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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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沼尻鉄道 川桁にいた車両

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川桁にいた車両ですが、人気の沼尻鉄道の車両は経歴などが多くの書物に紹介されているので省略し、今後の「軽便の狭いせんろ」と「軽便のアーチバー台車」模型シリーズが完了後に模型化からみた「沼尻鉄道の車両」を続けてみます。

DC121  川桁  1964.01.03

ワフ3

ガソ101   詳細はこちら→単端ガソ101

ボハ6.隣のボハ7と同形で車輪径457Φの極小アーチバーを履き
西大寺の客車と並ぶ最も軽便らしい「地を這うような」客車.

ボサハ14. 車輪径500Φでこれも腰が低い.
栗原鉄道から来た3両の中では最も小ぶりで魅力溢れる客車

小径車輪の客車が揃った ボサハ14+ボハ7+ボハ6


雄勝線 西馬音内~湯沢

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秋田の米どころを走っていた羽後交通雄勝線。先日、地元の方々の湯沢facebookを拝見し、またあの夏の光景が懐かしくなりました。訪問した1964年の後、雄勝線は動力変更で電車を気動車と入替えて非電化線として生き延びるという運命をたどり1973年4月に廃線となりました。

1964年夏の夕方、湯沢から西馬音内まで乗って西馬音内の車庫で美しく保守整備された車両達に驚き、予定変更し翌朝また湯沢から出直して順光で車両達を撮るという惚れこみようであった。驚異的な車両の保守整備は会社と鉄道マンの心意気であったのでしょう。

しかし、その後の雄勝線は動力変更で電車をやめて気動車に入替え、あの美しい電車や客車の殆どが不要となり、西馬音内の駅舎は取り壊されプレハブ小屋に、電車区車庫も取り壊され、西馬音内駅は仮ホームとなる。あの素晴らしい夏の日の光景が廃線を迎える前に一変した光景になってしまったのを今になって知りました。1964年は乗客がピークの時代であったそうで、この後の急激な時代の変化に雄勝線も飲み込まれてしまったのでしょう。電車から気動車になっても変わらなかった筈なのが沿線風景。電車時代の西馬音内から湯沢まで風景をつないでみました。


味わい深い西馬音内の駅舎.  1964.08.06
この駅舎はその後取り壊されプレハブ小屋となってしまった.

西馬音内駅では古典客車ハフ14に既に乗客が乗っていて梺からやってくる電車を待っている.
梺から電車が到着すると電車は貨車+古典客車を牽いて湯沢へ向けて発車した.
非電化線となって西馬音内は仮ホームとプレハブ小屋だけの駅になってしまったようだ.

残念なことに次駅「あぐりこ」のあぐりこ稲荷に由来する神社風づくり駅舎は撮ってなかった.

美しい古典客車を牽く列車同士が交換する羽後三輪駅.


西日を浴びて湯沢へ向かう古典客車のデッキが心地よかった. 貝沢

美しい田んぼがどこまでも延々と続く. 羽後山田 - 貝沢.

羽後山田. 駅を発車すると右にカーブして西馬音内へ向かう

雄物川の鉄橋を渡る.  湯沢 - 羽後山田

湯沢の街を背に発車した電車は夕方で帰宅を急ぐ乗客で満員であった.

国鉄奥羽本線湯沢駅に隣接した雄勝線のりば.

大衆食堂、駅前旅館、羽後交通乗車券発売所がある湯沢の駅前通り.
この日は湯沢の七夕まつりで朝から賑やかであった.

参考: RM LIBRARY 第52巻 羽後交通雄勝線 -追憶の西馬音内電車-

雄勝線 西馬音内電車区(リニューアル)

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2010年6月に2回アップしました「西馬音内電車区」について写真の入替え追加をしてリニューアルします。

西馬音内駅にあった西馬内電車区には整備がよく行き届いた古い車両が様々いたのが驚きであった。西日を浴びた西馬音内電車区には古典車がゴロゴロし、駅にはお客を載せた古典二軸客車が発車を待っていたあと10日もすれば幻想的な西馬音内盆踊りが始まるが、この西馬音の古典車がいる電車区と駅も幻想的な光景であった。

