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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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庄内交通 庄内砂丘

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安部公房の小説「砂の女」(1962年)の舞台は鳥取砂丘ではなく庄内砂丘の酒田市浜中であったのを先日の朝日新聞で初めて知りました。

「砂の女は」1964年に映画化され、映画で見た砂に埋もれる生活の光景が今も記憶に残る。
鶴岡市湯野浜から酒田市にかけて35kmにわたり広大な庄内砂丘が続き、湯野浜の北7kmほどに浜中がある。日本海から吹き荒れる季節風の飛砂と闘う生活があり、季節風は砂丘の砂を水田や畑、民家にまで運び、これを防ぐため砂浜の近くでは木材を縄で隙間なく繋いだ「風当て」を家々の周りに巡らせ、1960(昭和35)年頃までは茅葺屋根が一般的だったそうである。

庄内砂丘は湯野浜から北へ35km続く.

鶴岡、善宝寺、湯野浜温泉といった庄内風情を走る庄内交通湯野浜線は、湯野浜温泉の街はずれから七窪にかけて砂丘を走っていたが、まさかこれが「砂の女」の砂丘の一端であったとは思いもしなかった。湯野浜線を訪問した1966年は映画公開の2年後で、日本海と砂丘は今の「夕陽百選の海岸」という明るい観光イメージは全くなく暗い荒涼とした世界であった。

ここから北へ庄内砂丘が続き、北7kmほどに「砂の女」の舞台となった浜中がある.1966.02.28
湯野浜温泉 - 七窪  
同じ場所でオリンパスペンで撮ったもの

風除けのある民家と善宝寺へ続く道 七窪-善宝寺 1966.02.28

砂の中にある七窪の駅

湯野浜線の終点 湯野浜温泉駅
湯野浜の町並の先に日本海が見える

海辺の温泉町 湯野浜

羽越本線鶴岡から湯野浜温泉行き電車が出ていた.

参考: 朝日新聞 2014.5.10 映画の旅人 砂の女

早春の津軽平野

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津軽平野の鉄道を訪問したのは昭和41年の3月初めであった。
花輪線の龍ヶ森で86三重連を撮って陸中花輪で一泊後、陸中花輪の始発に乗り早朝の大館へ出た。
この頃の奥羽本線は蒸機列車がまだ盛んに走っていて大館は蒸機で賑わっていた。

早朝の大館駅 花輪線の86 1966.03.03

早朝でまだうす暗い大館駅. 奥羽本線青森行き鈍行列車

うす暗い大館駅を6:32に青森行鈍行列車が発車した。 秋田・青森の県境矢立峠を補機をつけて越え、弘前まで1時20分ほど。朝の車内の殆どは弘前へ通う高校生達で通学列車であった。山並みが去り勾配を下ると津軽平野が開け遥かかなたに白く光る岩木山が見え、美しい光景だ! いかにも津軽へやって来たという感じがしたものだった。到着した弘前の駅は朝の勤客・通学客で活気を帯びていた。

 弘南鉄道から見た津軽富士(岩木山)
津軽平野を走る弘南鉄道、弘前電鉄、津軽鉄道、国鉄五能線は津軽富士(岩木山)を背に凍りついた残雪の田畑の中を個性溢れる旧型車両が走っていた。

津軽富士を背に走る弘南鉄道  1966.03.03
朝のラッシュが過ぎ、のんびりした頃

弘前の裏町から出ている弘前電鉄の電車

五能線の五所川原駅 跨線橋を渡ると津軽鉄道のりばがある. 1966.03.03

五能線の五所川原駅.津軽鉄道の金木、津軽中里方面への乗換え案内がある.

殺風景な津軽鉄道の五所川原駅ホーム

津軽富士を背に五所川原を発車した津軽鉄道の混合列車

岩木川を渡る五能線86列車. 五所川原

五所川原17:30発の五能線下り列車を岩木川鉄橋で撮り終えると辺りは急激に暗くなり五所川原の街に灯りがつき始めた。気がつけばこの日は朝にパン一きれをかじっただけ、まともに食事する時間もなかった。今夜のねぐら青森発23:45の急行「八甲田」が発車する青森で駅前に出てこの日初めてまともな食事(定食)にありつけた。夜行列車で数時間寝ると翌朝4時過ぎには花巻下車となる。

