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淡路交通 昭和40年の洲本2

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地図にある番号順に更に進んでみます。

8月2日の盆踊りの音が流れる淡路島まつりの夜は洲本駅近くの大衆旅館に泊まり、クマゼミが鳴く騒々しい3日早朝を迎えた。昨日同様に陽はガンガン照りで余りの暑さにランニング一枚になって洲本の宿を出発した。こういう場合、Tシャツ1枚になってが当たり前だがTシャツが出始めたのは1970年代からで、この頃はまだ出回って無かった。よそ者がランニング一枚で外を歩くなどは恥ずかしいことであったが、こんな姿で昨日目をつけておいた撮影ポイントへと向った。

➑洲本を発車し紡績工場の脇をカーブする. 1965.08.03

❾洲本川の橋の手前にある寺町に洲本行が到着、通勤客だろうか.

朝の順光側で遠く先山を望む洲本川鉄橋

❾洲本川をノソノソ渡ると宇山へ着く.変電所の建屋が見える.
朝日を浴びて洲本川の橋を渡る高校生を大勢見かけたが、夏休みで朝の部活だろうか.

➐が前夜の大衆旅館の位置で、これぞ貴重な洲本の体験で観光バスや観光ホテルの利用では絶対に分からない。


良い季節になってきました

遠州鉄道二俣線 真っ赤な気動車のその後

先日、遠州鉄道二俣線の元国鉄41000形真っ赤な気動車の話題が出たところで、その内の1両がさいたま鉄道博物館にやって来るまでの数奇な経歴を写真でたどってみました。


遠州鉄道にいた3両の赤い気動車のその後

・国鉄キハ41305→遠鉄二俣線キハ801→1967年 北陸鉄道能登線キハ5212→筑波鉄道キハ462(1981年廃車)

★国鉄キハ41307遠鉄二俣線キハ802→1967年 北陸鉄道能登線キハ5211→筑波鉄道キハ461(1985年廃車)→さくら交通公園保存→2007年鉄道博物館 国鉄キハ41307に復元

・国鉄キハ41300→遠鉄二俣線キハ803→1967年 北陸鉄道能登線キハ5213


遠州鉄道の真っ赤な気動車キハ801 1964.03.25
キハ802と同形のキハ801と803.

遠州鉄道で初めて見た真っ赤な気動車キハ803 遠鉄浜松 1963.04.04

 国鉄二俣線へ乗入れていた遠州鉄道キハ803 西鹿島 1964.03.25

 北陸鉄道能登線キハ5201(元国鉄41000形)  1962.08.02
この写真の5年後に遠州鉄道の気動車キハ802、801が入線し、その時もこんな風景を走っていたのでしょう.

筑波鉄道で元遠鉄キハがまだ活躍していた頃  1978.11.05
元遠鉄の真っ赤な気動車2両は北陸鉄道を経て筑波鉄道へ入線した.

廃線間近の筑波鉄道キハ461(1985年廃車)  1987.03.14
元遠鉄のキハ802は北陸鉄道を経て筑波キハ461となり今は鉄道博物館に保存.

さいたま鉄道博物館のキハ41307  2007.10.14
国鉄キハ41307は遠州鉄道、北陸鉄道、筑波鉄道を経て元の国鉄キハ41307に復元された。
これを見学した時に遠鉄の真っ赤な気動車の数奇な経歴を知っていれば感無量であっただろう。改めてさいたまへ見学に行ってみたい。


参考 「消えた轍」ローカル私鉄廃線跡探訪3 寺田裕一著 ネコ・パブリッシング発行

栃尾線のカルダンドライブ車

鳥羽の神鋼電機で開発された垂直カルダンドライブが越後の軽便 越後交通栃尾線に採用されたことは前回紹介した通りです。

昭和32~41年にかけて東洋工機で新造されたモハ211~217の6両は軽便サイズながら近代的スタイルが魅力で、特にブドウ色からツートンカラー(西武カラー)になった総括制御編成の時代が華だったでしょう。しかしその直後に廃線を迎え解体全滅してしまい誠に不運な電車でした。

