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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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茨城交通水浜線 ある日の水浜電車

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素晴らしき水浜電車、昭和41年ある日の名場面を田辺氏のアルバムから。

撮影: 田辺多知夫氏 1966年5月

何も説明がいらない感動の一場面. 大串

田んぼを行く路面電車.六反田付近

 涸沼川橋梁を渡る. 平戸-磯浜

海辺に近い曲松停車場

場所不明

大洗磯前神社鳥居の脇で線路が終わる. 大洗


駿遠線 袋井工場で見たDB機関車

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駿遠線の蒙古の戦車は背がラウンドした蛙のようなDBが良く知られている。それ以外の無骨で産業用機関車のような細身ボンネットをキャブ前後に配したタイプは、僅か数年で外観が変身したものもありその変遷は大変ややこしい。難解なDB605、606は後にして袋井工場で初めて見たDB機関車を数年後の写真と付け合わせてみました。


初めて見たDB機関車は厳めしいこれぞ「蒙古の戦車」  この時番号を見落とした.
 袋井工場 1963.04.04

ドアにはDBの番号が表示されていない.
背後に数々の自社工場製車両を生み出した袋井工場の野武士たち.

前進側の細身のボンネット・ラジエータ

1963(昭38)年の袋井工場


相良で見たDB601.  1966.09.23
袋井で見たDB(1枚目写真)はその後ボンネット形状(前側)が全く変わってしまったDB601であった.

左からDB602 DB601 DB606  相良  1966.09.23
堂々としたDB606に比べるとDB601は意外に小ぶりであった.
このDB606がくせもの

北陸鉄道能登線 羽咋

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北陸鉄道能登線の羽咋(はくい)を初めて訪問したのは1962年の真夏であった。
それから10年後の1972年3月に先日の雪の羽咋を撮った田辺氏と青蛙氏が訪問していた。
よく考えてみれば私が国鉄能登線のC11「おくのと号」を撮って能登金剛へ行ったのも同じ年1972年の9月であり、北鉄能登線の廃線(1972年6月)直後の三明と羽咋をクルマで素通りしていた。
その頃は羽咋といえば観光「なぎさドライブウェイ」で北鉄能登線がまさかそんな時代まで走り続けていたとは全く知らなかった。

地方私鉄ムードあふれる北陸鉄道能登線羽咋駅の佇まい. 1962.08.02
キハ5162、キハ5001、キハ5151が見える

羽咋構内にあった車両小屋.構内で休む車両は個性派ばかりであった.

こんな単車コハフ1501に乗って夏の日本海海岸線へ向かった.

小屋から出てきた小さな気動車キハ5001が給油し発車の準備をしていた.

羽咋を出発した列車は海水浴客で超満員、国鉄七尾線と並走する.  1962.08.02
キハ5162+コハフ1501

鉄橋を渡り左にカーブして七尾線をオーバクロスして日本海へ出る.
キハ5162+コハフ1501

そして10年後、日本は"Discover Japan"の時代
以下の3点は、先日の田辺氏撮影の雪の羽咋駅.1972.03.04
"Discover Japan" 羽咋を発車する国鉄七尾線のふるさとSL列車C58「おくのと号」

輪島へ向かう七尾線C58「おくのと号」そして右に北鉄能登線の線路.

1972年6月に廃線となった最後の年の北鉄能登線 羽咋構内
元遠鉄二俣線キハ803であったキハ5213. 赤い気動車3両の1両.

駿遠線 謎のDB機関車605

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私は「蒙古の戦車」の中でDB605の姿は見たことがないのですが、昔の鉄道ファン誌に紹介されたバック運転のDB605の写真を知り、中村修 著 「駿遠線物語」の中あったDB605の写真を改めて見てみました。前後ともに山型ボンネットの特徴あるスタイルです。

驚くことに、このDB605イノシシ機関車はなんと豚と衝突して川に転落したそうで、この時の写真を見るとひっくり返ったDBは前後が山型ボンネットでDB605であることが判ります?  その後、このDBの部品は他機に使い回しされたそうで相良で見たDB606はこのDB605と外観上の共通点がいろいろあります。(豚衝突転落事件とその後の部品使い回しの関係は不明)

ところが、DB606はそれとは別に藤枝に変わったDB606がいました。これは赤穂鉄道から来た元CタンクのDB化で駿遠線DB機関車の中で唯一自社工場ではない機関車だったようです。

豚と衝突したあと部品が使い回しされたDB605、そして2タイプいたDB606、これらの関係はよく判っていないようです。


中村修 著 「駿遠線物語」袋井工場物語の表紙にあったDB605の写真.

