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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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遠鉄奥山線 最後の日-2

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奥山線の最終日の日中は鉄ファンや地元住民のカメラの放列などはなく落着いた1日であった。この頃はまだ鉄ファンが大挙してやってくる時代ではなかったのでしょう。
地方私鉄の廃線最終日は鉄道会社や地域によっては派手なイベントもあったが、奥山線の日中は乗客で賑わったが派手なイベントはなかった。
永く親しんできた奥山線が消えるとあって、多くの沿線の人々が乗り納めにやって来た。通勤通学で奥山線を利用してきた人達の足は翌日からバスとなるが不便はなかったのだろうか。
この日の最終列車を見送るまで長い時間があったが、全線を行ったり来たりして各駅乗車券(使用済)や行先表示板(許可されたモノ)を収集したりで忙しい一日であった。会社が奥山線廃止記念にモノを販売するなんていう事はなかった。


親子連れなど沿線住民の皆さんが奥山線を惜しんで乗り納めにやってきた.曳馬野 1964.10.31
大人から子供まで皆が式典に参加というような雰囲気があった.

曳馬野駅の電化区間から非電化区間へバトンタッチするのも今日で終わり.

曳馬野駅の改札口

曳馬野駅の賑わい

超満員の乗客を乗せて遠鉄浜松へ向かう電化区間の列車.

無料の記念券

秋の田園風景をのんびりと走る.

三方原台地から祝田の田園地帯へ下る最も変化に富んだ区間.都田口-谷

気賀口に休む客車.


遠鉄奥山線 最後の日-3

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1964年10月31日の最終日は最終列車で花束贈呈があり秋の暗闇にひっそりと消えた奥山線であったが、その翌日には遠鉄浜松駅の奥山線ホームを会場にして奥山線廃止の式典が大々的に行われた。
思い入れがあった奥山線だけに最後まで見ておこうという気持ちがあってか関心薄い翌日の式典まで居残ってしまった。この日の会場の看板を見ると「奥山線営業廃止 代行バス運転開始 式」とあり、代行バスの運転開始のテープカットが行われバスの行先には奥、曳馬野、都田口、気賀口が表示されていた。
当時の道路はまだまだ整備されてなく大変な砂利道を走った代行バス路線であったと思われる。
今の遠州鉄道細江営業所のバス路線に奥山線45番があり浜松から奥山まで、あの時に開通した代行バス路線がその後経路変更があったとしても50年経った今も走り続けていることになる。

今の奥山線45番 浜松駅 - ゆりの木通り - 市役所南 - 三方原 - 金指 - 井伊谷 - 竜ヶ岩洞入口 - 奥山

 気賀口発の最終列車 1964.10.31

 曳馬野発の最終列車.

翌朝、元城車庫に集結した車両. 1964.11.01

翌日に遠鉄浜松駅で行われた式典. 1964.11.01

式典に元城車庫からやってきた電車

代行バス運転開始のテープカットを見に来た地元の人々や近所の子供達. 遠鉄浜松

遠鉄奥山線 祝田の変貌

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写真は2000年に奥山線の跡を訪ねた時に祝田の大築堤があったところを撮ったものです。
奥山線が都田口から三方原台地を下り谷を過ぎ祝田の大築堤をカーブし、そこから先一面畑の中を一直線に金指へ向かって走っていた祝田風景の36年後です。時が経つと奥山線現役時代のあの風景があまりも長閑過ぎて信じられないくらいです。廃線となった1964年(東京オリンピック開催)の頃から浜松郊外も大きな変貌が始まったのでしょう。

祝田駅と大築堤があったところで遠くに金指の街並が見える. 2000年5月

この区間は奥山線に沿って細い砂利道257号が走っていましたが、奥山線廃線後を道路拡張に使って今の国道になったと思われます。当時の5万分の1地図で確かめると今の国道257号の線形は奥山線の軌道とよく一致していて、都田川を亘ると少し向きを変え金指へ一直線に進んでいます。

