↧
昭和38年夏の広島機関区
↧
昭和38年夏の広島駅
↧
↧
多摩湖線のN101系
昨日朝、西武新宿線の上石神井近くの踏切でふと見ると新宿線からは消えたはずの3扉車が? よくよく顔を見れば懐かしいN101系で4両全電動車263Fの回送でした。
通常は多摩湖線で営業運転しときどき機関車代わりに新秋津ありに出没する263F、今でも多摩湖線を走っているのでしょうか。ノーマルN101系が白一色塗りになってからすっかり遠のいてしまった多摩湖線の今を見に行きたくなってきました。
通常は多摩湖線で営業運転しときどき機関車代わりに新秋津ありに出没する263F、今でも多摩湖線を走っているのでしょうか。ノーマルN101系が白一色塗りになってからすっかり遠のいてしまった多摩湖線の今を見に行きたくなってきました。
263F 一橋学園-国分寺 2009.11.15
2007年春に入線した4両全電動車のN101系263F、デカい抵抗器をぶら下げ、全車両モータ付のパワフル電車はまるで大型模型のよう。今日はどこの舞台裏にいて何をやっているのか、西武新宿線ファンからいつもその日の所在を追跡されていた(当時のはなし)。多摩湖線で「1両目パンタグラフ付」通称"前パン"はこの全電動車だけ。261F 一橋学園-国分寺 2009.11.15
あの頃、もう一つの多摩湖線名物がN101系261Fで2008年春の陽気の中をリバイバルカラーに化粧直しして登場した。窓回りが懐かしいの昔の西武の淡いうす茶に塗られ、このリバイバルカラー車が多摩湖線専用に走っていた。↧
九州夜行列車 1枚の写真
九州の地方私鉄、路面電車めぐりで毎夜宿代わりに利用した夜行列車。この1枚は確か鹿児島で夜行列車に乗り早朝の鳥栖に到着した時でしょう。駅で顔を洗いパンをかじり熊本へ引き返したのか、あるいは長崎へ向かったか?
そんな1枚をスキャニングした後、トリミングもゴミとりも調整も何もしないでリサイズだけした画像を試してみました。これは楽です。
早朝の鳥栖 鹿児島発の夜行列車? 1967.03.02
1967年3月1日、鹿児島20:11発の門司行夜行鈍行列車に乗り込む。鈍行列車のせいかお茶や弁当売りはほとんどやって来ない。隣の急行発車ホームには駅弁もたくさんあったのに・・・・。改札が始まっても乗り込んでくる客はまばらで西鹿児島で地元の客が乗ってきて少しだけ席が埋まったがすぐにガラガラの夜行列車となった。一人で1ボックス占領し今日一日の疲れでぐっすり眠れそう。
翌3月2日4:41定刻に鳥栖に到着し隣のホームに停車しているローカル列車に乗り込んで目が醒めると博多に到着。鳥栖で長崎行に乗ったつもりが逆方向の長崎発門司港行きの列車であった。博多発6:49急行「雲仙 西海」C60牽引列車に乗って引き返し長崎へ向かう。長崎に10:27到着したとたんに南国の明るい太陽の下、異国情緒豊かな音楽が聞こえ南国ムードが満点であった。
と、旅の記録を読み返してみると狂電関人さんご指摘の通り朝の陽ざしの方向からすると写真は東京発長崎行きの下り夜行列車急行「雲仙 西海」かも知れません。
と、旅の記録を読み返してみると狂電関人さんご指摘の通り朝の陽ざしの方向からすると写真は東京発長崎行きの下り夜行列車急行「雲仙 西海」かも知れません。
↧
松尾鉱業鉄道 雲上の都市があった頃
1966年3月の私鉄めぐりも宿代わりの夜行列車で東北ぐるぐる回りの連続で、松尾鉱業鉄道へ向かう時の寝不足はひどかった。仙台で夜行列車に乗り深夜2時に盛岡に到着し駅待合室で寝て花輪線の一番で松尾鉱業鉄道が出ている大更へと向かった。
松尾鉱業鉄道の雲上の楽園はすでにアップされていますが、同行した田辺さんが東八幡平駅で別角度で撮った写真をアップしてみます。
C61の重連 1966.03.02
このC61の重連も深夜の盛岡で田辺多知夫さんが撮影。
このC61の重連も深夜の盛岡で田辺多知夫さんが撮影。
東八幡平の駅の背後に迫る山並みの上にまだ「雲上の都市」の生活があったようだ。この頃鉱山はピークの時代を終え終焉の時代を迎えていたようだが、2両の客車には大更へ下る乗客が結構いた。東八幡平の駅前に生活感は何もないので乗客はみな雲上の都市に生活している人たちだったのでしょう。
終着駅 東八幡平 1966.03.02
↧
↧