単端式なのにバックギヤ運転で大手線を走ったことがある機関車、豚と衝突して川に転落した機関車など逸話溢れるDB605。その存在はある時点で消えてしまったのでしょうか。

1966年9月 相良で見た最後の姿DB606.  前
前側ボンネット形状を除きDB605とDB606には共通点がいろいろ見つけられる.


1964年3月 藤枝で見たDB606.
相良にいたDB606とはキャブの形状、動輪形状、タンク位置など外観が明らかに異なる.

どの凸型機関車も一体どちらが前なのか?よく判らなず、特にこの機関車は判りにくい。
運転手の出入り口、計器の位置などからすると、こちらが前なのでしょう。
どの凸型機関車も前面と後面で機関車の表情がかなり異なり、写真を付け合わすときに厄介である。

静岡鉄道:静岡清水線 車両工場

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数々の改修や新造をやっていた静岡鉄道鉄道線の車両工場。
駿遠線の物置小屋で生まれた車両達は、この工場の技術がベースにあってDB機関車や2枚窓キハ等あれだけの新造車が生まれたのでしょう。気になる鉄道線の工場風景を集めてみました。

撮影:田辺多知夫氏  1967..01.07


モハ20.   各地にいた元鶴見臨港鉄道の電車



こんな電車を1/80 13mmで作ってみたい.

駿遠線の新造キハに似た顔つきのモハ21+クハ21、長沼工場の傑作はこの電車でしょう。

本日の東京ビックサイト 鉄道模型コンテスト2015

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第七回全国高等学校鉄道模型コンテストで高校生モジュール部門を主体に見てきました。
モジュールでテーマがしっりしている作品は見ごたえがあります。

国際展示場駅前の夏の空  2015.08.09
8月7日まで続いた8日連続の猛暑日も一息ついた東京。

アジアン風の街並みに一瞬とても日本の風景には見えなかったが、目線を下げてよ~く見ればいつも通るあの金券ショップ通りではないか !
「西新宿」 新宿大ガード~西口の金券ショツプ通りとその裏の思い出横丁、地下の大江戸線西新宿駅を作り込んだジオラマ、よくぞこんなオヤジ趣味の題材に高校生が着目したものである。最も印象に残った千葉県立千葉高等学校鉄道研究部の作品。

「通天閣と新世界の街並み」(新今宮)

「竹林日和」  山陰線 嵯峨嵐山~保津峡間の竹林

富山地方鉄道 寺田駅

鯉のぼりのある風景

marimoさんが撮ったあの頃の東武1

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昨夜は東武鉄道 C11復活運転のニュース のせいか、過去記事「東武鉄道 廃車古典機-4」のアクセスが急上昇。昨年アップした東武蒸機の記事(2014年3月)を読み返してみるとmrimo(故田辺多知夫)さんとあの頃(昭和38年頃)の東武鉄道のことが思い出されます。

marimoさんと初めて出会ったのは1963年11月23日ケネディ大統領暗殺のニュースが飛び込んできた日でした。私が業平橋の廃車群を撮りに行ったのがその翌日11月24日。marimoさんが中千住を撮った日付を見ると1963.09.25、知り合う直前に彼は東武の現役8号機を撮りに行っていたのでした。そして2カ月後、業平橋の廃車群の中に号機銘板はがされた8号機がいました。

昨年の「marimoさんを偲んで 中千住貨物線」にアップ済のmarimoさんの写真2点。
 中千住駐泊所  1963.09.25
京成の下を抜け道路を渡り中千住駐泊所へ向かう8(3代目)号機ピーコック 1963.09.25

以下 この日marimoさんが撮った8号機とあの頃の東武
8(3代目)号機ピーコックが活躍していた最後の姿。1963.09.25

いかにも東武の野武士という感じの電車がまだ走っていた頃。1963.09.25



2か月後、業平橋の側線でC112の前に8号機がいた。業平橋 1963.11.24

marimoさんが撮ったあの頃の東武2

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中千住駐泊所や貨物線のあの頃の東武を見ると、その風景はまさに発展途上国 日本の姿であり東京もまるでどこかの国のようです。今やすぐ近くの業平橋には美しいスカイツリーが立ちこの一帯も綺麗な街並みに変わってしまったことでしょう。昭和38年9月 東京オリンピック開催の前年でした。

撮影:田辺多知夫氏   1963.09.25

中千住駐泊所
業平橋~中千住

中千住貨物線の踏切の風景はいかにも工場地帯.

