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栃尾線 長岡駅構内配線図

8月に「栃尾線 長岡駅1」と「栃尾線 長岡駅2」をアップしましたが、この目的は写真から長岡駅の配線図を作ることでした。この時の写真と書籍やネットにある写真、航空写真など付け合わせて以下の手順で進めてみました。工場と思われる大きな建屋があるところは写真が無く不明で、判り次第追加していく予定です。

手順
1.まずは昭和39年以前の長岡駅の各種写真を元にして国鉄様式の「配線略図」を描く。
2.これを元に、分岐線の角度、線路のカーブ、線路の間隔、線路の長さ、
  そして建屋の大きさとカタチ、建屋の配置、ホームの長さなどを概略置いてみる。
3.上記に写真から割り出した補正を繰り返して「構内配線図」に仕上げて行く。

図は実測から割り出した寸法ではなくノットスケールです。
実際は左右長さがもっと長いでしょうが、模型で長岡駅を再現するとなるとこんなイメージの「構内配線図」になるのではないでしょうか。

国鉄で使われる直線で描く配線図の正式名称は○○駅「配線略図」だそうです。
国鉄様式以外の趣味界では図の様式と名称に特に決まりはないようで、
今回の図では機芸出版社の呼び方○○駅「構内配線図」としました。
この図の用語いろいろあって、いつも迷うところでした。

図をクリックすると原図の大きさになります.

以下は長岡駅・車庫の主な写真
↑上見附側から見た駅と車庫の全景
↑4番線ホームと貨物ホーム
↑悠久山行き2、3番線ホーム
↑メインの1番線ホーム
↑使われていないターンテーブルがある一角
↑ターンテーブルの先にある2線車庫
↑2線車庫をこちら側に出たところが謎の一角
↑悠久山方面の分岐線
↑奥の留置線の先に見える謎の建屋(車庫・工場)

正月の沼尻

水浜線風景 ガルパンの聖地 大洗

ガルパンの聖地巡礼と言っても私ら世代には何のことかサッパリ分かりません。
ガルパンの聖地が大洗だそうで、ネットでは大昔の水浜線の廃線跡がいろいろ取り上げられているようです。
過去にアップしてきた青蛙さんの水浜線シリーズで残された未公開画像をアップしてみます。これまでの水浜線画像は全てオリンパスペンで撮ったそうです。

水浜線の車窓に見えた大洗港  昭和41年5月
えらく時代がかった漁港風景に見える。

松林の中にある奇妙な大洗駅.鳥居の手前で線路が終わる.
聖地巡礼大洗で大洗駅のホーム跡を訪ねるファンも多いことでしょう.

浜田車庫風景.ここから畑の中を専用軌道が一直線に伸びる.

常磐線を越える. 一高下-東棚町

水戸駅前-「車庫前」-三高下の表示板は駅ではなくバス停のようだ.

茨城交通水浜線↓クリックで全ての水浜線記事と繋がります。

今年の駅弁大会 大館駅復刻駅弁

今年も恒例の京王百貨店新宿店の「元祖有名駅弁大会」が8日からスタートした。
開催期間は1/8から1/20日迄。
昨年はえちぜん鉄道三国芦原線あわら湯のまち駅「大人のオムライス」1100円を買って食べたが今年は地方私鉄の駅弁はなさそうだ。

今回注目したのは"あの味をもう一度復刻駅弁 40年前の姿と味わいを再現という奥羽本線大館駅の「鶏樽めし」1100円で、大館駅のことを思い出しながら40年前に消えた駅弁を味わってみました。


花善の鶏樽めし
掛紙は当時使用されていた物を一部修正したもので、デザインは秋田と青森の県境にある「矢立峠」をイメージしたものと考えられ、中央の鶏は国の天然記念物に指定された「比内鶏」、大館の「大文字まつり」の大の字が山の部分に描かれ、さらに当時と変わらずのクラフト紙に印刷することで時代を感じさせるものになっています。(添付解説書より)

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「鶏樽めし」とは昭和45~51年頃に販売されていた駅弁でした。その頃、容器を作る金型が壊れて販売を取りやめた商品です。お客様の声にこたえて、四十年の時間を経て復刻いたしました。平成27年3月31日まで期間限定販売。(添付解説書より)
鶏めしの味だけでなく掛紙、樽の容器、箸、お手拭きまで当時のままを再現する拘りには感服した。これを食べながらあの時代の大館駅のことを懐かしんでみました。

「花善」の鶏めし掛け紙ギャラリー

49年前の奥羽本線大館駅 1966.03.05
「鶏樽めし」とは鶏めしとは別で昭和45~51年頃に販売されたそうだ.