この東洋工機製新造6両の中に4両の垂直カルダン車が含まれていたのは下記の通りです。

モハ212 昭和32年 東洋工機製 垂直カルダン 電動機1ヶ/1台車 廃線まで活躍
モハ213 昭和36年 東洋工機製 垂直カルダン 電動機1ヶ/1台車 昭和48年廃車
モハ214 昭和36年 東洋工機製 垂直カルダン 電動機1ヶ/1台車 昭和48年廃車
モハ215 昭和39年 東洋工機製 垂直カルダン 電動機1ヶ/1台車 廃線まで活躍

モハ216 昭和39年 東洋工機製 吊り掛け式  電動機2ヶ/1台車 廃線まで活躍
モハ217 昭和41年 東洋工機製 吊り掛け式  電動機2ヶ/1台車 廃線まで活躍

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ちなみに大きさを比較してみるとモハ215はこんなに可愛い.

旧型客車牽引時代の垂直カルダンドライブ車 モハ213. 1964.03.22
1973年に廃車

旧型客車牽引時代の垂直カルダンドライブ車 モハ214. 964.03.22
1973年に廃車


廃線間近のモハ205+モハ212+モハ215の編成. 1975.03.08
垂直カルダンドライブは212と215だが215は電装解除?された.

4両の垂直カルダン車で唯一残ったモハ212. 1975.03.08

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廃線間近のモハ205+モハ212+モハ215の編成. 1975.03.08
モハ215はパンタが撤去されクハ化?

こちらは吊り掛け式モハ217の1M3T編成. 1975.03.08

末期は吊り掛け式モハ216と217の2編成が主役だった. 1975.03.08

栃尾線に入線した東洋工機製新造車で垂直カルダンドライブ装置が1975(昭50)年の廃線まで活躍したのは最古参のモハ212の1両のみであった。

この垂直カルダンドライブがメンテナンス面でいかに手こずったかは下図の構造を見ると想像できる。カルダンドライブのバネ下荷重低減のメリットよりもメンテナンス上のデメリットばかりだったのでしょう。
幅狭の軽便台車に平行カルダンでは収まらないモータを縦置きにして無理やり垂直カルダンとしたようで、なぜカルダンドライブに拘ったのか?  軽便の速度であればシンプルに吊り掛け式で十分であったのでは。

まだギヤ精度も十分でなかった時代に、パワートレインにこれだけギヤを配置すれば、ギヤ騒音(唸り音)もかなりあったのでは? 神鋼電機がチャレンジした垂直カルダンの実用化は次々と消えて行き1975年の栃尾を最後に途絶えてしまった。

図は三重交通志摩線 5401号のもの

この解説図は同志社大学鉄研OB会「デジタル青信号」に掲載されたもので、投稿者の沖中様に借用許可をいただきました。図の提供は堀幸夫様で原本は神鋼電機のパンフレットだそうです。


参考 「消えた轍」ローカル私鉄廃線跡探訪3 寺田裕一著 ネコ・パブリッシング発行

西武新宿線 上石神井駅

西武新宿線の立体化で消えゆく上石神井の地上駅、そして立体化された池袋線石神井公園の高架駅、対照的な二つの駅をたまたま通ったので駅風景の一端を比較してみました。

池袋線石神井公園駅がなんと立派で巨大な駅になったことか。
もし自分が使っている駅がこうなったら寂しいものです。
時代の流れとは言え、便利と引き換えにそれまでの心地よさは失われるでしょう。

間もなく武蔵関~東伏見間の石神井川沿いの桜が満開になります。
新宿線の立体化でこの桜名所も一体どういうことになるのでしょうか。


昔ながらの新宿線上石神井の地上駅  2015.03.26

街と駅が一体化した地上駅

商店街の先に電車と駅が見えるいつも撮る風景

池袋線石神井公園駅の立体化

これが西武標準モデルなんでしょうか? 立派になった石神井公園駅

遠州鉄道二俣線 真っ赤な気動車(続)

遠鉄二俣線のキハ801と803の写真は既にブログで紹介済みで、キハ802の写真を探してみたのですが見つかりませんでした。
そこで気動車が活躍していた当時の西ヶ崎車庫その他の画像、そして青蛙さんが撮った真っ赤な気動車の貴重なカラー写真を拝借しアップしてみました。


遠鉄二俣線キハ803 西鹿島 1964.03.25  撮影:青蛙さん
左手向こうに見えるホームが国鉄二俣線でしょう.

