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真夏の福島交通軌道線
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真夏の福島交通軌道線 2
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真夏の福島交通軌道線 3
福島駅前を出て長岡分岐点の手前で電車は摺上川に架る木橋「さいわい橋」を渡る。
田辺さんが撮った「さいわい橋」をさらに続けてみましょう。
写真に写った1964年の木橋は痛みが激しく並走する道路は通行止の柵がしてあった。
こんなすごい木橋を電車はよく渡ったものだ。
1966年12月大晦日に訪問したときはこんな木橋も改修されていた。
写真に写った1964年の木橋は痛みが激しく並走する道路は通行止の柵がしてあった。
こんなすごい木橋を電車はよく渡ったものだ。
1966年12月大晦日に訪問したときはこんな木橋も改修されていた。
撮影: 田辺多知夫氏
さいわい橋 1964.07.27
かなり傷んだ恐ろしい木橋
福島からやってきた電車は「さいわい橋」を渡ると長岡分岐点へ向かう 1964.07.27
木橋改修の直後 1966.12.31
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仙北鉄道
廃線迫る昭和41年の元気な仙北鉄道。
佐沼駅で私たちと別れた田辺さんがその後撮ったのはこんな風景だった。
小さな西郷駅の周辺は一面の田んぼ。
初春の日差しの中を仙北鉄道の気動車が飛ばす。
よく手入れされた立派な軌道だ。
仙北鉄道 廃線前の活気
佐沼駅で私たちと別れた田辺さんがその後撮ったのはこんな風景だった。
小さな西郷駅の周辺は一面の田んぼ。
初春の日差しの中を仙北鉄道の気動車が飛ばす。
よく手入れされた立派な軌道だ。
仙北鉄道 廃線前の活気
撮影: 田辺多知夫氏
この日卒業式だったのでしょうか. 1966.03.01 西郷
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日の丸自動車・法勝寺電鉄 米子駅
1967年5月に消えた素晴らしき田舎電車、日の丸自動車・法勝寺電鉄。
1962年夏に訪問した時の米子駅風景が「米子の古典木造電車」でした。
その1年後、同じ場所を撮影した田辺さんの写真を加えその後の車両の変化などを比較してみました。前回の記事より
1962年の夏、国鉄時刻表に表示された「日の丸自動車・法勝寺電鉄」を頼りに山陰本線米子駅に降りる。米子駅の地下道をくぐり反対側に出ると、「日の丸自動車㈱電車部米子市駅」の看板を掲げた駅があり、木造2軸客車を牽いたダブルルーフの木造電車が乗客を待っていた。
荷物をベンチに放り投げ、懸命に撮ったのがこの朝の米子市駅の光景。大正時代の車両がゴロゴロしている光景に、前夜広島から夜行でやって来た朝の眠気も吹っ飛んだひと時であった。
眩しい朝の米子駅風景 1962.07.31
朝日を浴びた木造電車デハ203 (元池上電鉄 日車大正11年製)
明るいブルーと白に近いクリームのそれはそれは素晴らしいツートンカラーであった.
車庫で改装中のデハ205 (元名古屋鉄道103 日車大正11年製) 1962.07.31
細身のデハ203に比べ車幅が広く大柄に見える
以下は全て1年後の米子駅風景 撮影:田辺多知夫氏 1963.07.15
細身のデハ203に比べ車幅が広く大柄に見える
以下は全て1年後の米子駅風景 撮影:田辺多知夫氏 1963.07.15
あの時車庫で改装中だったデハ205はその後鋼体化されこんな姿になっていた。のっぺらした顔になり、派手なカラーリングに変更されたようで203に比べ益々デカ顔に見える。その後さらに不細工になってしまったが最後まで主力で活躍したようだ。
素晴らしいデハ203はカラーリングを変更し廃線までこの姿でいたようだ.
デハ207(元目蒲電鉄 汽車会社大正12年製)
ラッシュ時に使われたのか古典客車フ55、フ52、フ53、フ51が並ぶ米子駅
蒸機列車(C57)が活躍していた山陰本線米子駅. 1963.07.15
浜田機関区に集結したC54が全機全廃の最後を迎えていた1963年.
