小さな旅であった。

竜ヶ崎駅の佇まい  1963.08.17

キハ41302の車内

帰りに乗ったキハ41302+キハ103(トレーラ)  竜ヶ崎

竜ヶ崎線唯一の中間駅 入地.
駅裏に干された洗濯物、どこまでも一面に拡がる田園など長閑な沿線風景であった.

竜ヶ崎線佐貫駅の改札口

竜ヶ崎線の改札口から常磐線ホームに出たとたん現実に引き戻された.

龍ヶ崎機関区

$
0
0
龍ヶ崎機関区は以前にも紹介したことがありますが、今回はオリンパスペンで撮ったものを集めてみました。
イカロス出版2012年「蒸気機関車EX」Vol.07で諸河プロが大判カメラで撮った写真と伴に龍ヶ崎の煙に掲載されたハーフサイズカメラで撮った機関区の一コマです。昭和38年は4号機が本線を走り5号機も健在で東京近郊でこんな小型蒸機がまだ働いていた時代でした。

「龍ヶ崎機関区」の看板を掲げた詰所と4号機(大正14年川崎造船所製) 1963.08.17

  
      機関車背面の石炭庫へ石炭を放り込んでいる見事な技

 


模型のようなこじんまりと纏まった機関区ストラクチャー

美しく黒光りした5号機.大正10年日本車両製  竜ヶ崎
Viewing all 1195 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>