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昭和37年の旅 通りすがりの富山駅
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昭和37年の旅 富山駅前で見た電車の14年後
富山地方鉄道の笹津線が廃線となったのが1975(昭和50)年。廃線の翌年1976年に南富山(笹津線が市内線へ乗入れる駅)で撮った写真を「ゆうちゃん」さんが送って下さいました。私が富山駅前で見た市内線電車の14年後の廃車になった姿でした。
写真は全て1976年 撮影:ゆうちゃんさん
南富山に留置されていたデ3530、5010、7000形
デ3530形3533 富山駅前旅館の2階から見たデ3533の14年後の姿
デ3530形3534
デ5010形5027
5010形5013
富山地鉄本線のテキ6502
デ3530形の足回り
こちらは新富山から出ていた富山地方鉄道射水線(1980年廃線)の終点新港東口 1976年
射水線と万葉線との関係そして笹津線については津島軽便堂写真館をご覧ください。
判りやすい地図と情景写真で詳しく紹介されています。
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昭和37年の旅 黒井のオマケ
富山発7:15発の新潟行き鈍行列車に乗り直江津のとなり黒井に着いたのは11:05分であった。
真夏の頸城鉄道を浦川原まで往復し軽便を存分楽しんで新黒井に戻って頸城の構内を撮っていると、遠くから甲高い汽笛が聴こえ小さなBタンク蒸機が現れた。この日は最後の予期せぬ信越化学の蒸機との出会いというオマケに大満足し、今夜の宿となる夜行列車に乗り込んで乾杯となった。
信越化学工業直江津工場の1号機
真夏の頸城鉄道を浦川原まで往復し軽便を存分楽しんで新黒井に戻って頸城の構内を撮っていると、遠くから甲高い汽笛が聴こえ小さなBタンク蒸機が現れた。この日は最後の予期せぬ信越化学の蒸機との出会いというオマケに大満足し、今夜の宿となる夜行列車に乗り込んで乾杯となった。
信越化学工業直江津工場の1号機
輸入機に較べると外観が平凡な国産(日車製)Bタンク
D50等が次々やって来るこの頃の信越本線は蒸機天国であった. 黒井
頸城鉄道新黒井駅の向こうに信越本線の蒸機の煙がのぼる.
手入れが行き届いたこの頃の頸城鉄道は美しかった.
手入れが行き届いたこの頃の頸城鉄道は美しかった.
一日の撮影を終え暮れゆく頃
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昭和37年の旅 尾道鉄道
昭和37年の旅を山陽路に戻し、以前アップした「瀬戸内海 尾道の小私鉄」をネガからスキャンし差し替えてリニューアルしました。昭和37年に撮ったネガもいよいよカールが激しくなりスキャニングを急がねば。
山陽路の軽便3社下津井電鉄、西大寺鉄道、井笠鉄道を撮り広島に向かう途中、夕暮れの尾道鉄道に立寄ってみた。山陽本線尾道駅の山側に私鉄電車のホームがあり、独特の個性豊かな電車が発着していた。
旅の途中にふと立ち寄って撮ったのは、丸みを帯びた自社製デキ16、それに牽かれる小さなトレーラ、どれをみてもゲテモノ揃いである。これぞ昭和30年代の尾道鉄道は魅力ある尾道の町によく似合っていた。昭和39年廃線。
山陽路の軽便3社下津井電鉄、西大寺鉄道、井笠鉄道を撮り広島に向かう途中、夕暮れの尾道鉄道に立寄ってみた。山陽本線尾道駅の山側に私鉄電車のホームがあり、独特の個性豊かな電車が発着していた。
旅の途中にふと立ち寄って撮ったのは、丸みを帯びた自社製デキ16、それに牽かれる小さなトレーラ、どれをみてもゲテモノ揃いである。これぞ昭和30年代の尾道鉄道は魅力ある尾道の町によく似合っていた。昭和39年廃線。
尾道駅風景 背後に尾道らしい急斜面が迫る. 1962.07.30
尾道駅の自社製 デキ16 下回りを撮っている二人は同行の鉄仲間
デキ16のボリューム感ある自社製車体に、元近江鉄道の古風な輸入台車を流用.