花巻から横手へ

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青森発23:45の夜行急行「八甲田」で寝て翌朝4:35に花巻駅に到着。
庄内交通でスタートしたこの旅で夜行急行「八甲田」で寝るのはこれで3回目となった。
花巻駅の待合室で仮眠した後、花巻電鉄軌道線の朝のラッシュを撮りに歩いた。
泥んこの道端で電車を待っていると朝の田舎道は通勤・通学で町へ出る自転車で一杯。
地方ではまだマイカー時代到来前でこんな時間帯でも車は滅多に来なかった。

花巻郊外の中根古あたりまでくると前日の津軽平野とはうって変わって長閑な田園は春の日差しであった。この時の花巻電鉄には遠鉄奥山線からキハが転籍していてキハが花巻電鉄を走る光景を見たかったが活躍する場はなかったようである。

花巻から横黒線に乗り山を越え横手へ出るとまた残雪の世界であった。
横手で羽後交通横荘線を撮って旅の記録は途絶える。
この後、八郎潟の秋田中央交通を撮ってまた青森から夜行急行「八甲田」に乗って福島で下車し
奥羽本線を北上し山形交通の2路線を訪問するなど欲ばりな旅であと2回夜行列車を利用した。

花巻電鉄軌道線 熊野 - 中根古  1966.03.04  

 花巻へ向かう朝の列車は満員で道路はガラガラ.  中根古

花巻電鉄の車庫内で改装を終えイエローに塗られた元奥山線キハ1804.

花巻駅の釜石線D50250

花巻から横手へ. 横手駅の奥羽本線の特急「つばさ」

横黒線D6040  横手

DF50が走る奥羽本線の脇に羽後交通横荘線の車庫があった.  横手  1966.03.04 

西武多摩湖線 黄色のたまこ

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多摩湖線 一橋学園  2010.01.27
西武多摩湖線の101系電車も白一色となり黄色の電車は1編成みたいです。
大好きだった一橋学園駅の夕暮れ時もすっかり足が遠のいてしまった。

西武多摩湖線 萩山駅

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以前は多摩湖線平日の朝夕は国分寺~西武遊園直通が走り萩山駅で交換風景が見られた。
ところが昨年から直通の交換が殆どになったが国分寺~萩山もあり平日/休日で異なるダイヤは複雑のようだ。今の白電車が走る数年前の萩山駅の黄色のたまこN101系の光景です。

萩山駅の西武遊園直通のN101系交換風景.左3番線国分寺行と右1番線西武遊園行 2010.04.30

夕方の萩山駅のN101系の交換風景を撮ってみた。 2010.03.19
多摩湖線萩山駅では平日の17時17分~20時17分は20分置きにここで交換する。
1番線西武遊園地行きから通勤客が降りると、反対側の3番線国分寺行きが出発する。

平日、国分寺から来た電車の殆どは萩山駅1番線で引き返す.萩山 2010.03.20
国分寺行の電車は牽引車としても使われる全電動車N101系263F。


 遠い昔の萩山駅風景

萩山駅風景

marimoさんを偲んで

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先日アップしました庄内砂丘、津軽平野、花巻から横手へは1966(昭和41)年初春の東北私鉄めぐりのほんの一部でしたが、この時の旅を含め伴に撮り歩いた鉄仲間の一人marimoさんこと田辺多知夫さん(故人)を偲んで、彼から送られて来た何枚かの写真を紹介します。

左 marimoさん  1966年初春の東北の旅  
長靴にショルダーバック、手に傘とカメラ、といつものスタイル、
今思うと何でカメラ以外をザックに詰め込んで背負わなかったのだろうか?

これが日本の風景なのかと驚かされた2枚↓

東武鉄道 中千住駐泊所 ピーコック58(二代目)号機 1963年頃

昭和炭鉱のクラウス 1965.07.24

marimoさんを偲んで 中千住貨物線

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東武のこの貨物線が撮られたのは8(3代目)号機ピーコックが消える直前の1963年。
中千住駐泊所から分岐して道路を横断し京成の高架下を潜って隅田川へ出る中千住貨物線に
ピーコックが動いていた時代で、いかにも日本の高度経済成長の始動期1960年代前半らしい風景です。 
写真は全てmarimoさん撮影

工場の大きな煙突、踏切、京成関屋に近い京成高架線、左の東武線など
ここは中千住貨物線であることが判る. 1963.09.25

京成の下を抜け道路を渡り中千住駐泊所へ向かうピーコック

8(3代目)号機ピーコックで1963年廃車.この2ヵ月後に業平橋の廃車古典蒸機にいた8号機である.
(業平橋の号機不明機は皆さんの情報により8号機が判明したもの)