 モハ2とキハ801 西ヶ崎車庫 1964.03.25

モハ2
まだ珍しかった女性車掌 西ヶ崎駅

 モハ32

 モワ201
モワ202

遠州鉄道の二俣線と奥山線が接近する遠鉄浜松駅

遠鉄奥山線 遠鉄浜松

西武新宿線 桜のシーズン

西武新宿線で立体化が進められる中井~東伏見間で桜名所といえば石神井川沿いと中野通りの踏切。いずれは消える新宿線と桜の風景を今年もまた撮ってみました。

石神井川沿いは毎年毎年飽きずに撮っていますが、いろいろ撮っても結局はこのありきたりの場所に落ち着いてしまう。

今日は満開、いずれ消えゆく石神井川沿いの新宿線風景.武蔵関 - 東伏見 2015.03.30
この電車が来ると顔が最悪、しかし好みが来るまで踏切で待ち続ける気力もなし.

そういえばスマイル電車が桜シーズンに試運転デビューしてから
早いもので7年が過ぎる.2008.04.04


楽しい地上駅 新井薬師前駅 2015.03.29

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中野通りの踏切. 沼袋 - 新井薬師前
中野通りは中野方面に向かう桜見物の人々が続く.

新井薬師梅照院の桜.
この日はあいにくの曇天であったが日曜日で賑わっていた.

下北沢駅の今

東京郊外の桜も今日が最後でしょう。
井の頭線に乗って下北沢駅の現状をちょっとだけ見てきました。

下北沢の地上駅が地下に切り替えてから早や2年、その後どんなになったことでしょうか。
地下2階の各停用ホームの工事が真っ盛りのようで地上駅の跡地は今も工事現場であった。
そして駅前の戦後のアーケード街は見るたびに取り壊されて行く。

富士見ヶ丘 - 高井戸 2015.04.02

高井戸駅を彩る神田川の桜

高井戸 - 浜田山

いかにも私鉄らしい井の頭線の島式ホーム 浜田山


下北沢駅のホーム脇あった踏切の跡はひっそりとしている.

井の頭線のガード下にあった下北沢駅ホームの跡地.

今も一部が営業している下北沢アーケード街

取り壊した空地に懐かしい店舗が1軒

何年も何年も時間かけた地下化の大工事が終わると下北沢の地上風景も大変貌することでしょう。


歌川模型店 (記事リニューアル)

吉祥寺ハモニカ横丁にあった歌川模型店を本ブログで紹介したのが2012年4月25日。
昭和の雰囲気を残しながら目まぐるしく変貌していくハモニカ横丁。
懐かしい歌川模型店があったハモニカ横丁のその後を追加しリニューアルしてみました。


歌川模型店の写真は店じまい直前の2005年3月であれから10年が過ぎた。
2012年にブログで紹介した時は、歌川模型店や民芸酒蔵「峠」がついこの間まで存在していた感じだったが今になると遠い昔のことに思えてくる。それだけハモニカ横丁が年々変貌しているせいだろう。全てを壊して新しくするのではなく、昔ながらでも活きの良い店は生き残り、新業態の店が次々新陳代謝していくハモニカ横丁。こんな混沌とした活気ある横丁が人々を惹き付けている。

懐かしさ満点の歌川模型店は懐かしさがウリだけでは生き残れなかったのでしょう。ハモニカ横丁を象徴するような店だったので残念です。

歌川模型店があったところは「塩トマトラーメン店」から「やきとん酒場」に.2015.04.02

歌川模型店があったところは「塩トマトラーメン店」に. 2012年11月

歌川模型店近辺の「みんみん餃子」や隣の店(果実の看板)は今も残る.  2005.03.03

昔ながらの歌川模型店.  2005.03.03
ショーウンドウには子供の頃に憧れた3線式0番模型などが並んでいた.