これから矢立峠を越えて弘前へ向かう朝の通学列車

駅弁大会の店「花善」で見掛けた写真大館機関区はこれなんでしょう.

大館駅から発着していた同和鉱業小坂鉄道線 1966.03.05
DC1
小坂鉄道の大館駅構内

花輪線龍ヶ森駅でヒュッテに使われていたオハ31系(車体)の仲間でしょうか
小坂鉄道花岡線の貨物列車
一直線に伸びる小坂線

志摩線の賢島へ向かう 1

東海道新幹線が開業する直前の昭和39年夏、風光明媚な伊勢志摩を走る三重電鉄志摩線を撮りに行ったことがあった。東京から夜行に乗って早朝の名古屋に到着し、関西本線の蒸機列車に乗って亀山機関区に立ち寄り終着鳥羽に到着したときは遠い地の感じがしたものだった。

鳥羽からさらに志摩線に乗って1時間、奥の奥にある賢島まで名古屋からの所要時間は3時間半ほどであった。地の果て賢島も今では近鉄名古屋で特急に乗れば2時間ほどで到着してしまう。
長閑な時代の国鉄と志摩線を乗り継いで賢島へ向かった旅を追ってみます。


クルマがいない名古屋市内を行く12系統
早朝の名古屋市電18系統
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早朝の名古屋市電3系統

C57が牽く快速鳥羽行に乗って亀山へ向かう 名古屋 1964.07.06
開業間近い新幹線ホームと蒸機列車

3か月後に東海道新幹線が開業する名古屋駅では関西本線や中央本線の蒸機が盛んに発着していた.

亀山機関区に立ち寄り有名な美しいC51225を撮る.
「亀山詣で」の風景はやはりオリンパスペンで撮ったものが多い.

紀伊半島東部は蒸機王国の時代で、遠くに見えるDF50(紀伊本線)は影が薄かった.

亀山を発車する列車.C57に牽かれる客車はダブルルーフである

志摩線の賢島へ向かう 2

関西本線の亀山から南紀を回り和歌山市までが紀勢本線となるが、この本線は極端に本数が少なかった。それに比べると亀山から紀勢本線を経由し多気で分かれ鳥羽へ向かう参宮線の方はずっと本数が多かった。
亀山でキハ35単行に乗って鳥羽へ向かうと、これが紀勢本線かと驚くばかりのローカルムード溢れる路線に一変。この先にある津、松坂、伊勢市などでは参宮線に頼らず名古屋から宇治山田へ向かう近鉄が生活の足であったのだろう。
近鉄を横目に走る国鉄参宮線は裏街道の感じであったが、伊勢市の先に二見浦、鳥羽、賢島など国鉄でないと行けない伊勢志摩の名所があり、参宮線はここに存在価値があったのだろう。

鳥羽行キハ35単行は紀勢本線「多気」で分かれ参宮線に入る.

C57が牽く混合列車が停車する多気駅.周辺はのどかな風景が展開する.1964.07.06

二見浦で降りたが海岸沿いはまだ先であった.

亀山-鳥羽間の参宮線には蒸機客列車が何本も走っていた。二見浦

鳥羽の手前で穏やかな海岸線が開ける

波静かな入江を行く準急気動車 鳥羽

各停キハ35の単行 鳥羽
こんな海辺の風景の現在は、参宮線、近鉄鳥羽線、伊勢二見鳥羽有料道路が走り、ハイテク工場が立つ風景に一変したようだ。

志摩線の賢島へ向かう 3

鳥羽駅 右手へ海に向かって線路が終わる.1964.07.06

到着した参宮線鳥羽駅は、現在の近鉄志摩線に占領された鳥羽駅と違って目前に静かな海が拡がる情緒ある終着駅であった。こんな風景も今では海が埋め立てられ道路や観光ホテルが立ち並ぶ。現在のJR参宮線の線路は駅の片隅に追いやられてしまったようだ。

ターンテーブルで向きを変え発車を待つC57
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海と島を背景にした蒸機列車
鳥羽駅全景.反対の鳥居の脇から志摩線の電車が発車する.
国鉄鳥羽駅の端っこで鳥居の脇から出ていた三重電気鉄道志摩線.
ここから賢島まで1時間掛かる
鳥羽を発車したモ5210形+モニ551形