昔の奥山線と細い砂利道(国道)

では奥山線が走っていた頃の風景を逆に金指から祝田へと向かってみます。
金指を出ると稀にトラックやバスが通る砂利道と並走して祝田へ向かう.
あたりは一面畑で何もない. 1964年3月

砂利道と別れ少しカーブしてから都田川鉄橋を渡る. 1964年10月

橋の先の直線区間に祝田駅がありここでバスは奥山線を横切る.ここから先、
奥山線と砂利道は並走し台地の手前で大築堤を左にカーブして登る.1964年3月

奥山線と並走して台地へ入る砂利道は国道とは言えバスやトラックがすれ違いできるのか?
と思えるくらい細い道であった.遠くに金指方面の山並みが見える.1964年3月

遠鉄奥山線の丸妻客車

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奥山線の魅力を引き立ててくれた一つに奥山線用に製造された丸妻客車があり、電車や気動車に牽かれて走る丸妻客車の光景に素晴らしいものがあった。
丸妻客車は形式が幾つかに別れるが、開業時からのサハ1108と1109とそれ以降の製造では基本寸法は同一で外観も殆ど見分けがつかない。
サハ1101型 1101 1102   雨宮製作所 大正11年製 奥山延長時の新造車
サハ1108型 1108 1109 大日本軌道鉄工部 大正3年製 開業時の客車4両のうちの2両
サハ1110型 1110    日本車両 大正12年製 
サハ1111型 1112    雨宮製作所 大正11年製 
  ハ1154型  1154    名古屋電車製作所 大正4年製

この番号順に丸妻客車の外観を並べてみました。

サハ1112+1102+1101  1963.04.04

サハ1102と1101の連結部 柴田式簡易自動連結器(車両竣功図より)
下の狭いせんろの枕木間隔がよく分かる.

サハ1102の車内

サハ1102
ハ1154
同サイズのアーチバー台車でも車輪のフランジ厚みでイメージが大きく変わる.
サハ1110
丸妻客車のアーチバー台車はどれも軸距1016、車輪径530φに統一されている.

サハ1101  1964.03.23

 サハ1102

サハ1108

サハ1109

サハ1110

サハ1112

ハ1154


電車に牽かれて走る丸妻客車サハの風景.    1964.10.31

沼尻鉄道の客車

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ナロー模型の題材として超人気の沼尻鉄道で、車両写真は多くの書物で紹介され出尽くした感があります。
もう何年も原稿待機していた奥山線丸妻客車に引き続き沼尻の車両写真もアップしてみます。今さら解説も不要な車両ばかりです。
撮影 1964.01.02~03

ボハ6  
軸距813車輪径457φの極小アーチバーは模型化で市販品台車がピタリ合う.
極小アーチバーのせいで地を這うような軽便らしさを最も感じさせてくれた.

ボハ6と同形のボハ7

ボハフ1  

ボハフ1と同形のボハフ2

ボサハ14   

 いかにも自社工場製らしいボハフ11 

定員20名のサハ8 車輪径510φ

沼尻鉄道の客車(細部)

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いつもの「オリンパスペンで撮った軽便」で、沼尻の客車もデッキ回りやアーチバー台車などを集めてみました。前回の車両写真も大半はオリンパスペンで撮ったものです。
撮影 1964.01.02~03

ボハフ1の風格あるデッキ回りと車体

ボハ6の素朴な車体と極小アーチバー台車の組合せが素晴らしい.

