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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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昭和42年 唐戸の秋田商会ビル

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先日のChitetsuさんの北九州~下関で、下関は唐戸にある変わった建築の現状が
Chitetsuさんの建物ブログ唐戸の秋田商会ビルに詳細にレポートされました。
この旧秋田商会ビルの解説書看板を読むとなるほど! 建築のいわれはこういう事でしたか。

見覚えのあるユニークな建築は昭和42年に山陽電気軌道の唐戸で見たこの風景でした。

ユニークな建築(秋田商会ビル) が街に溶け込んだ唐戸の風景. 1967.02.27


唐戸の大通りに路面電車が走っていた.

山陽電気軌道の電停 「唐戸」
商店街「唐戸銀天街」の看板が見える

2月末の山陽路はもう春.強い日差しであった.


模型資料 栃尾線の客車1

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今までのブログで「オリンパスペンで撮った奥山線5」など軽便車両の角度には大変人気がありました。
そこで軽便の車両一覧や台車や連結器などの資料写真はラベル(カテゴリ) に「模型資料」を追加しオリンパスペンで撮った栃尾線から更に続けてみます。
これをやり過ぎると延々と車両図鑑になってしまうので軽便客車を主に取上げます。
軽便模型を作る楽しさは客車にありで、模型化で車両イメージが左右されるアーチバー台車のサイズには拘りたいものです。
撮影: 全て1964.03.22
模型のような自動連結器
標準型客車ホハ1形2 と カマボコ型ホハ20の連結面

ホハ1形2  ハンドプレーキのプルロッド

模型で作りたくなるカマボコ客車ホハ20.栃尾で最も腰が低い客車であった.

同じホハ1形でも形状が様々なアーチバー台車の一覧
ホハ1

ホハ8

ホハ6

ホハ7
以上がホハ1形のアーチバーで、軽便としては草軽並みにでかい
1例: 軸距1220 車輪径520φ程度(実測)

元草軽の小さな客車ホハ18.
台車は栃尾で交換されたものかは不明?
元々の草軽では軽便最大クラスのアーチバーを履いていた
(草軽のアーチバー 軸距1220 車輪径610φ)

栃尾の標準的ボギー客車 ホハ1形5. 1、2 5~8の6両がいた. 悠久山

台車を撮った客車群 ホハ27+ ホハ6+ ホハ7+ ホハ1+ ホハ18+ ホハ8 悠久山

元石川鉄道ガソリンカーの電車化→電装解除 ホハ27

模型資料 栃尾線の客車2

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小坂から来た客車
昭和38年に同和鉱業小坂鉄道から来た客車ハ2、5~8の5両は、翌年3月に小坂の車番のまま栃尾線の加津保駅や長岡車庫に留置されていた。このアメリカンタイプの客車は軽便としては珍しく、大きさ(車体幅、全高) は栃尾線のダブルルーフ客車と同程度なのに、かなり大きく見えたのは腰高のせいだろうか。
5両は一度も使われることなく台車の部品流用で終わってしまったようだ。


加津保駅の小坂から来た客車     1964.03.22

加津保駅に3両留置されていた小坂から来た客車

アメリカンタイプの元小坂の客車ハ7

ダブルルーフの造り

長岡工場に2両留置されていた小坂から来た客車


軽便には珍しい台車. 軸距1230 車輪径560φ(実測)
これと対称的な腰の低いカマボコ客車ホハ20の腰高さは520 しかない。
地を這うような客車から腰高の客車まで、模型化で軽便らしさを出すには
いかに千差万別の腰高さを正確に捉えるかにかかっている。


ホハ23(元江ノ電) を改装したクハ111の台車に化けた小坂の台車. 1975.03.08


ホハ23(元江ノ電) → その後クハ111へ改装  1964.03.22


クハ111   1975.03.08

旧吉祥寺ユザワヤ地下1階の変身

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昔、吉祥寺ユザワヤの地下1階にあった啓文堂書店(それ以前はユザワヤ模型売場)に鉄道図書やユザワヤに模型を探しに来た鉄道ファンも居られることでしょう。
ユザワヤが入っていたビルは4年かけて今年4月23日「キラリナ京王吉祥寺」に生まれ変わったが、地下1階に昔啓文堂が入っていたスペースが見つかりません。一体どうなったのか?