みんみん餃子の通りの今. 2015.04.02

民芸酒蔵があったところは新業態の今風の店に.2012年11月

この角に民芸酒蔵「峠」があった. 2005.03.03


10年前の入り口から見た通り全体. 2005.03.03
この奥に歌川模型や民芸酒蔵峠がまだあった時代

今夜のNHKブラタモリ「長崎」

今夜のNHKブラタモリ「長崎」で現在の長崎電軌石橋駅が出てきました。今は石橋駅と軌道が川の上にあるのですね。早速、ブログで長崎電気軌道を開き昭和42年に撮った長崎電軌 大浦支線で石橋駅と大浦石橋通りを確認したところ、この頃はまだ軌道や駅が道路の上にありました。その後道路上の路面電車を川の上に追い出したのでしょう。

昭和42年の大浦石橋通り

昭和42年の終点石橋駅

ガールズ&水浜電車

水浜線風景 ガルパンの聖地大洗 に東石川さん、コメントをありがとうございました。

リンク紹介があったガールズ&水浜電車のYouTubeをここに掲載させてもらいます。

ガールズパンサー戦車道と遠い昔の水浜線がなんと今こんな形で結ばれるとは !

水浜電車も注目されて幸せですね。

大貫停留場からスタートした茨城交通水浜線の全記事はこちら


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YouTube 電車道  それは夢のような話・・・で始まる

栃尾線 長岡駅構内配線図(訂正版)

昨年12月3日にアップしました昭和39年の長岡駅構内配線図は不明箇所の線路配置を推定で書いてその儘になっていました。その後、書籍やネット検索などでこの時代の証拠写真を探しつけ合わせて構内配線図を補正してみました。

特に不明であった奥の車庫(工場?)は、ここまで入って探索した人は殆どいなかったようで、線路配置の証拠写真となったものは数枚でした。車庫建屋をズバリ撮った写真は皆無で、車両の背景に写った建物の断片と線路形状から割り出し訂正した線路配置です。

昭和42年11月に車庫・車両工場が下長岡に移転するまで、このような車両工場で次から次と奇怪な車両が生まれて来たのが驚きです。まるで縮尺1/1の模型のような電車もあった。


訂正版 図をクリックすると原図の大きさになります.



前回の不明5箇所とその後判ったこと。

1. 国鉄側の貨物線の末端が不明
国鉄貨物線へ接近するこの1本の貨物線は途中で途切れるようだ。


2. ターンテーブル上の線路の末端が不明
このテーブル上線路の先は行き止まりになっている。


3. 元小坂古典客車がいた留置線の先が不明
この引き込み線は給水塔の脇を奥の車庫内につながっている。


4. 車庫の悠久山側の線路配置が不明
手前側扉の外へ出てくるのは1線のみ。


5. 遠くに電車が見える奥の車庫(工場?)の悠久山側が不明
奥の車庫の悠久山側は分岐した2線が庫内に入っている。
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奥の車庫(工場?)の悠久山側

ベタ焼写真から 最後の山梨交通

甲府駅前の南口にあった小さなターミナルビルから発車していた山梨交通鉄道線。
昭和37年3月に父が撮ってきてくれた山交甲府駅のネガが行方不明で、残されていたのは小さなベタ焼の数コマであった。ベタ焼きからスキャンした不鮮明な画像から山梨交通を偲んでみました。

この写真の3か月後、1962(昭和37)年6月いっぱいで山梨交通鉄道線は消滅した。
この鉄道の情緒あふれる情景と魅力的な訪問記がRMライブラリー5 花上嘉成著に収められています。

甲府駅 1962年3月
2階建てのビル「山梨交通電車のりば」の中に入ると薄暗く狭苦しい2面のホームがあった.
廃線直前だがけっこう乗客で賑わっている

1形モハ3号
昭和4年雨宮製の妻面の感じが京王電気軌道151形に似ている.