ボハフ1、 2、シボフ3、ボハフ11の
大柄で少し間の抜けたアーチバー台車[軸距1016 車輪径559φ]

ボハ6の引き締まった極小アーチバー台車 [軸距813 車輪径457φ]

ボサハ14のアーチバー台車 [軸距1016 車輪径500φ]

ボハフ11

沼尻鉄道 磐梯山と珍編成

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雲の切れ目に輝く雄大な磐梯山を捉えたのだが、珍編成の方は残念無念.
50年経った今もフィルムをケチッたことが悔やまれる.
ガソ+ボハフ+DC+ボサハ+ボハは脱線をガソに救援されて川桁へ向かっているところでした.
  白津-内野 1964.01.02


八高線 金子坂を下ったところ

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1967年頃よく通った八高線は金子から東飯能に向かって金子坂を下ると左にカーブし広い茶畑に出て西武池袋線と立体交差する。当時、西武池袋線のことは全く眼中になかったが昨年末に引退する西武101系を撮りに行った所はこの立体交差の近くであったことに最近気が付いた。現在の西武池袋線を元加治の先へ向かったところの風景はあの時の八高線の荒涼とした風景とどうしても結びつかない。

八高線  金子-東飯能 1967.02.03
金子坂を下ってきた石灰石運搬列車が入間川鉄橋、西武池袋線を越えて東飯能へ向かう.

西武池袋線と立体交差するところ. 金子-東飯能 1967.02.13

西武池袋線が八高線と立体交差する手前飯能側の風景.元加治-飯能 1967.02.13

立体交差過ぎた所沢側 元加治-飯能

昨年末の最後の101系. 西武池袋線 元加治-飯能  2012.11.07
この先で八高線と立体交差する.

西武池袋線が八高線と立体交差する所沢側の風景. 2012.11.07 


八高線 金子坂

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前回は八高線の金子坂を下ったところでしたが、今回は金子坂です。撮影 全て1967.02.03

金子坂を上るD51牽引の貨物列車    金子-東飯能

毎年2月3日は八高線に高尾臨(節分列車)の旅客列車が上下各2本が走っていたので、この年は朝から八高線沿線を歩いた。まずは高麗川へ行き朝8時20分着の上り列車(高麗川駅)を撮り、高麗川~東飯能間の山越えを貨物列車を撮りながら東飯能へと歩き、更に金子方面に歩いて金子坂で下り旅客列車を狙った。この頃の八高線はSL本格派にとっては人気がなかったようで、高尾臨が走る日でさえ金子坂で出会った同行者は確か数人くらいであった。

午後の下りで高尾臨が引き返して来るまで、D51の貨物を寂しい金子坂の自然のなかで楽しむことができた。金子坂の今は木立ちが成長しうっそうとした森の中を走る感じで、昔の俯瞰風景は一変してしまったようだ。

終日よく晴れ渡った天気で飯能方面をきれいに見ることができた.

D51重連の貨物列車

金子坂を下ってきたD51が牽く下り高尾臨 節分列車

のんびりと金子坂を行くキハ17形

C58の貨物列車と金子坂の未舗装道路.   金子-東飯能

金子駅を発車したD51重連

金子駅を発車したD51重連

下り高尾臨D51 が金子に到着

高尾臨が夕闇せまる金子駅に到着する頃、客車のテールランプの光りが印象的であった.

えちぜん鉄道の秋

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毎年この季節になるとえちぜん鉄道の秋が思い出される。
終点勝山から比島、発坂、保田へと歩き
青い空に浮かぶ白雲、大日山とその向こうの白山連峰、越前名物蕎麦の畑、九頭竜川の流れを見て
越前のすばらしい秋を満喫したのは2008年のことであった。
えちぜん鉄道沿線の自然は京福電鉄の時代から何も変わっていないのだろう。

勝山から保田へ向かう  2008.10.13

福井鉄道 朝の市役所前

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2010年10月にアップした越前の秋「昭和の電車」で福井鉄道福武線のオリジナル高床車を紹介 (画像3点) したことがありますが、それを元に「朝の市役所前」にリニューアルしてみました。

JR福井駅前で、えちぜん鉄道のりばとは反対側に福井鉄道福武線のりばがあり、1960年生まれの昭和の電車が今も活躍している。地方私鉄は今やどこも都落ち電車ばかりで魅力を失っているが、2008年に訪問した時はオリジナル200形201、202と元名古屋市交通局610形の高床車3編成がラッシュ時に活躍していた。

