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Channel: 地方私鉄 1960年代の回想
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玉電大橋車庫の電車1

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前回の玉電風景 大橋」で大橋車庫を取上げましたが、1962年に大橋車庫で撮った車両写真を整理してみました。

1962年12月に車庫を訪問した目的は玉川電気鉄道時代からの古参電車デハ30形、40形を撮ることであった。車庫には西日を浴びて様々な車両が居たが、200形タルゴは無視してしまったのか全く写っていなかった。車両がひしめき合った車庫で車両全景を撮るのは容易ではなかった。
車両写真のことより車庫の佇まいを沢山撮っておけば50年後の今楽しめたのに、まだ車両しか頭にない頃で残念なことをしてしまった。ところで、この大橋車庫のネガはビネガーシンドロームの発生が最もひどい1本で何とかスキャンしたが、数年後のネガは更にひどい状況となって、とてもスキャンどころではないでしょう。

30形(31)   60形(65)  40形(50)が顔を揃えた大橋車庫 1962.12.07

最も古いデハ30形(31)

デハ30形(33)

デハ30形(33)

33の車内

デハ40形(45)

デハ40形(49)

デハ40形(52) 40形でこれだけ二段上昇窓でないのは元35→52へ改番による.


玉電大橋車庫の電車2

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大橋車庫で建屋が写っている画像二点は以前使用済で、今回 拡大画像にしてみました。

大橋車庫の全体.1962.12.07
左に2連の第一車庫、中央に車輪工場、右手に2連の第二車庫?が見える.

2連の第一車庫とその脇を留置線が奥へ延びる.

70形(71) 両端ドアの2枚引き戸が改造前の姿. 
第一車庫を抜けた奥の留置線.

70形(72) 車輪工場の前.

70形(73)  第一車庫の左手にはカマボコ屋根の建屋が連なる.

参考: 砧線の60形 二子玉川園 1962年12月
外観で70形とは窓数や両端の引き戸周りが異なる.

80形(106)   右手にカマボコ屋根が見える第一車庫の裏側.

80形(93) 車輪工場の脇.

第二車庫の電車の背景に見える変電所?の建屋.

この車庫の跡地が大橋ジャクションとなる→玉電風景 大橋の今と昔

井の頭線 紫陽花

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京王電鉄井の頭線 浜田山-西永福  2013.06.08

井の頭線の沿線が紫陽花のシーズンとなった。
数年前までは2枚窓レインボーカラー車3000系が盛んにやってきたが2011年12月で全廃となり、今ではすっかり新型に統一されている。
1962年にオールステンレス車体のレインボーカラー車3000系が登場し、それまでの京王グリーン車デハ1000形他をレインボーカラー車に置き換えていたが、一世代前の新旧入替え時代の「井の頭線風景」を並べてみました。レインボーカラー車が登場して50年、あれから沿線もカラフルになったものです。

京王グリーン車デハ1800形(1804)  富士見ヶ丘-高井戸 1964.07.02

京王グリーン車デハ1000形(1001)

1962年に登場したレインボーカラー車3000系(3702)   1964.07.02

3000系(3704)

3000系(3701)  富士見ヶ丘-高井戸
富士見ヶ丘を発車した渋谷行.高井戸の手前で線路は左にカーブしその先に団地が見える.

井の頭公園

井の頭線 井の頭公園

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井の頭公園駅を出て鉄橋を渡るあたりの木立ちを今昔比較してみました。
1960年代は殺風景だった光景も今や緑豊かになったものです。

井の頭公園 1967年3月
井の頭公園 1967年3月
井の頭公園 2011.06.13
神田川上流側から見る.

井の頭公園 2011.06.13
神田川下流側から井の頭公園方面を見る.