キ61 元近江鉄道ガソリンカー
デキ25 元水間鉄道電動車 向こうは山陽本線尾道駅
デキ25 元水間鉄道電動車 向こうは山陽本線尾道駅
デキ15+デキ25
電車にお客が乗り込み駅に夕闇せまる頃 発車時刻となる.
電車にお客が乗り込み駅に夕闇せまる頃 発車時刻となる.
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昭和37年の旅 尾道のリンケホフマン製台車
尾道鉄道デキ15、16に装着されたリンケホフマン製板台枠台車と下回りを部分拡大してみます。
昭和38年5月発行の鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第4分冊に発表された和久田康雄氏の尾道鉄道の記事によれば、デキ15形No15、16は昭和29年認可で自社三成工場製の小型鋼製ボギー車で、下回りは板台枠に軸箱上の板バネを備えたケルンのリンケホフマン製台車とある。
この台車を履いた尾道鉄道デキ15、16の経緯については下記の記述があった。
リンケホフマン製台車は近江鉄道が大14年彦根-多賀間電化の当時新製した電動車1~5のものである。この5両は近江鉄道の1500V昇圧時にクハ21~25に改造され、その内のクハ21、22が昭和25年頃に尾道鉄道に買い取られ、尾道鉄道の三成工場で車体を新製され、電装品は廃車となった単車デキ5、6のものを使用し電動機2基を備えている。
昭和38年5月発行の鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」第4分冊に発表された和久田康雄氏の尾道鉄道の記事によれば、デキ15形No15、16は昭和29年認可で自社三成工場製の小型鋼製ボギー車で、下回りは板台枠に軸箱上の板バネを備えたケルンのリンケホフマン製台車とある。
この台車を履いた尾道鉄道デキ15、16の経緯については下記の記述があった。
リンケホフマン製台車は近江鉄道が大14年彦根-多賀間電化の当時新製した電動車1~5のものである。この5両は近江鉄道の1500V昇圧時にクハ21~25に改造され、その内のクハ21、22が昭和25年頃に尾道鉄道に買い取られ、尾道鉄道の三成工場で車体を新製され、電装品は廃車となった単車デキ5、6のものを使用し電動機2基を備えている。
リンケホフマン製台車と下回り.
リンケホフマン製台車と下回り.
近江鉄道クハ21、22を買い取って自社三成工場で車体新製と電装化が行われデキ15、16となる.
リンケホフマン製板台枠台車
この写真を撮った時は鉄ピク「私鉄車両めぐり」第4分冊が発行される1年前で、尾道鉄道の知識は何も無かったはず。我ら3人は一体どんな気持ちでこの奇妙な台車にカメラを向けていたのだろうか。
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昭和37年の旅 尾道から敦賀へ
昭和37年の旅は東京発東京行きの片道一筆書き切符1720円(学割)が行方不明で、これが出てきたら切符を添えてどんなルートをたどったのか全行程を纏めてみたいと思います。今までアップしてきた金沢、富山、黒井、尾道はその断片です。旅の日誌が下津井電鉄で途切れているため、残されていた移動ルートメモと出費メモから尾道~敦賀までの旅をたどってみました。
7月30日。夕方に尾道に到着し尾道鉄道を撮って尾道駅前で夕食90円をとる。
山陽本線で尾道発20:26に乗り広島着22:59。広島発23:55の準急ちどり(車中泊)で米子へ向かう。
7月31日。朝6:12に米子に到着し日の丸自動車法勝寺線を撮って、米子発8:07の山陰本線大阪行鈍行に乗り加悦鉄道を目指す。朝昼兼用で山陰線の駅弁(昼)100円を奮発。
豊岡で宮津線に乗換え丹後山田に14:15到着。加悦鉄道を加悦まで往復し丹後山田発17時の臨時京都行きで西舞鶴へ。西舞鶴で小浜線に乗換え敦賀に21:15到着。駅前のたまご丼70円が今日の夕食。駅前旅館(素泊まり450円)泊。
7月30日。夕方に尾道に到着し尾道鉄道を撮って尾道駅前で夕食90円をとる。
山陽本線で尾道発20:26に乗り広島着22:59。広島発23:55の準急ちどり(車中泊)で米子へ向かう。
7月31日。朝6:12に米子に到着し日の丸自動車法勝寺線を撮って、米子発8:07の山陰本線大阪行鈍行に乗り加悦鉄道を目指す。朝昼兼用で山陰線の駅弁(昼)100円を奮発。
豊岡で宮津線に乗換え丹後山田に14:15到着。加悦鉄道を加悦まで往復し丹後山田発17時の臨時京都行きで西舞鶴へ。西舞鶴で小浜線に乗換え敦賀に21:15到着。駅前のたまご丼70円が今日の夕食。駅前旅館(素泊まり450円)泊。
朝6~8時の米子滞在で日の丸自動車法勝寺電鉄を撮る.1962.07.31
米子8:07発の大阪行鈍行が御来屋(みくりや)で急行「白兎」に抜かれる
鈍行714レの牽引はSLではなくDF50だったのでしょう.