以前の福武線は派手な広告塗装をしていたようだが、お目当ての200形201はまともな塗装に戻され美しい電車になっていた。福武線では低床(路面電車)化が進められて来たが、ラッシュ時には低床車の合間に高床車200形や610形が通勤通学客を満載して併用軌道を市内中心部までやって来る光景は実に楽しいものである。

撮影 2008.10.14
車の洪水の中を市役所前に向かっている田原町行き電車

急行福井駅前行き
分岐点「市役所前」に到着した電車は進行方向を転換し右に分岐して福井駅前に出る.田原町行きはそのまま直進する.初めてこの光景を見た時は、路面電車だけならどうという事もないが高床車がやって来るというのでどんな光景が見られるのか大変興奮したものである。やがてやって来た昭和の高床式電車が行き来する朝の光景は期待以上であった。

朝の市内に登場した急行田原町行き高床車200形201(昔の標準塗装) 市役所前

高床車は市役所前から田原町へ向かう. 市役所前

普通田原町行き610形(元名古屋市交通局) 市役所前

次にやって来た高床車は200形202

朝の通勤通学時間帯 普通田原町行き200形202 市役所前

田原町方面

高床車の大きな乗降ステップ. 市役所前

福井鉄道 田原町

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市役所前で通勤・通学客の殆どが下車し、朝の役目を終えてガラガラに空いた高床車は田原町まで行って武生へ引き返す。最後の高床車が引き返す頃は通勤・通学時間帯もとっくに終わっていた。田原町は福井鉄道の様々な電車がやってきて「えちぜん鉄道」と接続するので飽きることのない魅力的な駅であった。「えちぜん鉄道」との相互乗り入れが実現する頃はさらに話題多き駅になることでしょう。

撮影 2008.10.14
市役所前を直進し田原町へ向かう. 裁判所前

福井駅前-市役所前-裁判所前-田原町を往復するシャトル. 裁判所-田原町

コンビニの向こうに田原町駅の青い屋根が見える.

コンビニの裏から顔を出してきた200形202

朝のラッシュ時の役目を終え、ガラガラに空いた200形201は武生に引き返す.裁判所-田原町

様々な電車がやって来る木造の田原町駅

えちぜん鉄道三国線と福井鉄道福武線が出会う田原町.
福井鉄道の線路の終端はえちぜん鉄道の線路とかなり接近している.将来、新型低床車による相互乗入れが実現するとここで線路が繋がるのでしょう.




 

福井鉄道 田原町から武生新へ

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2008年の福武線は福井、武生の地名をつけた駅名で福井新、西武生、武生新がややこしかったが、その後、この3駅は福井新→赤十字前、西武生→北府、武生新→越前武生に駅名変更され、私にとって武生側の2駅は新旧名で更にややこしくなった。
新旧駅名を整理したのが上図で、本記事の駅名表示は2008年当時のままです。


田原町から乗車して武生新へ向かってみた。朝のラッシュ時間帯が終わると昼までのんびりとした時間が過ぎ、市役所前にやって来るのは低床車のみで路面電車の世界となる。朝の通勤・通学客とは違って買物など一般市民の足として低床車が活躍していた。朝の通勤・通学時間帯に見たあの高床車の大型ステップはとても高齢者には向かないと思うが日中は出動しないので問題がないのでしょう。

撮影 2008.10.14
朝のラッシュ時間帯が終わり、ゆったりとした時間が過ぎる. 市役所前

併用軌道区間の路面電車の世界.  木田四ッ辻

併用軌道区間と専用軌道区間の分界点. 木田四ッ辻-福井新

武生新に対し福井新の駅名はややこしい? 後に赤十字前に変更された.

西鯖江駅で降りて鯖江市内を歩くとJR鯖江駅に着く.