国鉄横浜線 町田風景

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1964年夏に井の頭線レインボーカラー車を撮った頃、横浜線の町田風景は
原町田から淵野辺方面へ向かうとのどかで自然豊かな風景が拡がっていた。

小田急と交差し森野住宅の横を八王子へ向かう.原町田-淵野辺 1964年6月

今も面影残す県道52号線の道路橋

橋の先の淵野辺方面は宅地開発がされてなく一面に自然が拡がる.

桑畑風景をC58の貨物列車がのんびりと走る. 原町田-淵野辺

東京の郊外電車

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昔、東京で「郊外電車」と言えば渋谷から吉祥寺へ向かう帝都電鉄(現井の頭線)モハ100形200形がその代表的な電車だったようで、幼い頃に絵本か何かで見たヒサシ付運転席窓とオデコライトの郊外電車が強く印象に残っている。
井の頭線の富士見ヶ丘で撮ったこの1枚。無残な2つ目ライトで全く関心が無かったが1403の経歴を調べてみるとこれこそは帝都電鉄モハ100形のなれの果てのようである。ライトを1っ目に戻し運転席窓ヒサシを付けたアンチクライマー付の前パンタ車を想像すると、何かで見たあの郊外電車の姿が目に浮かぶ。

デハ1403 富士見ヶ丘  1964年8月
永福町車庫の空襲で被災しなかったデハ1400・1450形3両が2代目1401~1403に改番されたそうだ.
その後の2灯化、ヒサシ撤去などの改造で本来の姿を失った.

デハ1403の編成に組まれたサハ1303も過去の遍歴が大変に複雑.
元祖は帝都電鉄モハ200形のようだが.

サハ1562

富士見ヶ丘の風景. 1964年8月
検車区が永福町から富士見ヶ丘へ移転される前で留置線があった.


小田急デユニ1002+デニ1101. 1962年9月  喜多見-成城
1960年にデユニ1002はクハ1551の車体に乗せ換えられた.
荷電となっても小田急青電デハ1501+クハ1551(旧帝都所属車)の帝都スタイルの面影を前面に残していた.

新潟交通 素晴らしき世界

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前回の新潟交通ではカラーを中心にアップしましたが、人気の鉄道のせいかとてもよくアクセスされています。今回はモノクロ中心でアップしてみます。
新潟交通は初日に雨に降られ、佐渡島観光を挟んで翌日また出直したのでした。新潟交通の素晴らしき世界を初日からネガを追ってみます。まずは魅力溢れる電車庫の風景から。

東関屋の電車庫内部. 1968.8.17
地方私鉄の電車庫内はどこを見ても楽しい.動力系が分解され部品が
拡げられていてオーバホールした直流電動機の電機子などが見える.

足回りを外された小型電車モハ11形が定期検査中.

東関屋の車庫には元小田急や生え抜きのモワが並ぶ.

新潟交通 雨の県庁前

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初日、国鉄新潟駅から新潟交通始発駅の県庁前に到着するとあいにくの雨であった。
ここから全線乗車する予定が雨で嫌気をさし、撮影を中止し新潟港から佐渡島観光へと向かった。
翌日にまた県庁前に来てみるとまたしても雨。小雨の中を併用軌道を歩き始めた。

雨の県庁前 1968.08.16

雨の県庁前
モハ16(元国電旧伊那)+クハ36(初代モハ16)

新潟を出港し佐渡島の両津港に到着. 1968.08.16

佐渡金山(鉱山)の遺構(北沢浮遊選鉱場跡)を見学.

翌日もまた雨の県庁前 1968.08.17

併用軌道を発車した電車. 県庁前


新潟交通 併用軌道を行く

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県庁前-東関屋 1968.08.17

新潟交通のハイライトは、県庁前を出て東関屋手前までの狭い道路上を走る併用軌道区間にあった。
併用軌道は県庁前からしばらく国鉄越後線と並行してから越後線と立体交差する。その先で信濃川の土手に接近しそこに東関屋の駅があった。鉄道線の電車が道路上を走る風景は道路沿いの古い商店街と相俟ってまさに「昭和の街並」であった。

朝の狭い道路は新潟交通の通勤・通学バスで一杯で次々にやって来るのには驚いた.
併用軌道は車を避けて撮るのが大変に疲れるもので、それに較べると専用軌道は如何に楽なことか.
通勤時間にカメラと大きなカバンぶら下げて大通りを歩く二人連れは滑稽な姿だったろう.