「キラリナ京王吉祥寺」がオープンしてから暫くした7月31日に地下売り場が拡大して生鮮「フードパルク」がオープンしたので入ってみると、連絡通路の先に開けたスペースが昔あの啓文堂書店が入っていたところであった。

そして、今も昔もこのスペースはビルの地下ではなく吉祥寺大通りの真下なのであった。
ところで啓文堂はキラリナ7階に戻って来たが昔あれだけあった鉄道図書は大幅削減で、今は無いに等しい。

井の頭線吉祥寺駅を下ると駅ビル「キラリナ京王」の2階へ. 
駅を降りると直ぐ「フードパルク」の入口があり地下1階へ行ける.

昔、ユザワヤの地下1階で巨大な模型売り場を見たり、その後の啓文堂で鉄道図書を見たり
よく来た地下1階は生鮮「フードパルク」に変身した。

模型資料 栃尾線の客車3

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「栃尾線の客車1」で紹介したアーチバー台車を履いたホハ1形などの客車を並べてみました。
後の栃尾線近代化で客車牽引が廃止され、ラッシュ時はフル動員されていたこれらの客車も間もなく全てが消滅した。

撮影: 全て1964.03.22
ホハ1形(1~8) ホハ1

ホハ1形ホハ5

ホハ1形ホハ7

 ホハ1形ホハ8

2軸客車を2両合体させたホハ10

元草軽の小型客車ホハ18.

繋がれた客車のバラバラな高さ 左からホハ27+ ホハ6+ ホハ7+ ホハ1+ ホハ18+ ホハ8 


ホハ10を牽いた電車が悠久山を発車して行く.

西武新宿線を走った臨時電車4000系

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8月17日までの土日だけ西武新宿線に西武秩父行き臨時電車が走った。
前回の臨時特急「おくちちぶ」号では写真撮っても何も変わり映えしなかったが、今回は新宿線には珍しい4000系セミクロスシート車の西武秩父行(新宿線内は急行) が走った。過去に何回か走っている臨時と思われるがあまりPRされていないようだ。
昨日、初めてこれに乗って西武秩父まで、そして初めて秩父鉄道に乗って三峰口まで行ってみた。
西武4000系セミクロスシート車と秩父鉄道を楽しむ真夏の小さな旅は、この酷暑でも決行できるところが良い。

新宿線を走る今日の臨時4000系西武秩父行. 武蔵関-東伏見 2014.08.17

田無に現れた昨日の臨時4000系.所沢まで急行と同じに乗車できるが臨時しか表示していない.

所沢で折り返すが行先は臨時のままで変わらず.

新宿~飯能間の車内はガラガラで涼しく快適であった.

飯能で各停西武秩父行きが表示され、普段の西武秩父線の各停と同じになる.
池袋線で飯能まで乗ってきた乗り継ぎ客で、ここからほぼ満席となる.

正丸峠を越えて終点西武秩父に到着.

御花畑で乗った秩父鉄道は西武秩父駅のホームを横目に見て三峰口へ向かう.
西武秩父駅と秩父鉄道御花畑駅の位置関係を初めて知った.

終点三峰口の賑わい  2014.08.16
三峰口ではガツガツ撮らないでのんびりするのがよい.帰りはこれに乗ってSL列車を楽しむ.

昭和39年 栃尾線長岡駅

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昭和39年当時の栃尾線長岡駅は軽便としては立派な駅で、構内をメモしなかったため構内線路図を描こうにもホームが何本あるのか不明だらけであった。そこで工場・車庫を除く駅の配置を推定しようとまずは訪問記と写真を並べてみました。

訪問記
昭和39年3月、5時過ぎに列車は信越本線長岡駅に到着した。ところがあいにくの天気で外は小雨がパラついていた。駅内で立ち食いゾバを食べてから細い通路をわたり栃尾線の乗り場へ向かった。人ひとり居ないうす暗いホームには悠久山行きの電車が待っていた。始発で上見附まで行くことにして切符を買った。やってきた栃尾行きは驚いたことにあのデッキ付ゲテモノ電車であった。

国鉄長岡駅から栃尾線のりばに行くこの細い通路とは? 一旦外に出て通路を通った先で切符を買っているので構内の跨線橋ではなく地下の連絡通路を通ったのでしょう。昔長岡駅に細い地下連絡通路があったのは間違いなようだ。現在は明るくて広い地下連絡通路ができているのでしょう。

撮影: 特記以外 1964.03.22
国鉄長岡駅西側. ここから東側へ抜ける細い長岡駅地下道 があった.