鯖江市内

福武線 武生新駅 (現在は越前武生駅に改名)
JRの駅名に「武生」が残る(2005年に武生市は越前市となる)

武生新駅に並ぶ高床車と低床車.

福井鉄道 西武生の車両基地

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西武生(現:北府) の駅の裏には元福井鉄道本社の建屋があり、新しい建屋にあった本社を訪問しご挨拶した後本社の人に車両基地を案内して頂いた。
車両基地には検車庫1棟と工場2棟があり、余りに古く朽ち果てた施設に福武線の財政の苦しさの象徴かと思い私は歴史的価値も感じ取れず、建屋全体や内部の写真を撮るのも失礼と思い撮らなかった。ところがこの検車庫は「福武電気鉄道」が設立された1921(大正10)年に建築されたそうで今や築90年超える由緒ある歴史的検車庫なのであった。

大正10年築、福井鉄道の木造検車庫を保存へ、催しでの活用検討…国の登録有形文化財、目指す動きも
福鉄は、従来の車両より幅の広い新型低床車「F1000形」の導入に伴い、二〇一三年度中に、国・県から計三億三千八百万円 の支援を受けて工場二棟を建て替える。七月にも取り壊しを始める。  これに合わせ、検車庫にあった車両点検スペースを新工場に移設。  (中日新聞・日刊県民福井から)

撮影 2008.10.14
この後、取り壊された元本社建屋. 入口に「福井鉄道株式会社」と表示

西武生(現:北府)駅と正面に元本社の建屋

この後、改築された西武生(現:北府)駅

今や築90年超の検車庫は役目を終え、鉄道施設の 歴史遺産として残されることになった.

左手が検車庫で北側に築65年の工場2棟が並ぶ

左手に検車庫と工場

工場で整備中の200形203

仮台車に乗った203の連接部

                

               
600形602  デキ3                             デキ11   600形601

工場を通り抜けた北側の一角

第9回 軽便鉄道模型まつり-1

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昨日の軽便賛歌講演会に引き続き本日開催された恒例の「軽便模型まつり」に行ってきました。
前回は行けなかったので2年ぶりの軽便まつり見学でした。今回お目当ての一つが草軽Oナローモジュールで、講演「くさかるの魅力」と相俟って作者の草軽への思い入れがひしひしと伝わって来る作品でした。

作者 鉄道青年(小林)さんは小学生の時に東金の解体現場で車両の残骸だけでも九十九里鉄道が見れて衝撃を受けたそうで、熱烈な九十九里ファンでもあります。私も草軽と九十九里は軽便でも別格な存在を感じてしまいます。

Oナロー1/48 草軽 東雲(しののめ)駅 TMS No.850の表紙を飾った名場面.鉄道青年さん製作

TMS製作記事によるとレールはマイクロエンジニアリング製コード83(75?)のOナロー用フレキレールを使用。今回は各作品でどんなレールが使われているのか観察してみました。
まだまだ盛りだくさんあった力作は後ほどに。

第9回 軽便鉄道模型まつり-2

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1/80 9mm
「むかし下津井軽便鉄道」
1913年(大正2年)開業した下津井軽便鉄道。
その後、下津井電鉄と社名変更し、1990年(平成2年)に廃止となる。
私の故郷、岡山の情景を1/80スケール、下津井電鉄をモチーフに再現してみました。

製作のコンセプト
①レイアウトの4つのコーナ部分に、趣の異なった情景を製作するとともに、全体的にまとまるようにする。
②思い出の1シーンをレイアウト上で再現する。
③少年時代の昭和50年代から廃止となる平成2年の末期の姿、季節は夏とする。