志摩線の賢島へ向かう 4

鳥羽から賢島まで3'6''ゲージで走っていた三重交通志摩線は、1964年2月に三重交通から鉄道部門 北勢・三重・松坂・志摩の4線が独立会社となり三重電気鉄道㈱として新発足した。訪問したのはその直後であり翌年には近鉄志摩線となり、更に1970年4月には改軌され近鉄鳥羽線から賢島まで直通運転され、結局志摩線は近鉄標準軌に飲み込まれてしまったかたちだ。

こうして目まぐるしく変貌して行った三重電鉄志摩線を常夜燈さんのローカル私鉄の今昔で拝見すると、三重交ツートンカラーが近鉄マルーン一色になった小型電車はいかめしい近鉄電車風に見え、更に改軌で何もかもが消滅してしまったようだ。

鳥羽から賢島まで素晴らしいツートンカラー(クリーム/グリーン)に塗られた小型電車が走っていた時代の光景は今では想像もつかないことでしょう。

下校時間の鵜方駅風景   1964.07.07


旧型の車体更新車 モ5210形  中間部がクロスシートになっている. 鵜方

貨物ホームに貨車が止まり混合列車も走っていた. 鵜方

ク600形+モ5400形 珍しい垂直カルダンドライブ駆動部は地元神鋼電機製

ク600形+モ5400形
非舗装の道路と埃まみれの草木がどこでも当たり前の時代であった。

ク600形+モニ551形

モニ551形+モ5210形  船津
沿線車窓風景は至って平凡で期待外れであったが荷物室付電車モニ4両の存在が魅力的であった.


志摩線の賢島へ向かう 5

2010年5月にアップしたことがある「志摩線 伊勢志摩を行く荷物室付電車」を、数枚の写真を再利用してリニューアルします。

鳥羽からモニ554 + モニ562に乗って賢島に到着したのは夕暮れ。その日の宿は駅近くにある国民宿舎「賢島ロッジ」でここが大学鉄研夏の合宿集合地であった。賢島ロッジに1泊し英虞湾観光、更に1泊し那智観光という鉄研日程であったが、賢島では一人はずれて志摩線沿線を撮り歩き身勝手な行動をしてしまったようだ。
那智観光の翌日は南紀~和歌山界隈の小私鉄を撮り歩いたが、小私鉄では戦後まで生き延びた車両が次々消えて行った時代で、この時の数年の差が余りにも大きい。

モニ554 + モニ562  賢島 1964.7.6
1964年の夏の夕方、勤めを終え鳥羽方面へ帰って行く乗客で荷物室まで超満員。風光明媚な賢島の夕暮れ時を素晴らしい電車が行く。モニ554 + モニ562 この電車は同じ三重電鉄の軽便松坂線のモニ202とそっくりで、軽便をそのまま大きくした感じであった。

モニ554 + モニ562 賢島はこんな風景であった.

国民宿舎「賢島ロッジ」から英虞湾を見渡すImage may be NSFW.
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パンタの位置から賢島(手前側)に渡るところと思われる.

賢島駅のモニ561形(561、562)は、551形(553、554)と仕様が異っていた.
こんな単線の駅がその後堂々たる5線の賢島駅になった.

モニ561形561には楕円窓がついていた.船津 1964.7.7

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 賢島駅の先に真珠港まで延びていた貨物線.

賢島駅の下の港から出ていた英虞湾めぐり船
湾内の真珠養殖

国鉄DF50のこと

志摩線賢島のハーフサイズフィルムの片隅にこんな風景が写っていました。
賢島のあと那智観光して一泊、その翌日南紀小私鉄に向かう途中の紀勢本線です。

まずカメラを向けることがなかった国鉄DF50は今となると貴重な1枚です。
中央本線の夜行準急「穂高」や山陰本線他、全国いたるところでこの列車に乗った筈なのに、どんな牽引機なのかまず見ることはなかったDF50でした。

紀勢本線 DF50旅客列車.ここは紀勢東線と紀勢西線の接点となる新宮でしょう.1964.07.09
紀勢本線で夜行列車を利用したこともあった.