左手が栃尾駅1番線ホームで、そこに改札口と駅舎があった。

栃尾線長岡駅は軽便としては立派な駅で1~3番線のホームがあり、案内表示によると3番線が悠久山行き、1番線が栃尾行きとなっているがこの1番線の電車は悠久山方面を向いている。

早朝の薄暗いホームで悠久山行き電車が雨に濡れて待っていたのがこの3番線ホーム.

ホームは左から3番線、2番線、1番線となる.

国鉄側に更に2本の線路があり1番線2番線ホームと思っていた(とすると5番線まである)が
左のホームに4番線の表示があり、右のみが貨物ホームであったようだ.
後に右のホームと建屋は撤去されている。

長岡駅の全体. 右に貨物線と4番線、中央に1番線2番線があり左手に工場・車庫がある。

悠久山側の線路配置

1番線ホームのゲテモノ電車209

4年後の長岡駅、1番線の向こうに4番線のりばの表示がはっきり見える. 1968.8.17

昭和39年 栃尾線長岡駅2

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長岡の車庫・工場の線路図と建屋配置の全容は調べてなく諦めていましたが、手元の写真を寄せ集めると車庫・工場の線路図がある程度推定できそうであり、判る範囲を長岡駅線路図に書き込んでみようと思います。

栃尾線の近代化で長岡にあった車庫・工場は昭和42年11月に下長岡へ移転し大変立派な工場となった。それまではモハ212以降の新造車(東洋工機製)を除く様々な自社新造や改造はこんな工場で行われ、度肝を抜く珍奇な車両達の殆どはここで生まれたのでしょう。これらの車両はまるで尺度1/1の模型のようであった。

撮影:1964.03.22
元草軽電車200の脇に背の高い車庫があり、その先に使われない転車台がある.
転車台には珍奇なモハ210が乗っている.自社工場製でアルミ製の背が低い電車.
この電車はなんと一部クロスシートのロマンスカーとして生まれたそうで驚きの軽便電車である。

転車台の先に2線の建屋がある.左の建屋がきっと機械工場なのでしょう.

2線の建屋内では元草軽ホハ23(昭和35年入線)を改装中.
草軽時代からイコライザー式の台車を履いている客車.

右に転車台に乗ったアルミ製のモハ210が見え
転車台の奥に2本の線路があり、1本がもう1棟の建屋へ延びている.

長岡駅の上見附側 線路配置


原宿のつどい

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今日は華やかな原宿の一角で開かれた軽便模型のつどいに行ってきました。
今は発売されていない昔の模型メーカの9mmナロー他の数々が揃いました。
この時代の9mmナローは私もキットや部品をけっこう集めたものです。
2006年5月にこの原宿で「懐かしき軽便鉄道」写真展を開催してから早や8年が過ぎ去ってしまった。

遠い昔の軽便鉄道の世界から一歩外に出ると、そこは華やかな明治神宮前交差点が.
滅多に来ないが来るたびに街は激しく新陳代謝している。

オレンジカンパニー、ひかり模型、しなのマイクロの9mmナロー キット組立.

しなのマイクロの花巻電鉄 
この電車の特徴である大きな車輪径(実物864φ)の自己主張が印象的.