以上は作者(磯野さん)の作品解説より

港から下津井駅にかけて俯瞰する.  2013.10.06

下津井港?を見て下津井駅に到着する風景

下津井車庫から下津井駅を見る

車庫がある下津井駅全景

東下津井駅?の駅前商店街とドームの建物(電器店?)
レールはシノハラナロー用フレキ(市販ナロー用ではベスト)を使用
 

昭和50(1975)年代から平成2(1990)年廃線までの下津井電鉄の夏をイメージしたコンセプトが素晴らしいが、驚いたのはHO(1/87)ナローではなく16番(1/80)ナローで製作されたことです。
軽便模型はHO(1/87)ナローが全盛になってから、私は16番(1/80)ナローのレイアウトを見たのはこれが初めてです。何故1/87でなく1/80で作ったのか、その良さは何か、今回のレイアウトでは十分に確認できませんでしたが、私も考えている1/80のメリットがあったのではないかと思います。もちろん1/80ナローは殆ど市販されていないデメリットがありますが、今回の下津井ではそんなデメリットは何も無かったのでしょう。


下津井港を見て下津井駅へ下る末期の下津井電鉄 1988年春
この翌日の瀬戸大橋開通(1988.4.10)で、下津井電鉄⇄丸亀航路の四国ルートも衰退の運命に.

第9回 軽便鉄道模型まつり-3

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南洋物産さんの気になる1/80ナロー九十九里鉄道の単端と客車.周辺は台湾軽便.
既に店頭で1/80九十九里単端を見たことがありますが、1/80九十九里単端の脇に1/87西大寺単端が並ぶと、西大寺単端がNナローなのかと思うくらい小さかった。

毎年1/87で3'6''地鉄と2'6''ナローを対比させるアートプロさんの展示ブース.
軽便の楽しさの一つにこの対比がある.
よく出来たせんろ同士の対比で分かる「狭いせんろ」の美しさ.


「下北南部電鉄」 1/87ナロー 軽便モジュール倶楽部.
Chitetsuさんの今回の6両は元松阪のようで完成度の高さは言うまでもありません。
各車両のカラーリングがいかにも1960年代の地方私鉄の雰囲気です。

軽便モジュール倶楽部.

第9回 軽便鉄道模型まつり-4

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Oナロー1/48「赤石鐵道比尻機関庫」は昨年の展示で話題をさらい、機関庫はHP「夢遊生活の日々」さんの「赤石鐵道の機関庫見学」に内部の様子含めて余すことなく紹介されています。

昨年の機関庫に客車や単端がたむろする手前のヤードが追加された2つのセクションを今回初めて拝見しましたが、今まで様々報告されているように細かく見れば見るほど凄い作りで、このセクションレイアウトの素晴らしさ全ては一つ一つを時間かけて観察して初めて判ることでしょう。

追加されたヤードに留置している客車や単端などを見てもある時代の軽便を彷彿させてくれる車両ばかりで、このセクションレイアウトの軽便鉄道への拘りと奥深さが感じとれました。








今回追加された手前のヤード.

コッペルがいた機関庫

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1962年 コッペルがいた井笠鉄道の機関庫内部がどんなであったのか覗いてみました。

1962年夏のくじ場機関庫

1967年春のくじ場機関庫

今だったら機関庫内部を隅から隅まで大量に撮りまくったでしょう。当時はフィルムがもったいくなくて車両を撮るのが精いっぱいでした。

クラウスがいた石岡機関区

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関東鉄道鉾田線(後の鹿島鉄道)の石岡機関区の機関庫脇にクラウスが留置されていた
ことは有名であったが、1966年に訪問した時はクラウス4号機のみが草むらの中にいた。
留置されていたクラウスと古い建屋と周辺の草むらに何とも言えない雰囲気があった。

機関庫脇の草生した側線に休むクラウス4号機.  1966.08.28

昔、機関区には2両のクラウスが在籍していたが3号機は既に1963年に廃車され、
4号機はこの後1971年の廃車まで在籍していた.

数年前までは活躍していたようで美しい状態が保たれていたクラウス4号機.1966.08.28


1966年夏はこんな戦災復旧車両オハフ803、801もいた時代であった. 石岡

石岡を発車した気動車キハ201  1966.08.28

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