東武の中千住駐泊所はここで紹介したことがあります。→中千住駐泊所
中千住貨物線の判り易い地図や航空写真の紹介がここにあります→轍のあった道

58(2代目)号機ピーコックで1964に廃車. 中千住駐泊所 1963.09.25

東武鉄道 中千住駐泊所ふたたび

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私が中千住駐泊所を訪問したのは昭和38年3月でmarimoさんがここを訪問した半年前でした。
以前、ブログで紹介していますが中千住駐泊所をふたたび取上げてみます。

この日、活躍していたのは東武B6形(元国鉄でNeilson1900年製60~64号機) の63と64号機で、美しいネルソンの姿に目を奪われ機関車だけを大きく撮ってしまい、悔しい事に現役ネルソンの中千住貨物線風景は全く写っていませんでした。中千住を業平橋と思い込み中千住貨物線のことなど全く知らない私でした。

何も知らないまま踏切でネルソンを撮った1枚が中千住貨物線だったようです。地図で見ると中千住の駐泊所と貨物線分岐点までは少し離れているので、本線を走るネルソンを撮りながら歩いた時に貨物線の踏切でネルソンに出会ったのでしょう。
marimoさんがオリンパスペン(ハーフ)で撮った昭和38年らしい中千住風景を見ると、この時に機関車だけを撮っていた自分の浅はかさに後悔しきりです。

中千住駐泊所のネルソン  1963.03.25

中千住駐泊所

周囲が全く写っていなかった(泣)中千住貨物線の踏切. 

中千住駐泊所近くに休む64号機

本線を行く64号機

本線を行く63号機


むさしの村3号機

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1972(昭和47)年9月、元台湾基隆炭鉱の3号機を見に埼玉県加須市にある「むさしの村」へ行ったことがある。
てっきり息子を連れて家族サービスで行ったつもりだったが1972年と言えば私はまだ独身であった。
近場であったのでミニ機関車を撮りにふらっと訪問したのだろう。

2フィーターでは糸魚川の東洋活性白土の協三工業製6トン機があるが、これより遥かに小さい3.5トン機の
あまりのミニぶりには驚いた。
台湾の基隆炭坑で使用されていた2フィートゲージの小さな3号機は1971年に日本に来て
その後、羅須地人鉄道協会の活動により成田ゆめ牧場「まきば線」で活躍する有名な機関車となった。
昭和11年(1936年)楠木機械製作所製。整備重量3.5トン。

「夢遊生活の日々」さんの車両工作室 ではこの基隆3.5トン機の1/48模型キット( トーマモデルワークス製)の組み立てが開始されるようだ。このサイトでは製造元の楠木機械製作所の組立図が見れます。

むさしの村の森を抜ける3号機 1972年9月


3号機とスタッフの皆さん?

園内をのんびり走る列車

京王電鉄 中型車改造の中間車

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今年4月に取上げた京王電鉄600V中型車で、貫通ドア付き中間車にサハ化改造後の2500系。600V中型車が中間車に化けて2500系へ改番と、中型車と中間車の用語含めやはりかなりややこしい。とりあえず以前の写真にシングルルーフ中間車の写真を追加してみました。

600V中型車改造車が組込まれた2010系.1963年4月
デハ2072(左)はサハ化されたシングルルーフ中型車を挟んだ編成
デハ2068(右)はサハ化された雨宮製ダブルルーフ中型車を挟んだ編成

昇圧化後も生きのびた中間車.サハ2560(旧番号2203) 1965年3月 桜上水車庫

昇圧化前に改造済みの中型車.サハ2531(旧番号2111) 1963年4月 桜上水車庫

以下は中間車に改造されず京王線1500V昇圧化(1963年8月)で
消えた600V中型車の最後の姿.  桜上水 1963.07.19
↑2164
2128
2125
2402
2410
2128  1963.07.19

現在の京王新宿地下駅の地上風景 2014年5月
1963年4月1日に京王新宿地下駅が完成し、この年の8月4日に1500v昇圧化した。
写真の中型車5両編成のあの頃は新宿地下駅に入っていたことになる。

日本硫黄沼尻鉄道

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このところ弊ブログでは何故か「沼尻のデルタ線」の記事がよく読まれています。

ところでyoutubeで7月3日公開された感動的なフォトムービーを見つけました。
静止画像が大変鮮明で沼尻の素晴らしい情景が盛り沢山です。

RAILROAD PHOTO MOVIE ESSAY 200 日本硫黄沼尻鉄道

ブログに埋め込んでシェアしたいところですがリンク↑としてあります。


2012年9月26日にアップした「沼尻のデルタ線」

地方私鉄の電機

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地方私鉄3'6''鉄道で余り取上げなかった電機を、東芝と日鉄自動車の凸型電機スタイルで集めてみました。(紹介済画像1点含)