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豊橋鉄道 渥美線の車両3
以前「渥美線の車両1~2」を紹介をしたことがありますが、引き続き「渥美線の車両3」で電機やその他の車両を紹介します。渥美線で初めてオリンパスペンSを使い始め、ここに登場する脇役達の殆どはオリンパスペンのハーフサイズフィルムで撮ったものです。
何の変哲もない渥美線だが昭和38年に訪問した時は魅力あふれる車両がまだ活躍していた。元ガソリンカーの制御客車化がごろごろしていて木造電車もまだ走っていた。そして電機もいろんなタイプがいて木造車体の電機までいた。愉快な車両達はこの後一気に淘汰されてしまったのでしょう。
全て1963.04.04 高師にて
元三河鉄道のキハ150で制御車に改装された魅力溢れるク2280形
モ120形(120) この4年前はこんな車体にパンタを載せた2軸電車の姿があった.
走っている姿を想像するだけで楽しくなってくる.
何の変哲もない渥美線だが昭和38年に訪問した時は魅力あふれる車両がまだ活躍していた。元ガソリンカーの制御客車化がごろごろしていて木造電車もまだ走っていた。そして電機もいろんなタイプがいて木造車体の電機までいた。愉快な車両達はこの後一気に淘汰されてしまったのでしょう。
全て1963.04.04 高師にて
朝の高師駅. 元神中鉄道ガソリンカーを改装したク1500形など凄いのが走っていた.
通勤時間帯に次々やってくる電車のバリエーションが豊富なこと.
通勤時間帯に次々やってくる電車のバリエーションが豊富なこと.
高師車庫の全景. 今では周辺もすっかり変貌していることでしょう.
渥美電鉄より引き継がれたデキ151 木南車両製の南海タイプ
デキ1001 西武所沢工場製
デワ31 どこの地方私鉄でもこんな電動貨車をよく見掛けた.
元ガソリンカー ク2280形車内 当時の車内広告が興味深い
通勤時間帯に活躍していたク2280形(2281)
元ガソリンカーがすっかり電車に馴染んでいる.
木造車と組んだク2280形(2283)
名鉄谷汲線からやってきたモ120形(129)の車体
走っている姿を想像するだけで楽しくなってくる.
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豊橋市内線 単車王国
昭和38年の豊橋市内線の写真を改めて見ると単車ばかりで、ボギー車は三重の神都線からやってきた600形の3両が唯一であった。主力は名古屋市電から大量に入線した500形単車であったが、それ以外にも200、400形の単車が活躍していた。
戦災復興の都市計画でできた堂々たる広さの道路を小さな路面電車が走り、クルマはまだ少なく道路がとても殺風景に見えたものだった。今や各地で路面電車が見直されているが、豊橋市は戦後すぐに路面電車を活かした街づくりがされていた。
全て1963.04.04
駅前から直進し新川の交差点を左に曲がる主力500形の単車.元名古屋市電
唯一のボギー車であった600形.新川
2年前(S36年)に廃線となった三重交通神都線からやってきた.
2年前(S36年)に廃線となった三重交通神都線からやってきた.
昭和51年に廃止された柳生橋支線(新川~柳生橋)を500形が広大な道路を行く.
豊橋駅前へ向かう500形.第三相互銀行のビルは今も第三銀行として残っている.
400形(402) 下一之色電車軌道→名古屋市電→豊橋鉄道
うす暗い早朝の豊橋駅前で赤岩口方面のりばの400形(402)
400形(403)豊橋駅前
200形(201)
500形 豊橋駅前から更に市民病院前まで線路があった.