 
箱モノ(客貨車)編成の楽しみ

日本の代表ゲージの比較  762mm  1435mm  1067mm
ナロー模型はこの比較が楽しいところ。

京福鞍馬線 岩倉のあの頃

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京福鞍馬線 岩倉盆地 を読まれた方から頂戴したメールに1966~1968年当時の岩倉駅や鞍馬線の素晴らしい描写がありましたので、了解を得てここに紹介します。私もあの正月厳寒の岩倉盆地を訪れた時のことを改めて思い出しました。1960年代後半(昭和40年前半)に入っても、郊外にはまだこんな質素で優雅な時代が残っていたのですね。

 比叡山を望む岩倉駅 1969.01.02

正月の厳寒に震え上がった岩倉駅に客は暖かそうなお二人だけ 

岩倉駅近くに66年から68年まで暮らしてました。とても懐かしいです。当時は山村という感じでとても京都市内とは思えないところへ来てしまったという感じでしたね。岩倉駅の薄水色の駅舎が目に浮かびます。改札口?の所に持ち込み可能な手荷物の見本が立方体の木型で置いてありました。当時から無人駅でしたが時々切符売りの駅員さんが来てました
ダイヤは1時間に4本で岩倉駅折り返しが2本鞍馬まで行くのが2本で便利さはまあまあでしたが春の連休時に必ず24時間か48時間のストライキで運休するので岩倉は陸の孤島になりました。
2つ目の写真の岩倉川にかかる鉄橋のレールに夏になると蛍がとまっていました。川のたもとにお粗末なお便所があり、京都バスの女車掌さんが使ってました。この写真ではもうなくなってますね。
当時は駅前によろずやが一軒あるだけ、食堂も銭湯もなく、不便さに耐えかねて中京へ移りましたが、市内との温度差はかなりあり、夏の深夜はかけ布団がないと寝られなくなる岩倉が懐かしくなりました。

あの頃の叡電の年中行事ときたら春の連休のストライキと晩秋に行われる鞍馬の火祭りの際の電車のエンコでしたよね。
鞍馬の火祭りは鞍馬線にとって最大のイベントで市内と鞍馬を結ぶ最大の交通機関である叡電にとって年間最高の稼ぎ時でしたが、なにしろオンボロ電車でしたから毎年積載オーバー?で過熱して?立ち往生し、祭りから帰るお客さんはいつも市バスも市電もなくなってしまった出町柳駅に降り立つのでした。それでも非難轟々とならなかったのんびりした時代でした。
 以上 匿名さん

正月休みの京都(私の記録より)
1969年の正月、この頃は私の会社人生がスタートした頃で、貴重な7日間の正月休みは寝屋川の友人宅を訪ね正月の関西観光の筈であった。この頃は鉄撮りは全く関心なしで、元旦に奈良へ行き翌2日は京都見物の筈であった。ところがこの日突然友人は彼女と京都ドライブだということで、私一人で京都へ行くことになった。
一人の観光では楽しくなく、仕方なく京都市電や京福叡山線を撮りながらなんとなく岩倉盆地にたどり着いた。正月の京都市内各所でさんざんアベック姿を見せつけられ、岩倉盆地では余りの寒さに良い想いもなく早々に岩倉を切り上げ東京へ引き上げてしまった。
こんな寒々しい正月の京都であったが不幸中の幸いで、もしこの時に友人と京都観光でもしていたら京都市電も京福叡山線も撮ることはなかったろう。しかし鉄撮り趣味を辞めていなければ友人宅をベースに正月休みの殆どを使って京都の私鉄を撮りまくっていた筈で、更なる収穫があったのに・・
今思うとほんとうに残念なことをしてしまった。

なんとなく撮った大晦日の大阪市内 1968.12.31

元旦の奈良 1969.01.01

北陸鉄道 いぶりばし

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昭和39年に北陸鉄道を訪問した時は、北陸本線の動橋(いぶりばし)から山代線と片山津線の2つの温泉行き電車が出ていた。(加賀温泉郷行きの電車山代線片山津線は本ブログで紹介済み)

更に北陸本線で一駅先の粟津からは粟津線が出ていて、粟津温泉を通って山代線宇和野まで昭和37(1962)年まで走っていた。
粟津線は見た事もないがこんな(写真下)北陸の空の下、白山を望む畑の中を走っていたと想像される。
温泉郷衰退のずっと前の動橋(いぶりばし) 粟津界隈に、こんな小さな温泉行き電車が走っていたとは今では人々から忘れ去られてしまっている事でしょう。

山代線 新動橋 - 庄 1964.12.29
今にも雨や雪が降りだしそうな黒く立ち込めた雲。行く手に白山の山並みが光る。

山代線 庄駅近く. 粟津線が分岐する宇和野駅はこの2つ先となる.