秋田中央交通のデワ+ナハフ
↧
金沢犀川の川向こう野町~白菊町界隈の今
10月9日に紹介しました昭和38年の 何だこれは! の金沢1 で、金沢犀川の川向うの一角を走っていた今はなき野町~白菊町界隈の現状を定点撮影された代打・山本さんから写真を送って戴きましたのでアップします。
川向こうの一角(現状)に廃止区間を入れてみました。赤が1972年に廃止になった白菊町~野町、青が現状の石川線です。白菊町が随分わかりにくい場所にありますが、真の起点は昔から市内線が来ていた野町であったのでしょう。工場地帯の貨物扱いで野町の先白菊町まで線路が伸びていた。
写真で○○枚目とあるのはブログ「昭和和38年 何だこれは! の金沢1」にある写真の順番です。
9枚目と同じ場所で 野町駅前を出た市内線が国道に合流するため坂を上ってくるところです。
(市内線単車がカーブして国道に向かっていたところですね)
野町駅
1枚目、3枚目とほぼ同じ場所です。田辺氏は駅のホームから撮影されたようですが、現在はバスとの乗り継ぎのために改築された駅舎に面したホームしか使われておらず、向かい側のホームへは立ち入りができません。ポイントも撤去されており、交換用のコンクリート枕木が並んいるのはレールの上です。なお石川線は大正4年の開業から今年でちょうど100周年を迎え、電車にもヘッドマークがついています。 10枚目と同じ場所です。(野町駅前でここから右へカーブして市内線が出ていましたね)
建設資材会社の横から先は線路跡が道路になっています。
(白菊町手前の大きなカーブでしょうか)
6枚目、7枚目と同じ場所です。線路跡にアパートが建っていますが、6枚目に写っているブロック塀は当時のままです。(電機が貨物入替え作業をやっていた踏切のところですね)
5枚目とほぼ同じ場所です。変電所の敷地になっていますが、右に曲がる側線の跡に沿って木が植えられています。(あの奇怪な建物は変電所だったようですね、それが今はこんな風景に)
先日行われたイベントで、もと井の頭線の車両の行先が演出で「白菊町」になっていました。この車両が入ったのは平成になってからなので白菊町へ行ったことはなく、こんな方向幕があるはずがありませんが、紙にマジックで書いてあったそうです。(元井の頭線と白菊町の組み合わせが面白いですね)
↧
北恵那鉄道
1978(昭和53)年9月に廃止された北恵那鉄道、かって岐阜県中津川市の中津町駅と恵那郡付知町(現中津川市付知町)の下付知駅を結んでいた。素晴らしい沿線風景を走る素晴らしいカラーリングの電車で地方私鉄の中でも人気の高い路線だったでしょう。何故撮りに行かなかったのか? 1960年代に私はまだその魅力を知りませんでしたが、田辺さんはこの素晴らしい電車を1978年にカラーで撮っていました。撮影日不明ですがたぶん廃線間近い頃と思われます。
尚、Youtubeに地元高校生が撮った素晴らしい ローカル線「北恵那鉄道」廃線記録8mm映画 があります。
尚、Youtubeに地元高校生が撮った素晴らしい ローカル線「北恵那鉄道」廃線記録8mm映画 があります。
↧
奥羽本線 湯沢駅
かって羽後交通雄勝線が発着していた奥羽本線湯沢駅。今年11月28日に湯沢駅がリニューアルオープンし奥羽本線に架かった跨線橋が現在解体中とのこと。Facebookに盛んに湯沢駅の状況がアップされている写真をお借りし、現状と50年前の夏の湯沢駅を対比してみました。現状写真はFacebook「はぁ〜え、湯沢のなえでもびゃっか」さんより。
日本各地いたるところで駅や街が生まれ変わり綺麗になって行く。建物や街が整備されすっかり綺麗になって行く半面、かってあったその土地らしい、その時代らしい、風景は消えて行く。
日本各地いたるところで駅や街が生まれ変わり綺麗になって行く。建物や街が整備されすっかり綺麗になって行く半面、かってあったその土地らしい、その時代らしい、風景は消えて行く。
七夕祭りの日の湯沢駅雄勝線のりば.1964.08.06
右手国鉄線に架かった跨線橋が現在まで残っていて、一回り小さい雄勝線の跨線橋やホームは廃線後すぐに消滅したのでしょう。
消えゆく奥羽本線の跨線橋.模型でこういう国鉄の跨線橋に憧れたものです。
ここから雄勝線が発着していたが線路とホームは消え近代的な西口が誕生.