翌朝また電車区を訪問すると、ちょうど車両の並べ替えが始まり、電車区に居た全ての車両が一旦本線上に引き出されて、さながら古典車の展示会のようであった。
その後、庫内では古典2軸客車ハフ11とハフ13の点検が始まり、どの古典車を見てもピカピカの新車のようであった。明治生まれの古典客車は薄汚れてくたびれたようなところはなく、車体がチョコレート色に輝き、足回りもしっかりと黒光りしていた。こんな美しい古典客車が営業用に使われているのが信じられないくらいであった。

西馬音内電車区の全景 1964.08.06  クリックで拡大
電車区でこれらの車両を支えてきた人達の姿が見える.

デハ6 (元西武多摩湖線モハ104).壁が波トタン板を貼っただけの電車区の車庫.

車庫内部の壁に掲示された整備基準の規格値一覧.

入庫した古典2軸客車ハフ11 明治41年製. その周辺には様々な小道具が.

整備中のハフ13 大正元年製. 同形のハフ14がいてこの日はハフ14が出動していた.

美しく黒光りした古典客車の台車

よく手入れが行き届いた古典2軸客車ハフ11 13 14 の3両は明治村に引き取られた。1964.8.5

検査上がりでとりわけ美しかったホハフ2. 明治43年国鉄神戸工場製の元国鉄ナハフ    1964.8.6

構内入替作業中のデハ3とデハ1

元都電の車体を使った デハ5
電車のカラーリングがまだクリームと緑の塗り分け時代で、派手な朱色とクリームに
塗られたのは最新デハ7のみであった.

元日立電鉄の電車でトレーラ化された ホハフ5  1964.8.5

お知らせ 「軽便の狭いせんろ」

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このところ「軽便の狭いせんろ」シリーズの記事ページビュー数が突然上昇し始め、これは何なのか? 調べてみると、やはり軽便鉄模アンテナ雑記帳さんでした。いつもありがとうございます。

「軽便の狭いせんろ」のシリーズはまだ終了ではなく、これから結論をアップして予定です。
O番ナローは後回しとし、16番ナロー、HOナローを先に結論出す予定ですが簡単なサンプル品さえ部材集めに遅々としている私です、暫くお待ち下さい。 それにしても1/80と1/87と尺度が二つになってしまった軽便模型の世界はほんとうに厄介なものです。


軽便の狭いせんろ サンプル品の比較(16番、HO)

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「軽便の狭いせんろ」シリーズは記事最下部にあるラベル「鉄道模型」をクリックして戴くと今までの全記事が繋がります。能書きは後回しとし結果を急ぎます。

16番、HOナロー用の線路として、シノハラ ナロー用フレキレール市販品の活用を前提としていますが、実物15kgレール相当のレールとスケール枕木との組合せも用意し、各種サンプル品を並べてナロー模型の狭い線路のバランスを比較してみました。今回、型紙の尺度は1/80としましたが1/80、1/87併用のナロー用線路と考えてあります。

サンプル品を並べて比較すると、シノハラの枕木のスケールオーバーは実用性を採ればそれほど気にならないと思われます。枕木間隔を拡大するだけで沼尻や下津井電鉄の太めレール実物25~30kgの狭軌感にニンマリとしてしまいます。

軽便で最も多い実物15kgレールを想定したものは、枕木をスケール通り切り出しコード40(高さ1mm)のレールを固定するわけですが、走行性・耐久性で実用的なものを作るのは私には到底無理なようです。
尚、枕木間隔は型紙、サンプル品も枕木10本目分のピッチ寸法を抑えるだけで、その間にある枕木は当然目見当です。シノハラのレールと枕木の固定は、型紙の上にレールを置いて瞬間接着材で10本目をしっかり固定し、その間の枕木は軽く止める程度です。
枕木間隔の1と2は実物を採寸した中で最大クラスと最小クラスを示しています。

型紙の上にサンプル品を並べてバランス比較したもの.
上図左から
・実物15kgレール相当でスケールに近いせんろ。枕木間隔1、レールコード40
・実物25~30kgレール相当でシノハラ軽便用を加工。枕木間隔1、レールコード60
・実物25~30kgレール相当でシノハラ軽便用を加工。枕木間隔2、レールコード60
・シノハラ ナロー用フレキシレール市販品のまま。レールコード60