国鉄動橋(いぶりばし)駅から少し離れている山代線新動橋の風景。 

国鉄動橋(いぶりばし)駅の反対側から出ていた片山津線の電車

北陸本線動橋駅のホームに隣接して、片山津線のホームと車庫があった。
加南線では片山津線だけがビューゲルであった。 

北陸本線動橋駅 一つ先が粟津駅

北陸鉄道加南線 悲運な特急電車

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北陸鉄道加南線の主力路線である山中線に登場した特急電車6000系「くたに」と6010系「しらさぎ」の話題が出たところで、この電車の現役時代を再び紹介してみます。

1962(昭和37)年に「くたに」が登場し、翌年に「しらさぎ」が増備された自社発注の特急電車。
写真の「しらさぎ」は投入した翌年で、中古品の足周りの上にアルミ合金製の車体がピカピカに輝いていた。そしてツートンカラーの「くたに」は投入2年目で、カルダンドライブの最新鋭電車が優雅に走っていたのが印象に残る。

北陸本線大聖寺から山中温泉までの温泉客を見込んで投入した2編成だったが、その後の余りにも急速な社会の変化により、バスやマイカーに客を奪われ1971(昭和46)年の山中線廃線で役目を終えた。
この2編成が山中線で使われたのは僅か10年にも満たない。その後大井川鉄道に引き取られ没落した姿の方が遥かに長い年数だったようだ。山中線に登場してからの数年が山中温泉と山中線ともに繁栄していた時代だったのだろう。

6010系「しらさぎ」 山中温泉 1964.12.29

旧型車の台車・電機品を流用した「しらさぎ」 山中温泉

ピカピカに輝いていた6010系「しらさぎ」 大聖寺 1964.12.29

大聖寺駅で発車を待つ「しらさぎ」の車内

ツートンカラーに塗られた6000系「くたに」 河南-山代

元温泉電軌1820形(ブラウンボベリのコントローラ搭載)と 「くたに」が出会う河南駅

山中車庫に休む「くたに」

全てが新製された「くたに」 山代車庫

美しい「くたに」の車内

元温泉電軌1810形と並んだ「くたに」  山代車庫

私鉄 地上駅風景

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このところ盛んに私鉄の街風景をアップしているCedarさんの今昔写真日記
私もよく撮っていたあの頃を思い出しました。
西武新宿線の上石神井駅、武蔵関駅もいずれ立体化で、街にとけ込んだ地上駅の風景も消えることでしょう。

ところで、鉄道写真家が 編成写真とは、形式写真とは、鉄道風景写真とは、イメージ写真とは、こうして撮りなさいと、よくおせっかいな撮り方(構図や車両位置など)を言っています。そんな型にハメられたら鉄道写真は皆同じでつまらなくなります。鉄道写真は自由に撮ればよしで、そんなハメ型を外せばもっと楽しくなると思うのですが。

商店街のすぐ向こうに見える電車とホーム。私鉄郊外電車らしさを残す風景。
西武新宿線 上石神井 '2008.05.12

上石神井

西武新宿線 武蔵関  2008年5月

そして既に消えた地上駅風景、これから消えゆく風景は限りなくある。

消えた地上駅 小田急下北沢 2008年9月

消えゆく地上駅 京王線明大前 2009年6月

消えゆく地上駅 京王線下高井戸  2009年6月


 路面電車の地上駅の良さは変わらないでしょう。 世田谷線下高井戸 2009年6月

仙北鉄道 軽便の魅力

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先日の第10回軽便模型まつりは残念ながら都合がつきませんでした。
今年も素晴らしい作品が展示されたようで見学できず惜しい思いです。

第10回記念製品でブルーに塗られた仙北DC103の写真が大変刺激的でした。
そこで既に本ブログで公開済みですが現役時代の仙北DC103他を再度アップしてみます。

軽便のたたずまい.軽便の魅力ここにあり. 瀬峰 1966.03.01
東北本線瀬峰駅を降りて跨線橋を渡ると軽便らしいたたずまいが現れる.
軽便と国鉄の線路が並走し2'6''と3'6''ゲージの違いが分かる光景.
軽便はこうして国鉄の駅の片隅からひっそりと出発していく.