58号機と特急けごん. 中千住駐泊所



静岡鉄道:静岡清水線の車両

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先日、静岡鉄道長沼工場にいた魅力あふれる小型電車を紹介しましたが、
当時(1967年)の静岡清水線ではこんな電車が活躍していました。

撮影:田辺多知夫氏  1967.01.07

モハ5+クハ5

モハ5+クハ5

モハ18+モハ19

モハ18+モハ19

以下は自社長沼工場で製造
モハ22+クハ22
モハ21~25の顔はまるでディーゼルカーのよう.百変化のお面が面白い.

100形の変な顔も次第に整っていくのですね.

300系.こちらも時代とともに顔が変わる百面相の電車.

尾花沢線 仙境のいで湯♨銀山温泉行のりば (リニューアル)

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山形交通尾花沢線は過去に記事3本アップしましたが、第1回目がブログスタートの直後であれから早や5年、今ではGoogleブログBlogger の環境も大きく変わりました。当時のケチケチサイズの画像も大型化し再編集してリニューアルいたします。

跨線橋から見た看板と尾花沢線のりば 1964.08.05

昭和39年の夏、ガンガン照りの太陽の下、奥羽本線大石田駅に降り立つと国鉄駅の端に歓迎 仙境のいで湯♨ 銀山温泉 の看板が見えそこに山形交通 尾花沢線のりばがあり、見たことないような愉快な列車がやってきた。

構内入替機のような小さな機関車がガソリンカー崩れのボギー客車1両と有蓋貨車1両を従えた素晴らしい混合列車であった。こんな愉快な混合列車がこれから花笠踊りで賑わう夏の尾花沢へ、そしてバス乗り継ぎで銀山温泉へお客を運んでいた。1960年代はこんな貴重な光景を見る事ができた時代であった。1970(昭和45)年9月廃止。

今の銀山温泉そして尾花沢については「夢遊仙人」さんのHP日本の街歩きに
銀山温泉と尾花沢」の見事な旅日記があります。

機関車の付替え作業.ハフ1は元有田鉄道の気動車.  大石田

DB151 小さな機関車の運転室内は蒸し風呂だったでしょう.
小さなDBとは言え軽便に比べると3'6''ゲージで車幅がでかい.

奥羽本線下り列車 大石田  左に尾花沢線のカーブが少し見える

尾花沢から戻ってきた混合列車は牛車のごとくのろかった. 大石田
客車のカラーリングはピンクとマルーンの塗り分け(山形交通カラー)

尾花沢市街

あの夏の日の出来事を旅日記を読み返してみると、新庄で乗った準急が大石田に到着すると尾花沢線のホームに列車は居ず30分以上も待たされたから始まっていた。
ホームにいた客は我々以外は1人だけ、この尾花沢へ向かう客と話をしていたら東京の水不足に驚いていた。やがてやってきた列車は定刻よりだいぶ遅れて発車したが、昨日乗った仙北鉄道に比べるとおそろしくのろくて、軽便よりのろい列車だった。沿線はほとんどが田んぼで尾花沢の近くになると木立が現れ少しは変化のある風景になってきた。車内のシートはほぼ満員で我々より後の国鉄列車で大石田に着いた乗換客であろう。あっという間に到着してしまう尾花沢は家が多くやはり大きな町で奥羽本線大石田は町外れであったことが良くわかる。

小牛田から陸羽東線でやってきた奥羽本線新庄、ここで乗換えて大石田へ向かう.