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日光軌道線 1枚の写真から
2013年7月にアップしました山岳路面電車5にあった1枚の写真↓(上)についてkakさんからコメントを戴きました。この廃線跡は下河原駅から公会堂駅へ向かっていた旧線の跡ではないかと。
確かに左手の川の土手、軌道線のカーブ、背後の山並み、遠くに見える木立や大きな三角屋根の建屋などが写真↓(下)下河原の風景と似ているところがいろいろあります。ここは下河原にあった旧線の跡かもしれません、そうだとすると2枚の写真を見比べ4年半であまりにも変わった風景に驚かされます。
確かに左手の川の土手、軌道線のカーブ、背後の山並み、遠くに見える木立や大きな三角屋根の建屋などが写真↓(下)下河原の風景と似ているところがいろいろあります。ここは下河原にあった旧線の跡かもしれません、そうだとすると2枚の写真を見比べ4年半であまりにも変わった風景に驚かされます。
工場が遠くに見える廃線跡のレール 1963.7.14 撮影:青蛙氏
廃線間近の下河原駅 1967.12.21 撮影:故田辺氏
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日光軌道線 山岳電機
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日光軌道線 1枚の写真から
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日光軌道線 山岳電機 町中を行く
日光軌道線の貨物輸送は国鉄日光駅から国鉄貨車をそのまま清滝にある古河電工まで運び、日光駅での積み替えなしで輸送されていた。昭和22年に山岳電機ED600形(元国鉄アプトED40形)2両が導入されたが、元アプト式のため運転台が片方しかなく貨車の最後部に連結してプッシュ登坂し、帰りは機関車の背中側を先頭に坂を降りてくる。こんな異様な光景はさぞや見ごたえがあったことだろう。
昭和30年に新鋭の山岳電機ED611が導入され、登り下りとも機関車が先頭について牽引するまともな列車編成となり貨物輸送の効率化が図られた。
日光軌道線は馬返までの9.6Kmは平均32‰、最大60‰と勾配につぐ勾配で、東武日光駅を出るとすぐに神橋まで最大で58‰の急勾配を登る。電車も凄いが、新旧の山岳電機もよくこんな急勾配の併用軌道を登坂したものである。路面電車のきついカーブ(改修はしてあるが)や軌道(レール)のねじれなどで脱輪など起きなかったのだろうか。
昭和30年に新鋭の山岳電機ED611が導入され、登り下りとも機関車が先頭について牽引するまともな列車編成となり貨物輸送の効率化が図られた。
日光軌道線は馬返までの9.6Kmは平均32‰、最大60‰と勾配につぐ勾配で、東武日光駅を出るとすぐに神橋まで最大で58‰の急勾配を登る。電車も凄いが、新旧の山岳電機もよくこんな急勾配の併用軌道を登坂したものである。路面電車のきついカーブ(改修はしてあるが)や軌道(レール)のねじれなどで脱輪など起きなかったのだろうか。
1967.12.21 撮影:田辺氏
町中を走るED611貨物列車、東武日光駅前を出るといきなり最大で58‰の急勾配を登る
警察署前で交換
写真をよく見るとこの大通りがいかに急坂であったかが分かる.
この区間の勾配は最大で58‰
参考:鉄道ピクトリアル増刊 「私鉄車両めぐり第3分冊」1962年
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日光軌道線 国鉄駅前のループ線
1964(昭和39)年に廃止された国鉄日光駅前のループ線。軌道線ならではの急カーブで駅前に敷き回されたループ線は軽便鉄道の線路のような楽しさがあり気になるところ。青蛙、田辺両氏が撮った写真とループ線図とをつけ合わせてみました。
東京オリンピックが開催された昭和39年、観光都市日光の表玄関に古びた路面電車がたむろしていたのではみっともないが廃止理由の一つだったようです。今だったら日光にふさわしい光景になるのですが。
東武日光駅前の軌道線「のりば」の方はどこから乗っていたのか時代とともに変化したようです。
そして超急カーブの軌道線に国鉄貨車が入ってくる貨物線をうまく配置させたものですね。
国鉄日光駅前のループ線. ①~⑦はおおよその撮影位置を示す
撮影 A 青蛙氏 T 田辺氏
① 1963年7月 A
東武日光の駅の脇に軌道線ホームがあり貨物線につながる.右手軌道がループ線につながる.
② 1967年12月 T
東武日光駅脇の軌道線のりば
③ 1963年7月 A
日光業務部建屋の先にある留置線(旧車庫).背後に歓迎日光のアーチが見える.
④ 1968年2月 A
東武日光駅の先を国鉄日光駅に延びる貨物線(左手)とループ線(右手)
➄ 1963年7月 A
国鉄日光駅前.写真の感じと違って軌道と駅舎の間にはかなりスペースがある.
⑥ 1964年7月 T
国鉄日光駅前.歓迎日光市のアーチがある道路を直進すると東武日光駅に出る.
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北陸本線の電気式ディーゼル機関車 海坊主
昭和30年代後半の私鉄めぐりの旅では、さんざん利用した国鉄車両を私は殆ど撮らなかった。
蒸機に代わるDF50などは嫌われ者で特に撮らなかった。
ところが今になってみると一時代の箱型電気式ディーゼル機関車はDF50でさえ魅力を感じてしまう。ところで6両製造されたDD50はこの頃北陸本線の峠越えで見ることができた。これはDF50よりずっと魅力的で、特にこの海坊主は昔の鉄道誌でも強く印象に残っている。
今回も故田辺多知夫さん撮影の写真をアップしてみます。
今回も故田辺多知夫さん撮影の写真をアップしてみます。
撮影:田辺多知夫氏
DD50・3 1次型の海坊主 金沢 1963.07.12
DD50はこの海坊主の外観が強く印象に残る.