朝の貨物入替え作業に出て行くDC103 瀬峰

貨物長大編成 1966.03.01 沼崎下 - 瀬峰

田んぼの中をやってきた下り2本目の貨物列車。 板倉 - 佐沼 1966.03.01

賑わう駅とDC103の貨物長大編成  佐沼
以前、ブログのタイトルに使用したカットです。

DC103  佐沼

登米からやってきた列車が米谷駅でスイッチバックし瀬峰へ向かう. 1964.08.04

こんな小編成もあった。 昼前に瀬峰へ向かうDC103。

栃尾線 長岡駅構内配線図

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8月に「栃尾線 長岡駅1」と「栃尾線 長岡駅2」をアップしましたが、この目的は写真から長岡駅の配線図を作ることでした。この時の写真と書籍やネットにある写真、航空写真など付け合わせて以下の手順で進めてみました。工場と思われる大きな建屋があるところは写真が無く不明で、判り次第追加していく予定です。

手順
1.まずは昭和39年以前の長岡駅の各種写真を元にして国鉄様式の「配線略図」を描く。
2.これを元に、分岐線の角度、線路のカーブ、線路の間隔、線路の長さ、
  そして建屋の大きさとカタチ、建屋の配置、ホームの長さなどを概略置いてみる。
3.上記に写真から割り出した補正を繰り返して「構内配線図」に仕上げて行く。

図は実測から割り出した寸法ではなくノットスケールです。
実際は左右長さがもっと長いでしょうが、模型で長岡駅を再現するとなるとこんなイメージの「構内配線図」になるのではないでしょうか。

国鉄で使われる直線で描く配線図の正式名称は○○駅「配線略図」だそうです。
国鉄様式以外の趣味界では図の様式と名称に特に決まりはないようで、
今回の図では機芸出版社の呼び方○○駅「構内配線図」としました。
この用語、いつも迷うところでした。

図をクリックすると原図の大きさになります.

以下は長岡駅・車庫の主な写真
↑上見附側から見た駅と車庫の全景
↑4番線ホームと貨物ホーム
↑悠久山行き2、3番線ホーム
↑メインの1番線ホーム
↑使われていないターンテーブルがある一角
↑ターンテーブルの先にある2線車庫
↑2線車庫をこちら側に出たところが謎の一角
↑悠久山方面の分岐線
↑奥の留置線の先に見える謎の建屋(車庫・工場)

加悦鉄道 丹後ちりめんの里

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大江山と丹後ちりめんの里加悦町に似合う素晴らしい終着駅. 1962.07.31

加悦鉄道が走った土地の風情と言えば「大江山」と「丹後ちりめんの里」になるでしょう。
昭和37年真夏に訪問した加悦駅があった 「加悦町」はその後2006年に与謝郡「与謝野町」となった。

現在の与謝野町(元加悦町)商工観光課から送付戴いた様々なパンフレットには、丹後ちりめんの歴史やちりめん街道のことが紹介され、加悦の町は丹後ちりめんの里として栄えてきたことがわかる。今も生産されている丹後ちりめんの生産高は1973年がピークだったそうである(朝日新聞)

そんな歴史を残す街並の一角に加悦駅舎を使った「加悦鉄道資料館」がある。駅事務室の展示、加悦鉄道で実際に使われていた鉄道備品類や各種灯火類、保線工具の展示など、地方私鉄の鉄道遺産を是非見学してみたいものである。

与謝野町指定文化財 旧加悦鉄道加悦駅舎 加悦鉄道資料館
 与謝野町商工観光課発行のパンフレット

パンフレットに掲載頂いたブログの古典客車画像

大江山を望む加悦鉄道の名場面  1962.07.31
今では信じられない多くの現役古典車両が揃った生きた博物館 加悦

格調ある加悦駅の現役時代 1962.07.31

加悦鉄道の主な過去の記事はこちら

休車中の2号機 明治6年 英国スチーブンソン製 元国鉄No.123  1962.07.31

オリンパスペンS で撮った京阪四条駅

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ハーフサイズカメラのオリンパスペンSで撮った昭和39年の京都。