ここに写った1形2両は雨宮製のステップが下がったタイプで、山梨交通の電車といえばこの1形がイメージされる。一方7形は1形とはイメージ異なる高床式で上田丸子へ転籍しその後江ノ電で改造されたことでよく知られている.

甲府駅を出発すると直角に曲がり鶴舞公園沿いの道路を走る.
日中は着脱式ヘッドライトを外していた

警察署前までさびれた通りの併用軌道区間を走る.


以下は山梨交通廃線後の7形2両のその後

   信越線と並走する丸子線に入線直後の赤い7形の姿があった.1963.7.20

元山梨交通7形が休む上田丸子電鉄別所線の下之郷駅 1970.8.17

山梨交通廃線から8年、詩情あふれる下之郷駅と元山梨交通の電車

元山梨交通7形のモハ2342+2341. 下之郷
留置されていた電車の写真をよく見ると山梨交通からやってきた高床式電車2両であった。
昭和38年に入線し改造後丸子線で使われ、この留置の翌年に江ノ電に譲渡され連節車となった。
山梨交通時代の7形とはすっかりイメージが変わったモハ2341. 下之郷


参考図書: RMライブラリー5「山梨交通鉄道線回想録」花上嘉成著 ネコ・パブリッシング発行

昭和37年の富山駅前

北陸新幹線開業で注目度が高まる富山。

JTBのゴールデンウィーク国内宿泊予約の伸び率(前年比)で富山が第2位だそうです。

今、富山は宇奈月温泉地区が人気を集めているようですね。

すでにアップ済みの「昭和37年の旅 通りすがりの富山駅」より1枚

昭和37年の富山駅前を全画面表示してみました。

昭和37年の富山駅前 1962.08.03

全画面表示 (横1000pix)

本ブログのモノクロ画像は全てpicasa3でトーン調整しています。

玉電用賀の今昔

田園都市線の用賀で降り地上に出ると、一変した用賀の街並みがある。
かってここに玉電が走り、この先の渋谷寄りに用賀の駅があった。
現在の道路の形状から、ここにあった玉電の軌道と大山街道の遠い昔の風景が浮かび上がる。
1960年代の世田谷用賀、今の街並みからは想像できないほど長閑な風景であった。


用賀 2015年4月
坂を下ったところに用賀の駅があり、道路に軌道と大山街道との合流地点の面影を残している。

写真上はこの辺りで、駅を出て踏切を渡り木立の脇をカーブする 1965.7.27

桜新町を過ぎ専用軌道区間の坂を下ると用賀に到着する 1969.4.22


用賀 1965.7.27

用賀を発車1969.4.22
桜の下に見えるのが駅前にあった「梅の湯」のようだ


踏切を渡り木立の脇をカーブすると大山街道と合流する 1965.7.27

踏切はこのあたりで、木立の跡に用賀駅東口があるビルが建つ  2015年4月


そして子供たちの遊び場だった用賀駅引込線の風景 1969.4.22
今だったら危険を感じて電車は止まるでしょうね


福井鉄道の魅力

モハ72  水落 1964.10.04 撮影:故田辺多知夫氏

私が行くことができなかった地方私鉄1960年代の路線で、まずは福井鉄道の魅力を故田辺多知夫さんのアルバムからひも解いてみようと思います。

福井鉄道の魅力 小型車両

北陸の地方私鉄路線は複雑で私は北陸鉄道、京福電鉄の各線を回るだけで精いっぱい、福井鉄道まで回ることはできませんでした。私鉄めぐりの鉄仲間であった故田辺多知夫さんの写真をお借りして福井鉄道の魅力(車両)を紹介してみます。