雨上がりの通りの向こうからやって来る電車.

元小田急のクハが道路上を行く.

国鉄越後線の列車と交差する.

道路から離れて民家の裏手の専用軌道を5枚窓電車がやってきた.

線路はまた併用軌道に戻り東関屋県庁前へ向かう.
やって来る電車がバラエティに富んでいて飽きる事がない.

信濃川沿いに車庫がある東関屋駅に到着する.

新潟交通・東関屋 最後の田舎電車

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新潟交通の車両を調べてみると、訪問した1968(昭和43)年はそれまでの車両が続々更新されて姿を変えつつあった時代だったようで、開業からの小型車モハ11、12、13、14、15、5両の内12、15は確認できたが、他の3両は既に日車標準型の車体に更新されていた。
そしてこの日に見た元東武5枚窓、生え抜き小型車モハ12、15等はこの後すぐに日車標準型や元小田急1400の車体に生まれ変わって行った。更新済みであった元富山港線クハを除けば旧型残党がほぼ揃っていた最後の時代であったという事になる。

昭和40年代に入ってからの地方私鉄(電鉄)で車両が大きく変化したのは、都落ち電車との入替えが盛んに行われたためで、昭和30年代までよく見掛けた個性ある古参車両は次々と消えて行った。その点新潟交通は1985年の小田急2220形入線までは、旧型車の車体更新と元小田急車の現地仕様化が主で比較的独自性を保ってきた鉄道と言えるのでしょう。

開業以来の電動貨車モワ51. 東関屋 1968.08.17

モハ16(元伊那電) 東関屋の駅を前回とは反対側から見る.

東関屋の駅と古参電車クハ40

昭和30年代の雰囲気が漂うクハ40.モハ17形(元東武デハ2形)2両の内の1両.


モハ17(元東武デハ2形)がクハ37(元国鉄キハ41000形)を牽く素晴らしい編成.
元東武5枚窓は翌年に車体更新される.

クハ33(元神中の気動車)と小型電車モハ12 右手に信濃川が見える.

車体更新されたモハ11がクハ40を牽く.

開業からの小型電車モハ12.この半年後に車体更新された.

開業からのクハ31

元神中のクハ33

元小田急1400の現地仕様化 クハ45

お知らせ

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明日6月24日より不在になりますので
ブログ更新を一週間ほどお休みいたします。
 katsu




日光軌道線 山岳路面電車1

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本日からブログを再開します。

浅草発8:10の「快速」に乗ると2時間ほどで東武日光に到着する. 2013.06.09

先月始めに日光(観光)へ行ってから、50年前にここを走っていた東武日光軌道線の事が気になってきました。

1963(昭和38)年の7月、友の会の東武日光軌道線の見学会があり、鉄仲間と渋谷で朝6時集合であったが私は朝寝坊で遅れてしまい浅草まで追いかけたが日光行が出た後であった。こんな撮り逃がしてしまった鉄道の一つが日光軌道線であった。この時参加した青蛙さんから頂戴した乗車券は今も大切にとってある。その後 日光を訪問するチャンスはいくらでもあったのに一度も訪問することなく、5年後の1968(昭和43)年2月に日光軌道線は全線営業廃止してしまった。

東武日光駅前の日光軌道線. 1963.07.14  青蛙さん撮影
駅前に並ぶのは観光ハイヤーか、こんな驚きのスタイルの車が走っていた昭和38年.
50年前の撮影会の日、朝寝坊していなければ私もこの光景を撮ることができたのに.