次回は花笠音頭の尾花沢です。

西武多摩湖線 最後の101系

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初めて西武多摩湖線を訪問したのが101系が引退するのを聞いて駆けつけた2008年の1月末。身近にいながら多摩湖線に乗ったのはこの時が初めてであった。
この日、一橋学園の交換駅と小さな片面ホームの青梅街道駅でローカル私鉄風の消えゆく101系を追いかけた。

この時の101系引退の撮影が多摩湖線との縁であった。それ以来、玉川上水の雑木林を抜けて走る今の新101系を四季折々撮りにくるようになり、その後リバイバルカラーやオール電動車の登場で益々楽しみが増えてきた。そしてこの101系をきっかけに新宿線の新101系2+8連を追い回すようになってきた。
しかし、数年前に新宿線の新101系も消え、多摩湖線の新101系もカラーリングが変わりすっかり足が遠のいてしまった。

朝の一橋学園   2008.01.29~30
一橋学園は中央線国分寺まで一駅の便利さと、武蔵野の自然が調和している。

リバイバルカラー261Fがデビューした日  2009.03.30
玉川上水の雑木林の向こうを多摩湖線が行く。
新101系に統一されて、暫くしてリバイバルカラー261Fが登場した日は、2009年の暖かい春の陽気であった。玉川上水の雑木林から多摩湖線を狙うには12時の日差しがちょうど良く、この日初めて多摩湖線の春の素晴らしさに気付いた。

以下は撮影 2008.01.29~30
玉川上水を渡る
一橋学園を発車し国分寺へ向かう。

 青梅街道駅に進入するたまこ101系。
 
引退直前の101系、新101系に比べ丸顔でこちらの方が「たまこ」のイメージがする。

引退間近い101系を惜しんで乗りに来た人も。 萩山

 運転台が低く客席から前方がよく見える101系。

この後、新101系に統一された多摩湖線。  萩山

今日の西武電車まつり

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西武鉄道 第11回南入曽車両基地電車まつり2015を
久しぶりにLUMIX GX1で撮ってみました。


6000系のステンレス車体を塗装すると見慣れたイエローも新鮮に見えるものだ。

西武で撮ろうと思う顔は今や6000系と2000系前期型くらいか。

イエローカラー車の真っ黒顔は黒の面積多過ぎでステンレス車に比べ顔がつぶれている。
イエローに対する黒の配分がまるで建機みたい。

かってここにN101系2連が休んでいたヤード。

炎天下をもろともせず鉄道ファンの熱い眼差し。

西武6000系イエロー車のカラーリング

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#9999さんが作成してくれましたカラーリング1~4案を並べてみます。
西武20000系と同様の現状真っ黒顔のイメージがかなり変わります。

#9999 さんのコメントより.
私がイメージしたのは、ゴリラかブルドックのしわくちゃ顔です。
Katsuさんが建機みたいとおっしゃってましたので、左右非対称を生かしたオリジナルカラーに合わせてちょっと顔をいじくってみました。

 6000系イエロー車の現状真っ黒顔

イエロー車のカラーリング 1~4案
 1案 黒の範囲を窓回り最小限に

 2案 黒の範囲を オリジナルと同じに

 3案 黒の範囲をオリジナルより少し下げる 

4案 黒の範囲をオリジナルのブルー領域まで下げる

西武スマイルトレイン30000系がデビューして7年

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昨日の西武鉄道ニュースリリースで「2017年春新型通勤車両40000系デビュー」が発表されました。

スマイルトレイン30000系の後継車だそうで、スマイルがデビューしてから7年が経つ。2008年4月にスマイルがデビューした時の白さやアルミ車体のピカピカは今やとっくに色褪せている。自動車と違って、電車は最新化してもどこかに一貫性あるデザインが望まれる。
昨年引退した阪急2300系などは今も50年経った古さを感じさせなかった。



30000系デビュー記念出発式. 西武新宿  2008.04.26

盛んに試運転していた頃. 東伏見-武蔵関  2008.03.28

真っ白な顔とピカピカに輝いていたアルミダブルスキン車体. 東伏見 2008.03.31

日本人が初めてみた蒸気機関車(模型)

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嘉永7年(1854年)ペリー艦隊横浜来航時に横浜に持ち込まれた蒸気機関車は大型模型だが日本人が初めて見た蒸気機関車となるでしょう。この時の蒸気車の絵はあまりにも有名ですが、その原本となるのは現場で写生した絵で、それを元に色付け加工した模写がいろいろ出回ったそうです。↓も色付けされた模写と考えられる。


蒸気機関車の大型模型は、嘉永7年(1854年)2月15日にほかの品々とともに陸揚げされた、そして翌16日、横浜村に設置された敷地にレールが敷かれた。その後、23日に幕府応接掛や多くの日本人の前で運転が行われた。*2松代藩藩士 樋畑翁輔の*1遺稿を元にした「米国使節彼里提督来朝図絵」に汽車模型として描かれており、上の絵は樋畑翁輔が描いたものの模写と考えられる