DD50・6 2次型 金沢 1963.07.12
1次型とはかなり外観イメージが異なり重厚感がなくなってしまった.
DD50・3 海坊主 倶利伽羅峠越え 1963.07.12
DF50 541 富山 1963.07.12
DF50 510 石動 1963.07.12
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日光軌道線 トロリーフレイト
先日、日光軌道線は一旦終了のつもりでしたが、その後青蛙さんから貴重な画像の追加提供があり、貨物輸送で活躍した車両の紹介(画像)をしてみます。鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり第3分冊」に日光軌道線のトロリーフレイトや貨物輸送の詳細が書かれています。
小林茂氏が書かれたこの記事によると、本格電機+国鉄貨車の直通車扱いに対し、貨物積換え中継の貨物輸送をやったL形電動貨車+付随貨車のことをトロリーフレイトと言っている。
日光軌道線の貨物は清滝の日光精銅所の貨物輸送であり、昭和19年の国鉄貨車直通乗入まではトロリーフレイトが主力であった。
L型単端式の電動貨車は大正8年製テト30形30~39と昭和18年増備のテト40形40~48があり、いずれもL形電動貨車+付随貨車の組合わせで、これがカーブ緩和工事前の軌道線急カーブを走っていたのでしょう。
戦後は国鉄日光駅構内にある古河の倉庫、貯炭場、油槽と工場間の小輸送に仕業し、日光駅ではループで、清滝では三角線で方向転換している。最近は自動車輸送に切り替えて、貨物輸送は直通扱貨物だけに限られ、積換中継のトロリーフレイトは残念ながら廃止され、テト40の1組を残して全車廃止となってしまった。
という記載があり、記事が書かれたのが昭和37年、この少し前昭和30年頃まではトロリーフレイトも走っていたと想像される。
小さなL形電動貨車+付随貨車(ボギー)1両が日光駅前ループ線や神橋の急カーブを走っている光景を想像すると実に楽しくなってくる。
1963.07.14 撮影:全て青蛙さん
トロリーフレイトの主力だったテト40形L形電動貨車. 清滝電車区
テト40 1両だけが事業用に残されていた.
テト40 1両だけが事業用に残されていた.
古河電工精銅所には工場内搬送用に2両のL電がいたのでその2両でしょう。1963.07.14
よく見るとこの場所は国鉄日光駅。 役目を終えたこの2両はそれまでここで作業していたのか?
古河鉱業(1989年に古河機械金属に社名変更)、古河電気工業(1920年に古河鉱業を母体に設立)
貨車を電装化しただけの感じ.背後の築堤は東武本線
以下は本格電機
昭和30年まで活躍したED602.ロッド駆動のサイドビューが魅力的. 清滝電車区
片側に運転台無しはこの電機のゲテモノぶりのハイライト.
後進で日光駅に戻る時はこのステップに案内人が乗って下ってくる.
運転台側も異様な顔をしている.
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日光軌道線 登りつめたところが馬返駅(続)
前回の「登りつめたところが馬返駅」の続編を。
今、クルマでふらっと日光へ遊びに行ったところでお決まりのお立ち台でお決まりの景色を眺め、お決まりの人だらけの休憩所で昼を食べ、疲れるだけで何も感動はないでしょう(目的あって下調べして行く旅は別として)。
東京から東武ロマンスカーに乗り日光駅前で路面電車に乗換え、途中下車して徒歩で観光しながら終点馬返でケーブルカーに乗り換え中禅寺湖へ向かう。もしもこんな昔の日光の旅ができたら交通手段そのものも楽しみにになることでしょう。そうなれば、朝思い立ってカメラ一つ持って新宿へ行き東武ロマンスカーにふらっと乗って日光へ向う、私はこんな日光の旅がしてみたい。
コメント欄に皆さんから昔の日光の思い出をいろいろありがとうございました。
撮影:田辺多知夫氏 1967.12.21
今、クルマでふらっと日光へ遊びに行ったところでお決まりのお立ち台でお決まりの景色を眺め、お決まりの人だらけの休憩所で昼を食べ、疲れるだけで何も感動はないでしょう(目的あって下調べして行く旅は別として)。
東京から東武ロマンスカーに乗り日光駅前で路面電車に乗換え、途中下車して徒歩で観光しながら終点馬返でケーブルカーに乗り換え中禅寺湖へ向かう。もしもこんな昔の日光の旅ができたら交通手段そのものも楽しみにになることでしょう。そうなれば、朝思い立ってカメラ一つ持って新宿へ行き東武ロマンスカーにふらっと乗って日光へ向う、私はこんな日光の旅がしてみたい。
コメント欄に皆さんから昔の日光の思い出をいろいろありがとうございました。
撮影:田辺多知夫氏 1967.12.21
日光駅前から高低差305mを登って馬返駅に到着しケーブルカーに乗り換える.