湯沢の街を背に湯沢駅を発車した電車は夕方で家路を急ぐ乗客で満員であった.1964.08.06
12月4日初雪の湯沢駅東口
現在の東口の街並み
七夕まつりの湯沢の街.1964年8月
↧
↧
花巻電鉄 西鉛温泉
随分昔2011年6月6日に西鉛温泉をアップしましたが、温泉通いの軌道線の風景を追加して再アップしてみます。これから花巻温泉に行く鉄道線の方をもっとアップしますが、どうしてもこんな軌道線の魅力にはかないません。
豊沢川沿いに点在する温泉各駅に客を降ろしながら山間に入って来た電車はここで行き止まりとなる。終点西鉛温泉は何もないところで、旅館のマイクロバスが待ち受け、待合所に「歓迎 新鉛温泉 愛隣館 この先百米」と書かれた看板があった.
豊沢川沿いに点在する温泉各駅に客を降ろしながら山間に入って来た電車はここで行き止まりとなる。終点西鉛温泉は何もないところで、旅館のマイクロバスが待ち受け、待合所に「歓迎 新鉛温泉 愛隣館 この先百米」と書かれた看板があった.
↧
花巻電鉄 中央花巻駅
スイッチバック駅の西花巻から国鉄をオーバクロスして中央花巻駅まで延びていた短い線の事について当時の訪問記録をひも解いてみました。
街中にひっそり佇む中央花巻駅. 1964.08.02
台所や洗濯物が見え生活感あふれる駅舎はきっと住居に使われていたのでしょう。
1964年8月1日夜の上野駅は大変な混雑で予定した第2十和田は長蛇の列であきらめ、比較的空いている臨時準急に乗り19:25上野を発車した。途中、平でC62に付け替えられる素晴らしい列車だったが客車のシートの背ずりが板張りでお粗末な準急であった。
翌朝8:09花巻に到着、ナローの電車のりばを横目に見て国鉄花巻駅前に出る。リュックを駅に預け中央花巻駅を目指して街中を歩いたが方向を間違えてしまい、やっとのことで中央花巻の駅を見つけることができた。中央とは名ばかりで寂れた駅でポイントもなしホームが1本あるだけ。この駅から花巻温泉(鉄道線)行の電車が一日5本出ていた。中央花巻~西鉛温泉が軌道線だがこの頃ここを発車する電車は花巻温泉行のみで鉄道線として使われていた。
↧
花巻電鉄 中央花巻~西花巻
中央花巻と西花巻の位置関係を現在の地図上に描いてみました。鉄道線(中央花巻~花巻温泉)は東北線を越え西花巻から花巻へ出てそこから花巻温泉へ向かいます。
中央花巻を発車した電車は家並みの間をカーブし東北線を越えると西花巻に到着する.1964.08.02
西花巻駅の客車付け替え風景.
↙ 軌道線
ガラガラの電車が中央花巻を発車し右へカーブする.
花巻、西鉛温泉行の軌道線はここでスイッチバックする.
西花巻駅の客車付け替え風景.
軌道線(花巻~西鉛温泉)はこの西花巻でスイッチバックする。写真は西鉛温泉方面からドアまで客を満載した上り列車がやってきたところで、満員の客を乗せたままここで客車を付け替えて花巻方面へと向かう。右手にはバス営業所がありボンネットバスがたむろしていた。
花巻へ向って発車した軌道線の電車.