上の絵と解説要約は、真田宝物館特別企画展の冊子「松代藩と黒船来航」編集発行:長野市教育委員会他 からの引用。

「米国使節彼里提督来朝図絵」は
松代藩 樋畑翁輔の遺稿を息子 樋畑雪湖が編集した冊子で昭和5年に上梓された。
絵は全て白描画で色彩を伴わず筆線のみで完成された絵である。

 樋畑雪湖の「米国使節彼里提督来朝図絵」にある蒸気車の絵(白描画)

 樋畑雪湖の「米国使節彼里提督来朝図絵」昭和 5年上梓
ペリー来航時に日本で初めて見るものが多数白描画で記録されている。

ペリー来航時の様子を記録した樋畑翁輔の遺稿(写生絵)、その遺稿を息子雪湖が冊子「米国使節彼里提督来朝図絵」にして残した。では翁輔の遺稿は発見されたのか、翁輔の遺稿を雪湖はいったん書き写して15m絵巻物にしてそれを原稿にしたのか、などを調べてみたい。

*1遺稿: 未発表のまま死後に残された原稿のこと。
*2ペリー来航時の松代藩の二つの役目  
   1.横浜応接場の警衛。 
   2.松代藩の二人の絵師を参加させ当時の状況を克明に描き絵に遺した。


長野電鉄屋代線 その後の松代駅

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2012年3月末で廃線となった長野電鉄屋代線。ペリー艦隊横浜来航時の蒸気車(模型)の絵の元絵(写生画原本)が保管されている松代の真田宝物館を訪問した帰り、今の松代駅に立寄ってみました。

屋代線現役時代の松代駅.松代の町にふさわしい味わい深い駅であった。 2012.03.21

廃線から3年が過ぎた今、松代駅は本屋と3番線ホームが残され、1、2番線島式ホームと構内の線路は消え一面に砂利が敷き詰められていた。廃線後に駅本屋をバスやタクシーの待合室に利用されるのはよくあるが、こうして駅本屋とホームが保存されているのは嬉しいことだ。いかにも地方私鉄らしい木造駅舎をいつまでも保存してもらいたい。2015.08.29
線路や島式ホームがあった構内は一面に砂利が敷いてある。
ここに長野電鉄保存車両を並べるのだろうか。
2015.08.29

日本人が初めてみた蒸気機関車(模型) 2

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松代の真田宝物館は屋代線松代駅跡のすぐ近くでした。
宝物館訪問の目的は、嘉永7年(1854年)に横浜に陸揚げされた蒸気車模型を見た絵師が自分の目で書き写した写生絵図が2年前に初めて真田宝物館に寄託されたので、写生絵図とその後の関係を確認することでした。以下は自分なりに確認できたことです。

1.樋畑翁輔の遺稿とは何を指すのか? 
松代藩藩士 樋畑翁輔が蒸気車の絵図含め17場面で構成された「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」の絵巻物(12.5m)が翁輔の遺稿であり、これが真田宝物館に寄託された。

この「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」絵巻物は常設展示でなく今回見ることできなかったが、これが展示された時は、取材カメラなどなかった嘉永7年に初めて見た蒸気車を絵師の目を通して描かれた驚くほど克明な絵図現物を見ることができる。

2.写生絵図そのもの(原画)は現存するのか?
「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」絵巻物そのものが写生図絵を集めた現存する原画集であった。これを元に着色された様々な模写絵が出回り原画とは少しずつ異なる。

3.昭和5年に上梓された「米国使節彼里提督来朝図絵」(印刷物)との関係は?
樋畑雪湖が父翁輔の写生絵図原画を集めて上記絵巻物に仕上げ、それを元に編集した冊子が「米国使節彼里提督来朝図絵」で、掲載された絵図↓は写生絵図そのものを印刷化していると思われる。

上図は本の絵を部分拡大したもので、写生絵図を印刷化したので滲みが出ているが、写生絵図原画を撮った部分写真↓を見ると弁装置などが恐ろしく緻密に(当たり前か?)描かれている。
写生絵図原画の絵師のタッチ

昭和5年に上梓された「米国使節彼里提督来朝図絵」(印刷物)