倉吉線を撮ったつもりが、C12なら鳥取駅か?
車窓の山陰の海辺に茅葺屋根が見える
余部鉄橋を渡る
豊岡から宮津線で丹後山田に14:15に到着. C51バック運転の客列車と交換する.
丹後山田駅の加悦鉄道
舞鶴線の96客列車. 西舞鶴駅
宮津線西舞鶴で小浜線に乗換え敦賀へ向かう.
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通りすがりの十和田観光電鉄
現役時代には出張のついでに地方私鉄に立寄ることはいくらでも出来たのに無関心で立寄ることなんて考えもしなかった。鉄道を撮る意識が全くなかったそんな時代に立寄った数少ない路線の一つに十和田観光電鉄があった。
11年前の2002年12月、ちょうど東北新幹線が盛岡~八戸間が開業した直後で、あっという間に東北本線?三沢駅に着くことができた。十和田観光電鉄三沢駅に入るとそこには元東急ステンレス車が停車していてがっかりし、すぐ引き返してしまったが今思えば終点まで往復して廃線前の路線をしっかり撮っておくべきであった。
11年前の2002年12月、ちょうど東北新幹線が盛岡~八戸間が開業した直後で、あっという間に東北本線?三沢駅に着くことができた。十和田観光電鉄三沢駅に入るとそこには元東急ステンレス車が停車していてがっかりし、すぐ引き返してしまったが今思えば終点まで往復して廃線前の路線をしっかり撮っておくべきであった。
十和田観光電鉄三沢駅 2002.12.06
ローカル私鉄ムードが漂う三沢駅待合室
十和田観光三沢駅・電車バスのりば
十和田市行き電車 三沢 2002.12.06
2002年12月1日の東北新幹線盛岡駅-八戸駅間延伸開業と同時にデビューした「はやて」
と開業直後の八戸駅. 2002.12.06
新幹線八戸駅開業直後の賑わい
在来線乗換えの表示には「東北本線、八戸線、青い森鉄道線のりかえ口」とある
在来線ホームに降りてみると
左にJR八戸線 中央にいわて銀河鉄道 右にJR東北本線?特急が並ぶ
左にJR八戸線 中央にいわて銀河鉄道 右にJR東北本線?特急が並ぶ
東北本線?特急 と いわて銀河鉄道
どれが青い森鉄道線でどれが東北本線なのか??
更にいわて銀河鉄道が?? 一体どれに乗ればよいやら ややこしい事になってしまった.
更にいわて銀河鉄道が?? 一体どれに乗ればよいやら ややこしい事になってしまった.
JR在来線のことはさっぱり判らず東北本線特急なのか?
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下北沢 消えた地上駅
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朝の熊本市電
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熊本市電 交通局前
7年前の2007年に出張のついでに寄った熊本市電は、熊本宿泊の夕方と翌日朝一に撮ったもので、写真を並べてみると水前寺公園に近い「体育館前」から繁華街「通町筋」までを意外に多く撮っていた。
すっかり忘れていたがこの時の更に40年前に撮った写真を調べてみると、雨の熊本をさ迷い歩きこの辺りを撮っていたのであった。昔とはすっか風景が変わってしまい今昔対比は難しいが電停「交通局」を対比させてみました。
すっかり忘れていたがこの時の更に40年前に撮った写真を調べてみると、雨の熊本をさ迷い歩きこの辺りを撮っていたのであった。昔とはすっか風景が変わってしまい今昔対比は難しいが電停「交通局」を対比させてみました。
熊本市交通局の建物の前を水前寺体育館行電車. 水前寺方面を見る 1967.03.04
7年前の電停「交通局前」. 2007.03.13
昔の面影を残す元交通局の建物(現在は建替え?)