京福電鉄福井支社 テキ531 昭17年東芝製 元宮城電気鉄道 1968.01.14

伊豆箱根鉄道 ED32 昭22年東芝製 元西武鉄道  修善寺 1963年7月

越後交通長岡線 ED311 昭31年西武所沢工場製  西長岡 1975.03.09

弘南鉄道 ED301 昭24年日鉄自動車製  平賀車庫 1966.03.03

越後交通長岡線 ED261 大13年ウェスチングハウス製を日鉄自動車が改造  西長岡 1975.03.09

上田丸子電鉄 ED251 昭12年日鉄自動車製 上田原 1970.08.17

西武鉄道国分寺線

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西武国分寺線を撮るようになったのはこの1枚からであった。
国分寺側に2連のN101系が付いているその日の情報があるとよく飛んで行ったが
N101系が消えてから国分寺線へ撮りに行くことはなくなった。

夏の日の小川駅  N101系2+4連 2008年7月  


ちなみに車両をもっと手前に引き寄せて撮ると・・・

西武鉄道国分寺線 鷹の台

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国分寺線の鷹の台付近には宅地の合間に開けた畑、四季の変化が楽しめる玉川上水の雑木林などがあり自然豊かな一角である。N101系がいなくなった以外は何も変わりないその後の沿線風景なのだろう。

家庭菜園の脇をN101系が走っていた頃. 小川-鷹の台  2009.02.03

駅前の小さな商店街と公園がある鷹の台. 2009.02.03

駅の裏手が公園になっている鷹の台. 2009.03.09

 雑木林の玉川上水を渡る2000系. 鷹の台 2009.03.09

西武新宿線に西武秩父行きが走った

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今日と明日は西武新宿~西武秩父間を臨時特急「おくちちぶ」号が1日1往復するので
数年前までN101系を狙っていた撮影ポイントへ久しぶりに行ってみました。
写真で普段の特急と異なるのは「おくちちぶ」の表示だけ。


臨時特急「おくちちぶ」号 武蔵関 - 東伏見 2014.07.19

同じ場所で撮った昔の写真。
N101系10連 新所沢行 武蔵関-東伏見  2012.05.10
定期運用離脱後久しぶりに現れた急行101系10連 (2012.12.09本線から消滅)


昭和42年春の長崎

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長崎の街 1967.03.02
グラバー邸の一角から長崎の街と大浦支線を眺める.
築町から海岸通りを走り電停「大浦海岸通り」で→ へ曲がる大浦支線が見える.
遠くの木立に囲まれた美しい三角屋根は活水女子大学のようだ.


 以前 長崎電軌大浦支線 で取上げた昭和42年の長崎の街↑を見ていると
更に当時の長崎の街並を追ってみたくなってきた。
もう47年も昔のことで学割周遊券を使った車中泊の旅はこの春が最後となった。

撮影位置が不明だが、たぶん大浦天主堂あたりの高台からか?
右手の教会風建物などから撮影位置を割り出してみる私の楽しみがある。


大浦石橋通りの背後に迫る高台に民家が密集している.弁天橋電停(現在の大浦天主堂下)
午前中この大浦石橋通りの路面電車を撮り、午後は長崎駅前から市内めぐり観光バスに乗って
また同じところに舞い戻って来た。弁天橋でバスを降りて自由行動の大浦地区めぐりであった。

長崎港

朝の長崎駅前   1967.03.03

蒸機の旅客列車が盛んに発着していた長崎駅

諫早から島原鉄道バスで雲仙へ向かう途中は美しい車窓であった.
雲仙公園でバスを島鉄大手行きに乗り継ぎ島原へ向かう.

到着した島鉄大手は島原城の近くであった.

昭和42年春 長崎の路面電車(車両編)

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昭和42年春に在籍していた車両は今はイベント用となった保存車(150、160形)を除くと200形以降は今尚活躍しているようで、各形式の車両写真を並べてみると改装前の当時の車両の姿が判る。

長崎の路面電車風景を取上げた過去の記事は↓にあります。
長崎電軌 大浦支線 ・・・7月21日にリンク紹介済
長崎電軌 蛍茶屋支線

160形 1967.03.02.

170形 長崎駅前

201形

202形 長崎駅前

202形 長崎駅前

211形 長崎駅前

300形 長崎駅前

370形 長崎駅前

500形 長崎駅前

ハーフサイズカメラ(オリンパスペン)で撮った昭和42年の長崎電軌のカラー2点。
当時のグリーンとクリームの標準カラーは今も変わらず活躍しているようだ。


1962年に導入された370形   長崎駅前 1967.03.02.