  実物15kgレール相当で枕木間隔1. 実物25~30kgレール相当で枕木間隔1と2 

雄勝線 西馬音内駅

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羽後交通雄勝線が電車→気動車に動力変更になってからの西馬音内(にしもない)は仮設駅となってしまい、光景が一変してしまったようだ。駅のホームや駅舎、電車区の車庫などまだ健在だった頃の西馬音内駅の光景を集めてみました。

西馬音内駅の佇まい.右手に車庫、左手に駅舎がある.1964.08.05


西馬音内駅

西馬音内の駅舎とホーム.貨車が停まっているところが貨物ホーム.

ホームには湯沢からやって来たデハ7の客貨混合列車が到着したところ.
車内は乗客1人となりデハ1両で終点梺へ向かって行った.

西馬音内駅でデハ7と切り離された2軸客車.

梺から西馬音内に戻ってきた上りデハ6.乗客が少ない西馬音内~梺間は単行で走っていた.


七夕まつりと家族連れ

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雄勝線 西馬音内の駅舎と家族連れ  拡大
オリンパスペンのネガで西馬音内の駅舎が写ったコマの次に七夕まつりが写っていて、てっきり湯沢の七夕と思っていたら、それは仙台の七夕であった。西馬音内の駅舎に写っていた家族連れを見ていると、仙台七夕まつりに写った当時の家族連れを見てみたくなりました。

1964(昭和39)年、日本は東京オリンピック開催、東海道新幹線開業に湧いた年であった。大卒初任給2万1千円、男性の平均寿命67.7才、エアコン普及率1.7%、白黒テレビ普及率87.8%、ハガキ5円等、こんな時代の七夕まつりの光景を見ると一族連れだって出掛ける家族が多かったようで、幼児は母親か祖母に背負われ、その周りに手をつないだ子供達が多いこと。この1964年あたりを境に日本の社会は何もかもが大きく変貌して行った。

仙台「七夕まつり」の中心部「中央通名掛丁」入口.仙台市電 元寺小路  1964.08.08

東一番丁(仙台郵便局前)

仙台「七夕まつり」の家族連れ

秩父鉄道の電車

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昨年9月にアップしました「熊谷駅の古典電機」で秩父鉄道の電機を紹介したことがありますが、同じ場所で撮った秩父鉄道の電車を集めてみました。

秩父鉄道で1988年に消滅した100形電車と云えば。正面中央窓が幅広でHゴム3枚窓の何の変哲もない電車であったが、写真を撮った1965年の100形をよく見るとマルーンに白帯の旧カラー車が居て、両運転台のモハがクハニ(ユ)と組んだ旧カラー車の編成が走っていた。また片運転台に改造された100形の方は新カラーになっていて、後年さらに改造され当時の美しい原形とは別物のようになってしまった。

秩父鉄道100形一族とは(Wikiより)
木造車の鋼体化改造車として日本車輌で製造された。最大時、デハ100形デハ101~113、クハ60形クハ61~67、クハニ20形クハニ21~30、クハユ30形クハユ31の31輌が在籍したが、1988年までに全車両が廃車になった。

100形の編成(クハ60形+デハ100形+クハ60形+デハ100形) 熊谷 1965.05.30 クリック拡大
旧カラー車と新カラー車の編成があり写真は新カラー車で改造後.

旧カラー車のデハ100形(112)両運転台は美しい姿をしていた. 熊谷
マルーンに白帯の昭和30年代のカラーリングが良かった.
旧カラー車のデハ100形+クハニ20形

クハ60形(67) 熊谷

500系 1992年全車廃車 熊谷

旧カラー車100形の編成はクハニや両運モハの編成で中々の魅力だ.
2両目のモハは弘前電鉄へ行ったデハ52(弘前モハ106)と同形のようだ.