電停「交通局前」の水前寺体育館行電車. 熊本城方面を見る 1967.03.04
右手煙突の下に車庫が開けていた.
7年前の電停「交通局前」 2007.03.13
電停前のレンガ色の建物が元熊本市交通局だが、この風景も今では変化している.
煙突の下に開けていた車庫には大量の元大阪市電が入線していた. 1967.03.04
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熊本市電 水前寺公園辺り
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熊本市電 水前寺駅前~通町筋
県道28号線の市電通りを「水前寺駅通」から「通町筋」へ向けて歩いたこんな風景は7年も経つといろいろ変化しているようだ。
水前寺駅通 2007.03.13
前方ガードを行くJR豊肥本線がその後「新水前寺駅」設置で電停は「新水前寺駅前」に改称されている.
赤い電車の健軍町行き表示からすると電停はJRガードの味噌天神側にあり現在の位置とは大きく異なる?
ところがすれ違いの電車を良く見るとどちらも健軍町行きで訳わからなくなってきた??
赤の電車は上熊本駅前行きで電停「水前寺駅通」はJRガードの健軍町側にあったようだ.
赤い電車の健軍町行き表示からすると電停はJRガードの味噌天神側にあり現在の位置とは大きく異なる?
ところがすれ違いの電車を良く見るとどちらも健軍町行きで訳わからなくなってきた??
赤の電車は上熊本駅前行きで電停「水前寺駅通」はJRガードの健軍町側にあったようだ.
味噌天神前
交通局前を過ぎ九品寺交差点に到着する.
水道町
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熊本市電 47年前の健軍町
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中央線「お茶ノ水駅」の改良工事
JR東日本・プレスリリース(2013/09/03)によれば、2013年秋以降に駅構内の工事に着手し、バリアフリー整備については2018年度まで、駅前広場機能整備については2020年度までの完了を目指します。 とある。
昨年秋から本格的な工事が着手され、慣れ親しんだ「お茶の水駅」の跨線橋もいよいよ消えゆくのみ。
昨年秋から本格的な工事が着手され、慣れ親しんだ「お茶の水駅」の跨線橋もいよいよ消えゆくのみ。
聖橋から見た神田川に設置された仮設桟橋. 2013.12.12
向こうの「お茶の水橋」から見た神田川、聖橋を入れた跨線橋「お茶の水駅」の風景
はすでに過去のものとなってしまった。
向こうの「お茶の水橋」から見た神田川、聖橋を入れた跨線橋「お茶の水駅」の風景
はすでに過去のものとなってしまった。
上の2ヶ月後、本日の風景. 2014.02.13
消えゆく跨線橋(臨時改札口)
消えゆく跨線橋(臨時改札口)
消えゆく跨線橋(臨時改札口) 2014.02.13
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国鉄会津線 C11と大内宿-1
南会津の山中にあり、旧街道沿いに旧宿場の茅葺き民家が並ぶ大内宿。
SLブームが始まった1970年代の初頭、この頃 世に知られてきた秘境大内宿はまだ観光客相手の店などはなく、昔からの街並みと住民の生活習慣が残されていた。
すっかりマイカー時代となり何回も会津線C11を車で撮りに行くようになったが、湯野上でC11を撮った時はそこから奥へ入り大内宿に立寄ることがあった。マイカー時代とは云えマイカーで大内宿を訪れる観光客はまだまだ少ないようであった。
それが今では観光メッカとなってマイカーや団体バスで押し寄せる黒山の人出で、とっくに秘境ではなくなってしまったようだ。
SLブームが始まった1970年代の初頭、この頃 世に知られてきた秘境大内宿はまだ観光客相手の店などはなく、昔からの街並みと住民の生活習慣が残されていた。
すっかりマイカー時代となり何回も会津線C11を車で撮りに行くようになったが、湯野上でC11を撮った時はそこから奥へ入り大内宿に立寄ることがあった。マイカー時代とは云えマイカーで大内宿を訪れる観光客はまだまだ少ないようであった。
それが今では観光メッカとなってマイカーや団体バスで押し寄せる黒山の人出で、とっくに秘境ではなくなってしまったようだ。
阿賀川沿いに走る会津線C11 楢原 - 弥五島 1972.06.10
大内宿 整然と並ぶ茅葺屋根の民家 1972.06.10
のどかな人々の暮らし、生活感溢れる光景
帰りにはいつも立寄った会津田島の小さな機関区