紀勢本線の車窓 串本

磐梯山を背にした磐越西線DF50   川桁  1963.01.03

淡路交通 バスで島めぐり

= 島めぐりバスのコース

1966(昭和41)年まで淡路交通の電車が走っていた淡路島は何とも言えない風情溢れる土地であった。電車の沿線は玉ねぎ畑、ため池、埃だらけの道路ばかりで、淡路ならではの淡路人形、西海岸の五色浜、鳴門のうず潮など見たさに同行の友人と別れ淡路交通のバスに乗り島めぐりをしたことがあった。
この頃の島の道路は至るところ穴だらけで、西海岸の道路などは更にひどくバスの乗客はシートから放り出されるくらい飛び跳ねた。
淡路島出身の阿久悠さんの著書「瀬戸内海少年野球団」の舞台設定は淡路島江坂町(仮定)で西海岸の五色浜を含むこの地域であったようだ。
鉄道は両端の洲本と福良以外は観光地と縁が薄いが、バスめぐりも含めて島の電車の淡路風情を膨らましてみました。

五色浜の海岸 1965年8月
天然記念物五色浜の海辺は目もあざやかな五彩の玉石に埋められ、真に自然界の驚異である。ここは慶野松原とともに周遊指定地である(淡路交通のパンフレットより)

電車の終点福良からうず潮見物へ向かう

鳴門のうず潮
福良に近い「市」にあった淡路人形座

埃まみれの沿線と島の電車
洲本港から福良港へ観光客を運ぶ島の電車

街中は昔のまんまの港町洲本.撮らなかったのが惜しい大変な風景であった.
こんな街中から島の電車が発車していた. 

淡路交通 昭和40年の洲本

島の電車で断片的に淡路島のことを取り上げてきましたが、今回は洲本の街に限定してこれまでの写真を再調整して整理してみます。

明石港~岩屋港経由して急行バスで遠路はるばる到着した洲本の街(昭和40年)の印象は、予想外に開けていたが大都市とは明らかに違ってゴチャゴチャした街の風情が堪らない魅力であった。今では全国至るところ統一化されて殺風景になってしまったが、この時代の洲本の訪問記録を読み返すと写真は撮らなかったが島ならではの凄い光景もあった。

❶三熊山山頂から見た洲本の街全景 1965年8月
❷洲本の漁港の光景 三熊山をのぞむ. 

❸洲本港 洲本~和歌山深日や洲本~大阪・神戸間を結んでいた.
和歌山経由で来た観光客をここで島めぐりバスが迎える.

❹観光客向相手の大通りで大浜公園、三熊山方面へ向う.



右に向かうと洲本駅電車のりばに出る.大通りには大衆食堂、酒場、喫茶、みやげ物店が軒を連ねる.この日8月3日は淡路島まつりでどこからか盆踊りの音が賑やかに響いていた.

❺淡路交通電車バスのりば

淡路交通 昭和40年の洲本2

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地図にある番号順に更に進んでみます。

8月3日の淡路島まつりの盆踊り夜は洲本駅の近くの大衆旅館に泊まり、クマゼミが鳴く騒々しい翌朝を迎えた。昨日同様に陽はガンガン照りで余りの暑さにランニング一枚になって洲本の宿を出発した。こういう場合、Tシャツ1枚になってが当たり前だがTシャツが出始めたのは1970年代からでこの頃はまだ無かった。よそ者がランニング一枚で外を歩くなどは今も昔も恥ずかしいことである。こんな恥ずかしい姿で昨日に目をつけておいた撮影ポイントへと向った。

➑洲本を発車し紡績工場の脇をカーブする. 1965.08.04

❾洲本川の橋の手前にある寺町に洲本行が到着、通勤客だろうか.

❾洲本川をノソノソ渡ると宇山へ着く.変電所の建屋が見える.
朝日を浴びて洲本川の橋を渡る高校生を大勢見かけた.夏休みで朝の部活だろうか.