上の後追い
グリーンに塗られた元秩父の弘前電鉄モハ106.秩父100形より全長が短い

国鉄八高線と並走するクハニ先頭の100形の編成 寄居

秩父鉄道は国鉄八高線をオーバクロスして分かれる. 寄居


寄居界隈

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秩父鉄道.小前田-寄居  寄居の手前で国鉄八高線と並走する. 1965.05.30

秩父鉄道、国鉄八高線、東武東上線が発着する寄居駅.
この寄居駅に来たのは丹荘から出ていた上武鉄道(日本ニッケル)を訪問した時と秩父鉄道を撮りに来た2回だけであった。池袋駅で初めて乗った東上線はこれぞ東武!の凄い電車。これに乗って到着した寄居は八高線のC58や秩父鉄道の電機なども見れた楽しい駅であった。
2回目の寄居駅は熊谷駅で妻沼線気動車や秩父鉄道の古典電機などを撮った後で、寄居近辺で秩父鉄道と八高線を撮り歩いたのだが今の地図を見ても全く思い出せない。

八高線. 寄居を発車し高麗川方面へ向かうC58の貨物. 1962.12.23

東武東上線. 池袋から乗ってきたクハ246. 寄居 1962.12.23

秩父鉄道. ワフ23  寄居


八高線. 煙が昇るあたりが寄居駅か. 1965.05.30

八高線の風景.秩父鉄道と別れカーブの先に荒川の鉄橋がある. 寄居-折原

八高線  荒川を渡る. 寄居-折原

箱根登山鉄道 紫陽花の季節

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あれから5年、今年は箱根へ行ってみたいものです。

彫刻の森-小涌谷  2008.07.02

大平台-宮ノ下 2008.07.02

大平台 2008.06.17

宮ノ下 2008.07.02

小田急電鉄 成城の坂今昔

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昔、小田急線が成城から喜多見へ下る成城の坂(国分寺崖線)のところに富士見橋や不動橋が架かり、その先の道路の不動坂を下ると不動尊があった。今も不動坂と不動尊は変わらないが、成城駅の地下化、喜多見駅の高架化、複々線化で小田急線の「成城の坂」の風景はすっかり変わってしまった。50年近い昔の風景と今を比較してみました。
ところで先日地下化された下北沢駅もきっとこんな商業ビルや駅前ロータリーの風景になってしまうのでしょう。

今の成城駅西口.  2013.05.15  拡大 
昔、地上駅西側にあった踏切のところから今の成城駅を見る.
駅は地下に潜り地上に商業ビルが建ち駅前ロータリーがある風景.

橋上駅舎で木造の跨線橋があった昔の成城駅. 1964.02.11


今の不動橋から喜多見方面を見ると、昔の面影は右手の木立くらいか.2013.05.15

49年前の不動橋から喜多見方面を見る. 1964.02.25

小田急1900や1400や凸形電機が走る成城の坂 風景

背後に見える小さな橋が不動橋でその先に富士見橋が見える.

成城の坂を下るとブッシュ生い茂り野川流れる喜多見の風景

不動坂を下ったところに喜多見不動尊がある. 2013.05.15
喜多見不動尊



小田急電鉄 成城の坂(続)

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前回の「成城の坂」の風景を更に追加し、その数日後に撮った小田急の日常風景です。

左の木立の中に不動堂が建つ. 成城-喜多見 1964.02.25

前年1963年3月にデビューした特急NSE車が行く.

喜多見から成城の坂を登る. 成城-喜多見

昭和30年代に独特の景観があった国分寺崖線. 成城-喜多見 1964年2月
手前のブッシュが生い茂る平地に今は小田急喜多見検車区の施設が建つ.

2400形、特急格下げ1700形、1900形が顔を揃えた経堂駅  1964年2月
ホームの向こうに東洋映画劇場が見える映画館のまち経堂であった.

1900形、2400形、1800形が並ぶ経堂駅

経堂駅4番待避線の新宿行各停1400形.

小田急電鉄 NSE登場の頃

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新特急車NSE3100形は第1編成が1963(昭38)年1月、第2編成が2月にそれぞれ完成し、社線での試運転、各種試験測定を経た後、2編成が3月から営業開始したそうだ。
1963年2月に沿線や経堂車庫で撮ったNSEを見てみると、確かに営業開始前の「試運転」が表示されていた。この頃、NSEの登場を見に経堂車庫に駆けつけたのだが、先代SE車が登場した時のような衝撃はなく、さらに先代の特急1700形から続いた私の小田急特急への憧れはSE車で終わっていた。

デビュー前に試運転で登場したNSEの11連.祖師谷大蔵-千歳船橋 1963年2月

一面畑だらけの世田谷を新特急車が走る.祖師谷大蔵-千歳船橋

丁度この頃、黄と青の塗り分車が1600形から登場した.祖師谷大蔵-千歳船橋

1400形 祖師谷大蔵-千歳船橋

経堂車庫に登場した新特急車NSE3100形.  1963年2月

今になってみるとレトロ感溢れるデザインなんですね.