乗客の姿が見えず、この頃すでにバス輸送の時代だったのでしょうか.
中禅寺湖へ向かう乗客はここでケーブルカーに乗換え明智平に登り更にバスに乗換えていた。この後の第二いろは坂の完成(昭和40年)とマイカーブーム到来で、日光軌道線とケーブルカーの連携輸送は役目を終え、馬返-明智平ケーブルカーは軌道線廃止2年後の1970(昭45)年に廃止された。
この辺りは花巻電鉄軌道線のイメージがする泥軌道.
山岳路面電車の沿線には様々な表情があった.
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尾花沢線 仙境のいで湯♨銀山温泉行のりば (リニューアル)
山形交通尾花沢線は過去に記事3本アップしましたが、第1回目がブログスタートの直後であれから早や5年、今ではGoogleブログBlogger の環境も大きく変わりました。当時のケチケチサイズの画像も大型化し再編集してリニューアルいたします。
跨線橋から見た看板と尾花沢線のりば 1964.08.05
昭和39年の夏、ガンガン照りの太陽の下、奥羽本線大石田駅に降り立つと国鉄駅の端に歓迎 仙境のいで湯♨ 銀山温泉 の看板が見えそこに山形交通 尾花沢線のりばがあり、見たことないような愉快な列車がやってきた。
構内入替機のような小さな機関車がガソリンカー崩れのボギー客車1両と有蓋貨車1両を従えた素晴らしい混合列車であった。こんな愉快な混合列車がこれから花笠踊りで賑わう夏の尾花沢へ、そしてバス乗り継ぎで銀山温泉へお客を運んでいた。1960年代はこんな貴重な光景を見る事ができた時代であった。1970(昭和45)年9月廃止。
今の銀山温泉そして尾花沢については「夢遊仙人」さんのHP日本の街歩きに
「銀山温泉と尾花沢」の見事な旅日記があります。
DB151 小さな機関車の運転室内は蒸し風呂だったでしょう.
小さなDBとは言え軽便に比べると3'6''ゲージで車幅がでかい.
尾花沢から戻ってきた混合列車は牛車のごとくのろかった. 大石田
客車のカラーリングはピンクとマルーンの塗り分け(山形交通カラー)
客車のカラーリングはピンクとマルーンの塗り分け(山形交通カラー)
尾花沢市街
あの夏の日の出来事を旅日記を読み返してみると、新庄で乗った準急が大石田に到着すると尾花沢線のホームに列車は居ず30分以上も待たされたから始まっていた。
ホームにいた客は我々以外は1人だけ、この尾花沢へ向かう客と話をしていたら東京の水不足に驚いていた。やがてやってきた列車は定刻よりだいぶ遅れて発車したが、昨日乗った仙北鉄道に比べるとおそろしくのろくて、軽便よりのろい列車だった。沿線はほとんどが田んぼで尾花沢の近くになると木立が現れ少しは変化のある風景になってきた。車内のシートはほぼ満員で我々より後の国鉄列車で大石田に着いた乗換客であろう。あっという間に到着してしまう尾花沢は家が多くやはり大きな町で奥羽本線大石田は町外れであったことが良くわかる。
ホームにいた客は我々以外は1人だけ、この尾花沢へ向かう客と話をしていたら東京の水不足に驚いていた。やがてやってきた列車は定刻よりだいぶ遅れて発車したが、昨日乗った仙北鉄道に比べるとおそろしくのろくて、軽便よりのろい列車だった。沿線はほとんどが田んぼで尾花沢の近くになると木立が現れ少しは変化のある風景になってきた。車内のシートはほぼ満員で我々より後の国鉄列車で大石田に着いた乗換客であろう。あっという間に到着してしまう尾花沢は家が多くやはり大きな町で奥羽本線大石田は町外れであったことが良くわかる。
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尾花沢線 花笠音頭の尾花沢 (リニューアル)
DB151に牽かれて大石田へ向かう列車. 尾花沢市外 1964.08.05
西部に出羽山脈が連なる尾花沢盆地を大石田と尾花沢を結ぶ。全線2.6Kmをゆったりと走り尾花沢に8分ほどで到着する。ポプラと駅舎と列車、風情ある尾花沢駅の佇まい.