以下は以前にアツプした軌道線の西花巻風景です。
満員の客を乗せた電車が到着すると、客車を切り離し、機回り線を使って付け替える。ホームではお客がその作業が終わるのを待っている。この翌年、西花巻~中央花巻間が廃止され、その後スイッチバックのY字の線路配置も消滅した。
西花巻 1964.8.2
西花巻
花巻から下りが到着 西花巻
夕方にこんな編成もあった。写真は西花巻から花巻へ向かう上り列車だが、それにしてもお客が多い。満員盛況の電車。
↧
花巻電鉄鉄道線1( リニューアル)
花巻から花巻温泉までの鉄道線は2011年6月に「花巻温泉行きの軽便電車」で紹介してから4年が経過しました。その後の画像大型化や新たにスキャンした画像などを織り込んでリニューアル版とします。
賑やかな「花巻温泉郷」行電車のりば 1964.08.03
花巻駅のホームは左が軌道線、右が鉄道線のりばとなっている。花巻温泉、台温泉、志戸平温泉、大沢温泉などの温泉マークが賑やかに並ぶ。温泉郷への足としてまだ軽便鉄道が使われていた最後の時代。花巻電鉄の花巻駅からは豊沢川沿いに志戸平温泉、鉛温泉などへ向かう軌道線と、花巻温泉、台温泉へ向かう鉄道線が出ていた。鉄道線は立派な専用軌道で電車もポールではなくZ型ビューゲルと、軌道線のようなトロリーラインのムードはなくファンにはあまり注目されなかったようだ。
鉄道線は電車も軌道も立派で、太いレールを使ったしっかりした軌道は砂利に埋もれた軌道線の細い線路とは対称的であった。
花巻を出るとすぐに一面田んぼの中を進む.
どこまでも一直線に進む区間.
なるほど、この新型は運転者にとって全面の支柱が邪魔なのがよくわかる。
なるほど、この新型は運転者にとって全面の支柱が邪魔なのがよくわかる。
↧
↧
花巻温泉行きの軽便電車2( リニューアル)
↧
花巻温泉行の軽便電車3( リニューアル)
この日は朝から真夏の炎天下で鉄道線で撮った写真の殆どがハイライト白飛びで、このネガのスキャニングをやり直しました。
終点花巻温泉の駅は軌道線の終点西鉛温泉とはえらい違いで、軽便とは思えない大変立派な終着駅。温泉街の入り口となる駅は人でにぎわい軽便電車がしきりに往復していた。高級感ある立派な温泉街で今も栄えていることでしょう。
終点花巻温泉の駅は軌道線の終点西鉛温泉とはえらい違いで、軽便とは思えない大変立派な終着駅。温泉街の入り口となる駅は人でにぎわい軽便電車がしきりに往復していた。高級感ある立派な温泉街で今も栄えていることでしょう。
軽便とは思えない立派な花巻温泉駅 1964.08.03
夏の陽がサンサンと照り付けるホーム.
人で賑わう花巻温泉三角屋根の駅舎
電車を降りて駅前に出ると花巻温泉街が待ち受ける.花巻温泉街から更に進んだ離れたところに台温泉がある.
オリンパスペンで撮った形式写真だがトレーラのことより背後に写った立派そうなホテルや旅館の看板など、当時の風景が気になるところ.
↧
花巻温泉行きの軽便電車4
鉄道線シリーズの最後は馬面電車です。
馬面電車については以前ブログで2回アップしたことがありますが、この時はデハ1、デハ3、デハ5(木造)の3両を電車区で撮ることができました。残念ながらもうラッシュ時でも滅多に使われることはないようでした。馬面電車の車両写真を撮り終わった頃、幸いにデハ3が何やら台車を牽いて動き出し鉄道線へ消えて行きました。
馬面電車については以前ブログで2回アップしたことがありますが、この時はデハ1、デハ3、デハ5(木造)の3両を電車区で撮ることができました。残念ながらもうラッシュ時でも滅多に使われることはないようでした。馬面電車の車両写真を撮り終わった頃、幸いにデハ3が何やら台車を牽いて動き出し鉄道線へ消えて行きました。
デハ56と並んだデハ3 花巻 1964.08.03
お伴を牽いたデハ3が鉄道線に出動. 花巻
鉄道線の林の中に消えて行った馬面電車. 花巻
↧
花巻温泉郷行きの馬面電車
以前アップした豊沢街道の1枚、肝心な街並み右側がトリミングで切れていたので再度アップします。こんな豊沢街道を走っていた馬面電車デハ3を見てみたかったものです。写真の電車は馬面と番号が同じデハ3で側面から見ると馬面とそっくりでこれも軌道線に似合う味のある電車でした。