3扉化された特急格下げ1700形 経堂車庫 1963年2月

御殿場線乗入れキハ5000形  経堂車庫

1400形  経堂車庫 1962年9月

ED1040形  経堂車庫 1962年9月

ED1010形

相模鉄道の電機

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1964年の2月、小田急で雪の「成城の坂」を撮った直前に国鉄相模線橋本のC11を訪問していた。
雨模様のこの日、橋本へ向かう途中に厚木で見た相鉄の貨物列車はこんな風景で、この前年秋に相模大塚で開催された元小田急1100形見学会で見たあのイモムシのようなED10形であった。


厚木駅を出発し雨煙る中 相鉄貨物線を行くED10形   1964.02.11


厚木~相模国分間の相鉄貨物線
小田急と立体交差する国鉄相模線の厚木駅.ここから出ている相模鉄道の貨物線.

丹沢を背景に秋の厚木~相模国分間を行く   1963.10.20

相模大塚車両基地にいたED10形(12)    1963.10.20

日立電鉄 元小田急1100形

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小田急1100形は昭和22年に相模鉄道に9両が譲渡され、昭和35年には小田急→日立電鉄へ4両が譲渡されている。そして昭和39年に相模→日立へ3両、さらに54年に相模→日立へ3両が転入され、日立電鉄では元小田急1100形が計10両在籍していた。
相模鉄道での改造、日立電鉄での自社仕様改装、改番などで小田急時代との対比は大変厄介である。

写真にある元荷電のモハ1007~1009は戦後直ぐに相模鉄道へ譲渡された小田急デハ1163~1165である。荷電のドアを除けば中学生の頃に乗った小田急デハ1100形に共通する面影が元荷電によく残っている。これら日立電鉄の旧型車は1991~1997年に東京地下鉄の真っ赤な電車に全て置き換えられてしまった。

撮影: 兄  場所と撮影日は不明

日立電鉄モハ1009(元小田急)
小さな窓、前面の顔などに小田急1100形の面影がよく残ってい.

小田急荷物電車当時の両開きドアのまま就役した モハ1007~1009(元小田急)

モハ1007(元小田急)

モハ1005(元小田急)
小田急デハ1104→日立モハ1002→日立改番1005
昭和34年まで小田急を走っていた2編成4両の1両.
自社仕様改装で全く小田急1100形の面影はない。

参考 モハ12
自社仕様改装とカラーでまるで北陸鉄道のような電車.
前歴は小田急とは関係がない.

参考: RMライブラリー 第64巻 日立電鉄の75年 ネコパブリッシング発行

日立電鉄 元神中鉄道の三角電車

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相模鉄道からやってきた電車は元小田急のモハ1000形(1001~1009)と元神中鉄道(後の相模鉄道)の三角電車モハ13形4両(13~16) がいた。
写真は前面の傾斜が切妻タイプに変更された後の姿である。昭和10年汽車会社製の電気式ディーゼル車として生まれた神中鉄道キハ1001~1004がルーツで、戦後になって発電用エンジンを外し電車に改造されたそうで、大変珍奇な前歴の電車である。
昭和23年に相模鉄道から日立電鉄へ譲渡され、その後1965(昭和40)年にあの三角電車の外観は切妻タイプに改造されている。1997(平9)年に全廃となった。

撮影: 兄 撮影日不明
モハ13形(15) 鮎川.すぐ脇を常磐線が走る街外れの終着駅.

元小田急車に挟まれて使われたサハ2801(元相模サハ) 鮎川?
手前の立派な軌道は常磐線なのでしょう。

常磐線に接続する大甕駅に停車中のモハ13形.