フィルムは35mm版以上、レンズは望遠でなければ、そんな鉄ファン必須のカメラとは
正反対の小さなカメラ オリンパスペンS。

あの時代の風景を独特な雰囲気で写し出してくれたのは
オリンパスペンSのDズイコー30mm(35mm版換算42mm相当)の広角気味レンズでした。
オリンパスペンSのこと、そしてオリンパスペンSで撮って箱に眠っていたネガをスキャンし
あの時代の風景を暫く続けてみようと思います。

京阪電車四条駅  1964.07.10



 加茂川の流れと四条大橋を行く人々



四条大橋を行く市電とバスとクルマ

こちらは少し離れた京阪京津線.電車のことよりいつもこんな人が入った街風景が楽しい.

電車だけ撮ったカットを除き、街の鉄風景だけを集めてみると、オリンパスペンで撮ったカットには何故かその時代がよく表れる。今見ると、当時は邪魔だったクルマや人物は写し込まれるほど楽しい。
小さなカメラ、オリンパスペンは人を威嚇せず自然に写る。

京阪京津線

オリンパスペンSで撮った関西私鉄の車両

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オリンパスペンSで撮った車両写真、スマホ画面用にBloggerのライトボックス機能(画像拡大)を全て外してみました。車両写真はこの方が良さそうです。

昭和39年の関西私鉄はこんな凄い電車が走っていた時代でした。

なんだこれは! の面構え
こんな電車を撮った記憶が全くありません.阪急嵐山線201+251  桂 1964.07.10
この電車の事はこちら→デジタル青信号 阪急200型 

この頃は阪急嵐山線に名車デイ100が走っていた. 桂

嵐電の嵐山行き

京都線特急用2扉セミクロスシート車2850形がデビューした頃. 桂

桂でみた事業用4302
4300形は、1924年から1925年にかけて新京阪鉄道が製造した電気機関車である。3両が製造され、登場時の番号は1~3であったが、1929年に2001~2003に改番された(wikipediaより)


 京阪電車

京阪 三条駅1番線

京阪に乗り入れた近鉄430型 奈良行き.  三条

オリンパスペンSで撮った京都市電1

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東海道新幹線がまもなく開業する年1964年の夏の京都市内はこんな風景であった。
大通りの古いビルもどんどん建替えられているようであった。
京都市電を撮るのに35mm判フィルムでは勿体なく、オリンパスペンSで撮ったのが反って良かった。

 京都市内にはまだボンネットバスが走っていた.1964.07.10

 軌道がある大通りでは祇園祭りの準備が.

路面電車が走る大通りの風景

オリンパスペンSで撮った京都市電2

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オリンパスペンSで撮り歩いた市電四条通りをネガのコマ順に追ってみると、祇園祭りの山鉾準備などを撮った市内中心部から阪急西院の駅まで歩き、阪急に乗って桂まで行って京都線を撮って、また阪急に乗って四条河原町へ引き返したようだ。
オリンパスぺンSで撮ったネガには様々な京都市電系統が写っていて、四条線に写っていたのは①⑦⑳であった。
四条通りには銀行のビルが多いが古い建物も残っていて市電と並走する当時のクルマの風景が楽しい。ただし電車ばかり撮ってしまいオリンパスペンらしい風景は撮れてなかった。

撮影 1964.07.10
系統(白梅町~京都駅前)烏丸線は四条烏丸で四条線とクロスする

系統(九条車庫~九条車庫) 四条線

系統(銀閣寺道~千本北大路) 四条線 

系統(壬生車庫前~壬生車庫前) 四条線

系統(九条車庫~九条車庫) 四条線

四条線 住友銀行の前の電停

①系統が走る軌道がT字分岐点となると、ここは四条大宮でしょうか?
ここから阪急の西院駅までどう歩いたのか古い路線図を調べねば。

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