馬面が走った豊沢街道をデハ3が行く。 西公園-石神 1964.08.02
側面から見るとまるで馬面デハ3のような幅広デハ3
「花巻温泉郷」の看板を掲げた電車のりば. 1964.08.03
側面から見るとまるで馬面デハ3のような幅広デハ3
「花巻温泉郷」の看板を掲げた電車のりば. 1964.08.03
現在の観光パンフレットを見ると「花巻温泉」に対し「花巻温泉峡」と分けて表示されている。「花巻温泉峡」は花巻市から約40分ほどの山あい。豊沢川の渓流に沿って温泉宿が軒を連ねる温泉地。志度平温泉、大沢温泉、鉛温泉、新鉛温泉など全国から観光客が訪れる人気の温泉宿が多い(観光パンフレットより)。 この温泉峡の昔を走ったのが馬面電車であった。
デハ1型(3) 花巻 1964.08.03
デハ1型(3)
全幅1600デハ3の室内.膝と膝の間に一人通れるくらいか。人は通れない。
花巻電鉄デハ3の雨宮製板台枠台車
デハ5の運転台
デハ1型(4) 花巻 1966.03.04
デハ1型(1) 1964.08.03
木造デハ5型(5) 1964.08.03
デハ1型(1) 1964.08.03
木造デハ5型(5) 1964.08.03
↧
↧
新年
↧
小私鉄紹介記事
子供の頃によく読んだ「鉄道模型趣味」誌の小私鉄紹介記事に車両紹介と共によくこんな情景描写の文章があって、読むと小私鉄のイメージが膨らみ大変印象深いものでした。小私鉄で何を見て何を感じたかは行った人でなければ書けないこと。昭和30年に発表された1219生さんによる西大寺鉄道の記事の一部を昭和37年撮影の写真と対比してみました。
キハ7 財田 1962.07.29
岡山の一つ隣、山陽線の東岡山という田舎駅のすぐ前に、西大寺鉄道の財田の小さい駅がちょこんと建っています。ここは全線のほぼ中間で今はただ一つの交換駅、カタリンカタリンとディーゼル特有のアイドリングの音をさせている車を気にしながら、あわてて切符を買いますが、この切符はモデルのペーパー車両用の白ボールそっくり。何も急がなくても車はゆっくり待っていてくれるのですが、そこは日ごろのくせで・・・。
皆さんが乗り込んだとみるや、やおらタイフォンを鳴らしクラッチが入ります。ゲージも小さく車体も小さい。タブレットも又小さい。乗っている人間だけがどこも同じスケールです。道に沿い自転車と競争します。止まりました。停留所でした。道端に石が積んであるのがホームらしく、お客は道を行きかう自動車の砂塵をあびつつ待たねばなりません。切符を売っている家には永利駅という看板がでています。他の駅も似た様なもので、一寸土盛りしたホームの上に犬小屋が置いてあって、犬が吠えついていたり、ささやかな家庭菜園が作ってあったり・・・。
畑の中の小川を渡り、やぶの横を曲がり、終点西大寺のバスと共用の堂々たる建物に着きます。車庫はバスのそれとつづきで、キャブオーバー等の車体の並ぶ中を通り抜けて訪問致しました。ともあれ動車、客車はマルーンに白線入りのいでたち、カップラーはアサガオ形の軽便スタンダード。
皆さんが乗り込んだとみるや、やおらタイフォンを鳴らしクラッチが入ります。ゲージも小さく車体も小さい。タブレットも又小さい。乗っている人間だけがどこも同じスケールです。道に沿い自転車と競争します。止まりました。停留所でした。道端に石が積んであるのがホームらしく、お客は道を行きかう自動車の砂塵をあびつつ待たねばなりません。切符を売っている家には永利駅という看板がでています。他の駅も似た様なもので、一寸土盛りしたホームの上に犬小屋が置いてあって、犬が吠えついていたり、ささやかな家庭菜園が作ってあったり・・・。
畑の中の小川を渡り、やぶの横を曲がり、終点西大寺のバスと共用の堂々たる建物に着きます。車庫はバスのそれとつづきで、キャブオーバー等の車体の並ぶ中を通り抜けて訪問致しました。ともあれ動車、客車はマルーンに白線入りのいでたち、カップラーはアサガオ形の軽便スタンダード。
夏の駅 広谷 1962.07.29
↧
昭和41年 富山地方鉄道
↧