370形広告塗装

新宿駅南口

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新宿駅南口はいつ見ても工事をやっている感じで、以前から進められている今の工事で一体何ができるのか上からのぞいてみました。工事はJRの線路とホームの上に4階建南口新駅舎とその隣に33階建複合ビルを2016年春までに完成させるそうです。


新宿南口の今  2014年7月
甲州街道の南側に工事中の南口新駅舎は、4階がバスターミナル、3階がタクシーのりば、2階が改札だそうで、4階にバスターミナルらしきが見える。 南口新駅舎の右脇に建てる33階建の複合ビルは高島屋の並びの土地にクレーンが立つ辺りでこれから鉄骨が延び始めるのでしょう。
どうやって新宿駅のホームの上に33階建ビルを建てるのか? と思っていたが、そんなことはないようです。
左に見える小田急の線路上に人工地盤を作り遊歩道と店舗を配置した新宿サザンテラスの通りは1998年に完成している。

昭和5年東京日日新聞付録。東京市外地図。
新宿駅南の甲州街道には昔京王線が走っていて小田急、国鉄を越えて新宿三丁目まで行っていた。この新宿駅南の甲州街道(橋の上)に電車が停車したのを見たという先輩がいたのには驚いた。
その後、京王線新宿駅は小田急線新宿駅の隣に地上駅で並んでいて、1963年4月に京王線新宿地下駅が開業するまで京王600V電車が甲州街道を走る光景が見られた。
新宿駅南口はこれからも果てしなく様々な開発が進むことでしょう。

以下は過去の記事より
最後の新宿地上駅 1963年4月 
新宿地上駅を出るとすぐカーブして甲州街道のど真ん中を走っていた京王線。新宿地下駅が開業する直前の光景で、甲州街道を右手へ進んだ橋の上にある国鉄新宿駅南口は工事中のようだ。 駅の周辺にはまだ高いビルもなく新宿もすっきりしていた。

甲州街道から新宿駅南口を見た現在の風景。 2014年5月
あの長閑な新宿駅周辺もあっという間にビルが林立する風景となり、新宿地上駅があったところに
京王百貨店が建つ。

昭和42年 西鉄北九州線100形

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先日北九州を訪問されたChitetsuさんのブログ記事 西鉄100形電車との遭遇 で西鉄148号の保存車のことが紹介されていました。それを見たCedarさんと同様に私もこの西鉄100形148号と100形電車が元気に活躍していた時代の姿を集めて見ました。
撮影場所は筑豊電鉄の入口と黒崎、戸畑にかけてで、専用軌道では電車がえらく飛ばしていた記憶があります。また北九州線は余りに巨大規模の軌道線であり、これを把握するなんては容易でなく諦めの象の鼻先見物でした。こんな北九州線で見た厳つい電車が保存されていたとは嬉しいことです。

撮影日: 全て1967.02.27
戸畑大橋の下にある戸畑駅で発車待ちの門司行148号 (現在は門司港に保存)

戸畑駅から見た戸畑大橋

鹿児島本線と北九州工業地帯を見て西鉄北九州線を飛ばす148号

筑豊電鉄の専用軌道を高速で走る門司行157号.貞元-萩原

カラーリングの参考66形85

筑豊電鉄沿線のベットタウンを行く戸畑行146号. 貞元-萩原

黒崎駅前の門司行140号

北九州市内戸畑を行く砂津車庫前行144号 幸町

西鉄北九州線 若戸大橋風景

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西鉄北九州線の続きで、西鉄100形に拘らず若戸大橋の風景を集めてみました。
巨大な橋はどうしても縦位置の写真になってしまいブログでは収まりが悪くて
アップロードを控えていましたが、貼り付けてみました。(過去アップ済の写真含)

撮影日: 全て1967.02.27
若戸大橋アプローチに沿って軌道は戸畑駅へ向かう.

電車が戸畑駅へ到着する.ここで大橋は若松へ向かって右へカーブし海を渡る.

若戸大橋の戸畑側の橋台の脇に駅があった.
現在は西鉄バス発着場「戸畑渡場」となった.

ここで行止まり戸畑駅


若戸大橋は開通以来昭和59年に4車線への拡張工事が始まるまでは歩道があって歩いて渡ることが出来たそうです。確か橋台のところにエレベータ乗り場があってここで約40m上の歩道まで登っていたようです。

幸町で分岐して軌道が戸畑駅へ延びる.

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