➐は昨夜の大衆旅館の話で別途とします。

淡路交通 昭和40年の洲本3

❼大衆旅館
バスが洲本駅に到着すると直ぐに宿さがしで駅前をぶらついた。どうやら駅前にある旅館は観光客向けではなくどれも素泊まりだと600円の割烹旅館であった。割烹旅館はちょっと小奇麗で我々向けではないので、さらに探すと大衆旅館というのが目にとまった。おそらく洲本では最低の部類と思われる佇まいで旅館の感じは全くなく周りの民家と同じようであった。交渉すると二食付き650円(素泊まり350円)である。宿はここに決めて荷物を預けたが、おかみさんの大声が何を言っているのかどうも方言でよくわからない。

一日、真夏の沿線撮影をして夕方宿に戻ると2階の一室に通された。ひどい部屋で置物もなければ掃除もろくにしていないようなただ寝るだけの物置のような部屋。二部屋あって一部屋に電球がないのには驚いた。もう一部屋だけに薄暗い裸電球が燈っていた。

夕食付であったが、なんと近所の食堂からの取り寄せであった。こんな宿は初めてでどうやらフロもないらしい。外から配達された夕食は山盛りのチャーハンであったが空腹にもかかわらずノドを通らなかった。
夕食後、宿の前にある銭湯に入ったがこれがまた独特の雰囲気。せせこましい銭湯で電気も薄暗く浴場が汚らしく見える。それでもきたない旅館の浴場よりはマシだったかもしれない。銭湯に来る地元の客はみな真っ黒に日焼けし、わが身がばかに白くて弱々しく見えたものだった。
当時の淡路の観光客は大抵「ホテル淡交」1500~3500円のような観光ホテルに泊ったことでしょう。鉄ちゃんが泊まる宿として観光ホテルは対象外で、この時の大衆旅館は汚さも度が過ぎたがむしろ洲本の懐かしい思い出となった。



島の電車の洲本駅近くの旅館に一泊した時の写真がなく、ストリートビューで今の洲本を巡ってみました。道路が広くなり町並みがすっかり綺麗になり、昔のあのすごい光景は全て建替えかと思ったところ、意外や昔をしのぶ建物も僅かに残っているようです。すごい宿や銭湯があったところには今マンションが建っているようです。

Googleストリートビュー 今の洲本

淡路交通 垂直カルダンドライブ車

洲本の大衆旅館に泊まった日は洲本から二駅先の宇山にある車庫で奇抜な電車をいろいろ見学し、中でも興味深かったのがモハ2008の垂直カルダンドライブ車であった。垂直カルダンドライブは運輸省の補助金付で神鋼電機で開発され、淡路交通宇山工場の協力で試験的に装着されたようである。

神鋼電機製の垂直カルダンドライブは他に越後交通の栃尾線(ナロー)、三重交通の志摩線、湯の山線(ナロー)で採用されたがこの方式が広まることはなかった。奇抜な構造で整備などで相当厄介ものであったのだろう。

あの鳥羽の海沿いあった神鋼電機鳥羽工場で開発された垂直カルダンドライブ。
この駆動ユニットを装着した淡路交通モハ2008試作車。

鳥羽から海を渡り淡路島で何でこんな奇抜な装置が元ガソリンカーに組み込まれたのかは、神鋼電機が開発した垂直カルダンドライブを実車テストするのに淡路交通が手ごろだったのか。宇山工場が協力して有り合わせのDT10の台車に垂直カルダンを組み込んだ試作車モハ2008は一体いつ頃まで実車テストをしてきたのか? 淡路交通1966年の廃線までモハ2008は試作品を装着したまま営業運転してきたのか。いやテスト後は外され吊り掛け式になっていたのか、いろんな疑問が湧いてくる。

モハ2008.1950年に電車化されその後垂直カルダン装着.1965年8月 宇山車庫
実車テストが行われたのはこの写真の10年も昔1955年頃か?

DT10に組み込まれた垂直カルダンドライブ
なぜかイコライザー~台車間の動きが殺されている

 淡路の帰りに寄った近鉄北勢線モ200形垂直カルダン車 西桑名 1965.08.05 
元三重交通湯の山線4400形

淡路の前年に見た三重電気鉄道モ5400形垂直カルダン車 1964年夏


 越後交通栃尾線モハ214垂直カルダン車 1964年3月

同モハ215垂直カルダン車 1975年3月
栃尾線モハ212~217は昭和32~41年にかけて東洋工機で新造され、212~215の4両に神鋼電機製垂直カルダンドライブが搭載された.


オリンパスペンSで撮ったお気に入り 1

私がオリンパスペンSを使い始めたのは昭和38年春で、昭和42年春には撮ったネガが終わっていて、ペンが使われたのはたった4年間だけであった。この4年間は東京オリンピック開催(昭和39年)を挟んで昭和30年代の雰囲気をまだ色濃く残していた時代であった。すでにアップ済みですが私のお気に入りを何枚かアップしてみます。

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東急多摩川線 玉電瀬田  1965.7.27
この時代のこの駅前を舞台にした小説「夜間急行」が昨年末に出版された.