昭和40年代初めころまでどこの路線でも地方私鉄の魅力は車両にあった。ところがそれまで生き延びてきた驚きの車両達は次々と消え車両の魅力を失っていった。

福井鉄道は後年まで本線福武線に昭和の電車の魅力を残していたが、支線である鯖浦線(1973年全廃)や南越線(1981年全廃)を走っていた強烈な個性の車両写真を見てしまうと、本線の車両(今ではなく昔)はどれも当たり前過ぎてインパクトのない車両に見えてしまう。


撮影日:1964.10.04 撮影:故田辺多知夫氏

福武線水落駅から鯖浦線の織田行が発車する モハ11

水落駅の先にある留置線に休む小型車モハ60形63(福井市内乗入れ仕様)と後ろのモハ72
隣の木造Wルーフはモハ12


 鯖浦電気鉄道発注車モハ70形72(鯖浦線専用車)
まるでマンガか模型に出てくるような元単車→ボギー化した驚きの小型車


鯖浦線発注車モハ50形51 南越線に移動後  社武生

鯖浦線発注車モハ40形41(福井市内乗入れ仕様) 西武生工場

モハ60形か?(福井市内乗入れ仕様)  西武生工場

木造ダブルルーフのモハ12  水落

福井鉄道の魅力 南越線の車両

国鉄武生駅の脇から出ていた福井鉄道南越線は本線福武線とは線路が接続してないため、本線との共用車両はなかったようで、個性豊かな車両が溢れていた。南越線始発駅「社武生」駅に出入りする車両を捉えたカットであるがこの路線の奥に行けば更に珍品電車がいたことだろう。

撮影日:1964.10.04 撮影:故田辺多知夫氏 社武生駅にて

トレーラを牽いて社武生に到着するモハ132


寄せ集め部品で作ったような最新型モハ132

モハ111の個性溢れる姿は正に田舎電車

社武生駅風景 モハ111

モハ51+モハ102(元京浜急行)1964年廃車
電装解除されて小さなモハ51に牽かれていたのだろうか

 国鉄武生駅を背景にしたデワ1
 デキ11になって現存するが、それとは全くイメージが違っていた頃のデワ1

モハに牽かれていた木造客車ハ2

秋田市電 本州最北端の路面電車

1965(昭和40)年12月31日で休止した秋田市電。
休止直前の1965年夏に田辺氏は北海道私鉄・国鉄めぐりの帰路に秋田に寄っていた。
私が五城目の秋田中央交通軌道線を訪問した1966年3月は既に秋田市電は走っていなかった。
あまり話題にならなかった地味な存在であったが、都電6000と同系の平凡な60形4両や200形2両の存在に関心が薄れたせいかも知れない。

撮影:1965.07.30 故田辺多知夫氏

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 秋田駅前の30形34

利用客の7割は通学通勤者だったそうだ 200形と60形

 街にポール電車とボンネットバスが走っていた時代

昭和40年夏 秋田市内風景

秋田市電 交通局車庫にいた車両

交通局車庫で撮った写真を見るとこれは凄い!  廃線間際にまだこんな車両が存在していた。

元都電杉並線や元王子電軌の払下げ車体を受け組み立てた電車、さらに元旭川市街軌道の単車など貴重な車両ばかり、どれもポールを挙げていることからラッシュ時はこんな古典車が活躍していたのだろう。秋田市電といえば平凡な60形や200形をイメージしてしまうが、最後までこんな魅力的な古典車が存在していたトロリーラインなのであった。

撮影: 1965.07.30 故田辺多知夫氏

 30形(31・32) 交通局車庫
S28年に都電杉並線2000形車体(鋼体化)を譲受し組み立てた

鋼体化後だがダブルルーフ木造車時代のイメージを残している

20型(20~26) S23年に旭川市街軌道から4両を譲受

30型(33~35) S28年に都電150型(元王子電軌)の車体を譲受し組み立てた

 元王子電軌の整った外観の電車が秋田の街並みを行く

参考: 鉄道ピクトリアル 臨時増刊私鉄車両めぐり(第3分冊) 鉄道図書刊行会
昭和の路面電車(関東・甲信越編) 生方良雄著 講談社
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