空に浮かぶ白い雲、夏の日照り、セミの鳴き声、列車が発車すると構内は静まり返る。構内にいた車両は数両で撮影もあっという間に終わってしまい、列車で引き返そうとしたが本数なくバスで大石田に戻った。尾花沢には沢山のバスがいて大石田までバスが並走する小鉄道がその後6年もよくぞ存続できたものである。
この時代はどこへ行っても夏の炎天下での撮影がたいして苦にならなかったのは今の異常な夏と違ってまだ優しい日照りの時代だったのでしょう。ネガに写った陰影が柔らかなような気がする。
この時代はどこへ行っても夏の炎天下での撮影がたいして苦にならなかったのは今の異常な夏と違ってまだ優しい日照りの時代だったのでしょう。ネガに写った陰影が柔らかなような気がする。
立派な駅舎を駅前に出るとキャブオーバ式バスが待っている.
花笠音頭で有名な尾花沢の玄関口がこの尾花沢駅であった。駅前にはバスターミナルがありここから各方面にバス網が発達していた。今もバスの拠点はここにあるようで駅舎は地元スーパーになったようだ。もう東京では見られなくなったキャブオーバ式バスがたくさんいて、銀山温泉に向かうにはここでバスに乗り換える。8月のお盆シーズンであったが「花笠おどり」の開催はもう少し先のようであった。
楽しい夏休み真っ盛りの子供たち (駅の部分拡大)
尾花沢玄関口の賑わい。
給水タンクと給炭設備が残っていた一角.
蒸機は日車製Cタンク機が昭和34年まで在籍していた。
蒸機は日車製Cタンク機が昭和34年まで在籍していた。
日車製Cタンク機が元飯山鉄道1~3と同形機だったとなると、日本ニッケル3号機(元飯山)と兄弟であり、こんなCタンク機が尾花沢線の風景を走っていたことになる。
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遠州鉄道二俣線 真っ赤な気動車(続2)
国鉄キハ41307 大宮の鉄道博物館 2015年7月
遠州鉄道二俣線にいた「真っ赤な気動車」3両の内の1両キハ802が鉄道博物館に展示保存されるまでの数奇な運命は「真っ赤な気動車のその後」 で紹介した通りです。再度その経緯と鉄道博物館の今を写真で追ってみました。
国鉄キハ41307→遠鉄二俣線キハ802→1967年 北陸鉄道能登線キハ5211→筑波鉄道キハ461(1985年廃車)→さくら交通公園保存→2007年鉄道博物館 国鉄キハ41307に復元
北陸鉄道能登線へ転出後のキハ5211 羽咋 1972.03.04
国鉄七尾線羽咋駅の左端に能登線ホームがありキハが発車を待っている.
筑波鉄道で最後を迎えたキハ461 1987.03.14
(筑波鉄道1987年4月廃線)
今、鉄道博物館に展示されているキハ41307はごくありふれた国鉄04形気動車だが、車内に座って国鉄払下げ後ここへ来るまでの歴史・・・電化線を走った遠鉄時代、能登の荒海沿いを走った時代、春の筑波山麓を走った時代・・・などを思い浮かべてみると車内を見る目も変わってくる。
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秋田中央交通軌道線 鉄コレに登場
トミーテックの 鉄道コレクション10周年記念製品の第一弾として秋田中央交通軌道線のデワ+ナハフ1両がセットになって11月発売予定とのこと(宵闇さん情報)。これは驚いた。
八郎潟 1966年3月
デワ+ナハフ 五城目-川崎
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東武日光軌道線 ED602の今
元国鉄ED4010に復元された東武日光軌道線ED602の今を大宮鉄道博物館で改めて眺め、ノーマル電機E611の貨物列車が走っていた風景をこのバケモノ電機ED602に置き換えて当時の日光街中の光景を想像してみました。
元国鉄アプト式に復元され展示中のED4010. 大宮鉄道博物館 2015年7月
日光軌道線の降坂では運転室のない第1端側を前面にして降りてきた.
ED611が行く廃線間近の貨物列車 1967.12.21 撮影:田辺氏
昭和30年頃までED602がこんな日光を走っていた.
昭和30年頃まで活躍したED602.ロッド駆動のサイドビューが魅力的. 清滝電車区 撮影:青蛙氏
参考: RM LIBRARY 第148巻 国鉄アプト式電気機関車 小林正義 著 ネコ・パブリッシング
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