 片側が貫通路付となっているモハ13形. 鮎川

モハ13形

ワールド工芸さんのNゲージ 日立電鉄 モハ13三角電車 (旧カラー時代)
ここまで超マニアックなものが製品化されるとは驚きました。
これが16番なら即買いたいものです。

日立電鉄 廃線1年前

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次は旧型車が一掃された後のよく知られた日立電鉄です。

2000年代は旧型車が一掃され元地下鉄銀座線2000系に統一されていた時代。この頃に何回か訪問のチャンスがありながら何故か気が進まなかったのは、初めて買ったデジカメがお粗末なもので撮る気がしなかったせいかもしれない。
廃線1年前の2004年6月、日立電鉄で母校鉄道研究会の創立50周年記念列車が走った。元地下鉄の日立電鉄2000形(2001~2010)、2200形(2211~2217)、3000形(3021~3026)が計23両在籍していた末期の日立電鉄を兄のアルバムからスキャンしてみました。

旧型電車カラーに塗り替えられた3000形3023+3025. 常陸太田 2004.06.13
「法政大学工学部鉄道研究会 創立50周年 マイロネフクラブ」
のヘッドマークをつけた臨時列車.

右 3000形3025+3023. 鮎川
ツートンカラーにするだけでかなりイメージが異なるものです.

2000形+2200形  常陸太田
1編成除くとどれもこれも真っ赤な元地下鉄電車ばかり.

久慈浜

久慈浜の車庫

久慈浜?

大甕

曇天の世田谷線

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先月、世田谷線を三軒茶屋から下高井戸に向けて撮ってみたのですが曇天でぱっとしません。
こんなありふれた風景を昔の玉電下高井戸線の雰囲気と比較してみました。
住宅や道路の一新以外は今も昔も鉄道と車(踏切)が共存する静かな住宅地の雰囲気はそれほど変わっていないようです。

西太子堂  2013.04.14

西太子堂-若林

山下からの直線が右にカーブした先に松原の駅がある.山下-松原 2013.04.14
山下-松原


下高井戸に向けて山下を出たところ
山下からの直線の線路が右へカーブするところ. 山下-松原   1962.12.07
カーブの脇にはドブ川が流れる.

現在の下高井戸駅 2013.04.14

下高井戸駅   1962.12.07

塀の向こうには京王線のダブルルーフが走っていた.下高井戸 1962.12.7

お知らせ

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気まぐれで始めたブログも3年でページビュー数(右下カウンター)が100万となりました。
月間ページビュー数は今も上昇中で、中断せずここまで続けてこられたのも皆様のお陰です。

次はダブルカウント(24H内)なしの訪問者数(右上カウンター)100万達成を目指しますが、
達成まで果たしてブログが続くかどうか?
遠い道のりですが、どうかこれからも宜しくお願い致します。

ブログ管理人 katsu



昨日のテレビ「廃線歩き旅」は駿遠線であった

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6月1日夕方6時30分~テレビ東京「ノスタルジック鉄道紀行-にっぽん廃線歩き旅2」という番組で静岡鉄道駿遠線の廃線歩きが放映されましたね。大手から袋井まで全線64.6Kmの廃線歩きは、よくある鉄道旅番組とは違って中々のもの。こんな中身の濃い番組を土曜の夕食時に流すのはもったいない。2時間半もの長い番組で注目は駿遠線だったと思います。
番組に登場した沿線の皆さんの声を聞くと、この小さな軽便に大変な懐かさと愛着を感じているようで、良き時代の想い出がたくさん詰まった軽便だったのでしょう。駿遠線の全線を途中2泊して歩きたくなってきました。

静岡鉄道駿遠線は、日本一長いと言われる軽便鉄道。(軽便鉄道とは、一般的な鉄道よりも規格が低く、コンパクトかつ低予算で建設された鉄道のこと)昭和23年、中遠鉄道(袋井~新三俣)と藤相鉄道(大手新藤枝~地頭方)がつながり、静岡鉄道駿遠線が誕生した。今回は、大手駅から袋井駅まで総延長64,6㎞の廃線跡を踏破する。スタートは大手駅。当時、貨物取扱いや通勤客が多い主要な駅だったが、現在は大型書店に姿を変えている。
(土曜スペシャル公式サイトより)



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