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江ノ電 腰越 1963.4.28
子供時代が思い出される遊びの時間.この男の子の刈あげ頭が子供らしい.

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奥山線 谷-祝田  1964.3.23
谷駅の周辺はかってギフチョウが舞った夢のような里山であった.
農家の庭先には洗濯物と女の子が遊んでいる風景が.

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奥山線 祝田  1964.3.23
埃まみれ未舗装路を遠鉄バスが並行して走っていた.

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奥山線 奥山駅の見送り  1963.4.4
桜満開の奥山駅はこの数日後の桜散る頃に廃線で消滅した.
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オリンパスペンSで撮ったお気に入り 2

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和歌山軌道線  東和歌山駅前 1964.07.10
ハーフ判フィルムのシャープでないところが遠い昔の時代をより感じさせてくれる。

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越後交通栃尾線ホハ11  元都電杉並線路面電車の珍奇な軽便客車.1964.03.22
オリンパスペンは車内や庫内を記録するのに最適であった。

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島の電車庫. 淡路交通宇山車庫   1965.08.02
 車庫内光景の陰影はオリンパスペンはなぜかよく写る。

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雄勝線 元日立電鉄のトレーラ ホハフ5  1964.08.05
陰影のある車両写真でオリンパスペン独特の深みあるトーン。

庄内交通湯野浜線が走っていた頃の庄内砂丘。ハーフ判には35mm判にはない荒涼とした感じが出る。

小田急電鉄 畑の中の海老名駅  1963.10.20 
東京近郊は35mmフィルムではもったいなくて、よくオリンパスペンで撮ったものだがペンで撮った東京近郊を今見ると驚くばかりの光景だ。

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井笠鉄道 北川駅の本線と矢掛線 1967.03.08
オリンパスペンSで撮った最後のフィルム。ハーフ判ながら4切程度まで引き伸ばせた1枚。

お知らせ Bloggerのトラブル

昨日は丸一日Googleの日本ブログがすべて開けない状態だったようでご迷惑おかけしました。

GoogleのBloggerサービスで障害が発生し、日本からブログページを閲覧できない状況になっていたようです。本日朝一にはほぼ回復したようで、やれやれホッとしました。
ご迷惑をおかけしました。

ブログ休載のお知らせ

伊勢志摩から淡路島の洲本まで思いつくままを並べて来ましたが、垂直カルダンドライブのコンポーネントが開発された伊勢志摩の土地、そしてその実車テストが行われた洲本の土地と、なんとなく垂直カルダンドライブで繋がりました。

更に越後の栃尾線へと繋げたいものですが、明日から暫くブログを休載させていただきます。
ブログ再開時は栃尾線の垂直カルダンでスタートできたらと思います。
今後ともどうかよろしくお願いいたします。
katsu


淡路交通 バスで島めぐり

= 島めぐりバスのコース

1966(昭和41)年まで淡路交通の電車が走っていた淡路島は何とも言えない風情溢れる土地であった。鉄道の沿線は玉ねぎ畑、ため池、埃だらけの道路ばかりで、淡路ならではの淡路人形、西海岸の五色浜、鳴門のうず潮見たさに同行の友人と別れ、淡路交通の島めぐりバスに乗って珍しく観光をしたことがあった。
この頃の島の道路は至るところ穴だらけで、西海岸の道路などは更にひどくバスの乗客はシートから放り出されるくらい飛び跳ねた。
淡路島出身の阿久悠さんの著書「瀬戸内海少年野球団」の舞台設定は淡路島江坂町(仮定)で西海岸の五色浜を含むこの地域であったようだ。
鉄道沿線は両端の洲本と福良以外は見るべき名所もなかったが、島の電車の淡路風情は観光名所でも何でもない島の日常生活に溢れているのに気付いたのはつい最近のことであった。

五色浜の海岸 1965年8月
天然記念物五色浜の海辺は目もあざやかな五彩の玉石に埋められ、真に自然界の驚異である。ここは慶野松原とともに周遊指定地である(淡路交通のパンフレットより)

電車の終点福良からうず潮見物へ向かう

鳴門のうず潮
福良に近い「市」にあった淡路人形座

埃まみれの沿線を行く島の電車
洲本港から福良港へ観光客を運ぶ島の電車

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