日本初は蒸気車だけでなく、泰平の眠りを覚ました西洋音楽(ポピュラー、クラシック)が日本で初めて演奏された場面等もこの絵巻物に収められています。真田宝物館で今後この絵巻物が公開される日が楽しみです。
尚、2013年6月5日の朝日新聞に大英博物館がこれの着色された絵巻物(15m)を美術商から入手し公開を始めた事が紹介されました。

真夏の福島交通軌道線4

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まもなくこの夏も終わりとなりますが、遠い昔のあの炎天下の福島交通軌道線で残された画像からアップしてみます。昭和39年の福島軌道線、変化に富んだ沿線はほんとうに夏がよく似合っていた路線です。

撮影:田辺多知夫氏  1964.07.27

 福島駅前通りを行く貨物列車

 電動貨車ニモ1の馬づらがよく分かります。北町

 日赤病院前のいかにも夏らしい風景

 湯野町から長岡へ向かう湯野町線(飯坂東線)でしょう。
花巻電鉄鉄道線を感じさせる木立と小川と軌道線の組み合わせが魅力的です。

これも湯野町線(飯坂東線)と思われます。

国鉄86と福島電鉄飯坂線の電車が並ぶ福島駅。

烏山線のバッテリ式電車"アキュム"

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昨日は大学鉄研OB会で烏山線の"アキュム"を乗りに行ってきました。
このバッテリ式電車はよく知られている通り、東北線電化区間を架線からの電力で走り、非電化区間の烏山線をバッテリ電源で走り、両端駅で補充電するバッテリ式電車です。
烏山線の自然豊かな素晴らしい沿線風景を最新の電車が走るのを是非撮ってみたいものです。
そして静かな電車の快適性は当然でした。

烏山線ダイヤから走行時間と両端駅停止時間を時間軸にして、電池の充電量と放電量と残量の関係がどうなっているかが興味深い。この日の休日ダイヤでは烏山駅で1~1.5h、宇都宮駅停車+架線走行で1h程度の充電時間となる。一日の稼働パターンに対して電池容量の選定など、当然ながら烏山線の稼働パターン(充放電サイクル)に的を絞って開発されているのでしょう。

宇都宮10:03発の人気者"アキュム" 2015.09.06
"アキュム"はこの時間から稼働スタートし電池は前夜に満充電されているのでしょう。

 宇都宮から宝積寺まで架線からの電力で走行している車内表示

15分ほど走行し10:17宝積寺に到着、パンタを下げてここから非電化区間を走る

非電化区間をバッテリ電源で走行している車内表示

宝積寺から35分走行して烏山10:57着 パンタ挙げて補充電開始する
次の宇都宮行12:29まで約1時間半の補充電

烏山駅で充電のための電源設備

架線がないバッテリ式電車 烏山駅

床下のリチウムイオン電池は3+2個のようだ。

"アキュム"の後 旅は烏山の奥にある別次元の世界へ続く
防爆仕様のバッテリ式ロコ

那珂川清流鉄道保存会

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烏山線のバッテリ式電車“アキュム”を見学した後に訪問した珂川清流鉄道保存会は、烏山駅から那珂川沿いに北上したところの川沿いにあった。ここからは戦前に東野鉄道の終点があった那珂川町小川にも近い。
トロッコから国鉄客車まで実に幅広く様々な車両が保存されているが、本職のトラック業の関係からかエンジン式産業車両のコレクションが最も多いようであった。

今回の訪問では鉱山用の電気式機関車と蓄電池式機関車に注目した。私にとって鉱山用は未知のジャンルであり、一体どんな前歴がある車両なのか全くわからず、次回はよく下調べしてから訪問しようと思っている。大規模な立山砂防工事専用軌道には全く関心ないが、こうした鉱山用や専用線や林鉄用の小さな車両(特に蓄電池式)が活躍した鉄道には惹かれるものがある。

奥多摩(日原小学校)跡に保存してあった坑内用電気機関車で、塗装、修理を終えて、グランビー鉱車と共に那珂川に入ってきた(那珂川清流鉄道ブログ記事より)   奥多摩工業氷川鉱山にいた三菱電機製6トン電気機関車でしょうか。


蓄電池式機関車


蓄電池式機関車

以下は展示がこれからの車両。
蓄電池式機関車

パンタ未装着の釧路コールマイン(元太平洋炭鉱) 610mmナロー電機機関車

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