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国鉄会津線 C11と大内宿-2
2回目に大内宿を訪問したのは1969年7月の雨上がりの日であった。会津線 湯野上駅近くの温泉宿に泊まり朝一にC11を撮ってから大内宿へ向かったが、会津線のC11はこの年の秋に消えてしまった。
2年前の大内宿に較べ大きな変化はないようであったが、民家の明るい色のトタン屋根など住まいの改修が少し進んでいたようで民家の原形も次第に変化し始めていたのでしょう。
この頃 既に観光化へ向かっていたのか民宿のような宿があったような気がする。
その後40年、私は行った事も調べたことも無かったが、大内宿の今をGoogleストリートビューで散策してみると驚きの別世界であった。みやげ物店、ねぎそば店、御食事処、これがあの時の大内宿なのか! 民家の屋根に昔の面影が残るが昔とは全く風景が違っている。
2年前の大内宿に較べ大きな変化はないようであったが、民家の明るい色のトタン屋根など住まいの改修が少し進んでいたようで民家の原形も次第に変化し始めていたのでしょう。
この頃 既に観光化へ向かっていたのか民宿のような宿があったような気がする。
その後40年、私は行った事も調べたことも無かったが、大内宿の今をGoogleストリートビューで散策してみると驚きの別世界であった。みやげ物店、ねぎそば店、御食事処、これがあの時の大内宿なのか! 民家の屋根に昔の面影が残るが昔とは全く風景が違っている。
2年が経った大内宿は一部民家で改修が進んできたような気がする. 1974.07.21
一番に奥にある石碑(湯殿山)がある大きな民家
石碑(湯殿山)がある曲がり角にある民家.
民家の裏手
湯野上(現湯野上温泉)駅のC11 1974.07.21
雨上がりの朝の湯野上駅
湯野上温泉街を行く会津線
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国鉄会津線 C11と大内宿-3
鉄道・民家を愛する青蛙 さんは2007年に大内宿を訪問していましたので、青蛙さんが撮った最近の大内宿と、まだ観光化される以前1972年の大内宿(前々回に紹介)の風景を対比してみました。
奇麗に整備された大内宿の街並を俯瞰してみると見事な美しさだが、ひとたび道路に降りると俗化した観光スポットの光景がある。街並の遺産を保存維持して行くためには観光事業化するしかないのでしょうけど魅力は失われてしまう。
奇麗に整備された大内宿の街並を俯瞰してみると見事な美しさだが、ひとたび道路に降りると俗化した観光スポットの光景がある。街並の遺産を保存維持して行くためには観光事業化するしかないのでしょうけど魅力は失われてしまう。
カラー3枚 撮影 青蛙さん
子安観音堂付近から見た大内宿. 2007年5月
遠方から見た大内宿の光景は5月の新緑に囲まれ茅葺屋根の街並が今でも大変美しい.
これを見ていると行きたくなってくる風景だ.
これを見ていると行きたくなってくる風景だ.
上の写真の反対側から道路を進むと左に鳥居、右に火の見やぐらがある.
さらに道路を奥へ進んだ奥から5軒目の大和屋あたりの賑わい.
上の写真の昔の風景. 1972年6月
観光化される以前のひっそり静かな生活があった大内宿.
民家風に改築された最近の湯野上温泉駅. 2011年11月
初めて訪問した会津線.改築前の湯野上駅全景. 1971年10月
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小湊鉄道 初めての訪問
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小湊鉄道 春爛漫
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東武の廃車古典蒸機-1
東武36号 1963.11.24
現役時代の東武のネルソン63、64号を中千住駐泊場で見たのが1963年3月、その年の11月には主連棒(コネクティング・ロッド)を外されたネルソンやピーコックの計9両の廃車群を見に行ったことがあった。場所は業平橋のつもりでいたが、どうもここも違うようで業平橋~北千住間のどこかのようである。
C11を含め10両の廃車蒸機が集結していて9両まで号機を確認することができたが、この半年前には煙を吐いていた63号がこの中にいた。廃車となってコネクティング・ロッドが外された古典蒸機はネルソン、ピーコックの特徴的な美しい姿がその時まだ残されていた。
54号
56号
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