現在の東武日光駅前. 2013.06.09
この敷石あたりに軌道線のりばがあったのでしょう.

東武博物館に保存された日光軌道線200形連接車. 2008.04.08

ありし日の日光軌道線を鉄仲間の青蛙さんが撮った写真で纏めてみます。

山岳路面電車2 日光駅前から神橋へ

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日光軌道線の馬返行き電車は日光駅前を出発すると大通りを次の神橋へ向かって進みます。

特記なき撮影日は1963.07.14     写真は全て青蛙さん撮影
東武日光駅前. 馬返し行き電車は左へ進み大通りへ出る. 拡大
電柱に電車のりばの表示があり、この位置は降車用か?

東武日光駅の先にある国鉄日光駅.
この翌年1964年に東武駅前-国鉄駅前間のループ線は運転中止されてしまった.

2月の素晴らしい山並みを見て日光駅前から神橋まで大通りを進む.1968年2月 


神橋手前のSカーブを馬返へ向かう.1968年2月

日光金谷ホテルの前を通って神橋横の鉄橋を渡る.  

神橋と太郎杉の日光軌道線のハイライトシーン.

神橋横の鉄橋を渡って街中の大通りへ出てきた貨物列車.
こんな珍しい光景を見られたのが日光軌道線の魅力でしょうね.

山岳路面電車3 神橋から田母沢へ 

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国鉄の駅前から直ぐにこう配につぐ勾配で、終点の馬返まで実に305mを登っている。線路の最急こう配は60‰、50‰前後の勾配が随所にあって、全体が勾配から成り立っていることがわかる。それは2000m級の山々の山腹に置かれた山の町の電車といえる。標高838mの馬返終点は、我が国の路面電車としては最高点であるはずだ。(鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第4分冊より)

特記なき撮影日は1963.07.14  昔の写真は全て青蛙さん撮影
下河原停留所(交換可能) 1968年2月

「西参道通り」と表示された通りを行く.

花巻電鉄軌道線のような雰囲気漂う停留所.商店の看板に「電車のりば」の文字が見える.
田母沢の手前の西参道前と推定される.

田母沢御用邸記念公園 日光真光教会の前を日光駅へ向かう

坂を登ったところに田母沢停留所(交換可能)が. 右手が御用邸記念公園

田母沢停留所があったところの今の風景.  2013年6月

停留所の先で田母沢川を渡る橋梁の遺構.

山岳路面電車4 登り詰めたところが馬返駅

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特記なき撮影日は1963.07.14   昔の写真は全て青蛙さん撮影
荒沢橋梁を渡るED611

道路端の軌道をどこまでも勾配を登る.

電車庫前、清滝を過ぎ急カーブを曲がると国道120号線と並走する.

大谷川沿いに国道120号線を進む.


馬返の直前で軌道は国道120号線をクロスして山側から川側に出る.

大谷川と国道に挟まれた軌道は直ぐ馬返に着く.
背後に馬返-明智平のケーブルカーが見える.

日光駅前から高低差305mを登って馬返駅に到着する.
中禅寺湖へ向かう乗客はここでケーブルカーに乗換え明智平に登り更にバスに乗換えていた。この後の第二いろは坂の完成(昭和40年)とマイカーブーム到来で、日光軌道線とケーブルカーの連携輸送は役目を終え、馬返-明智平ケーブルカーは軌道線廃止2年後の1970(昭45)年に廃止された。

日光軌道線が登って来た道を明智平から見る.2013年6月
昔、下の馬返からこの明智平までケーブルカーが登っていた。軌道線が走っていた大谷川沿いの国道が見え、左にカーブした先に精銅所があった古河電工が見える。


山岳路面電車5 清滝と電車庫前

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特記なき撮影日は1963.07.14  写真は全て青蛙さん撮影

清滝の駅は古河電工工場に隣接していて、ここから工場へ引込線が何本か分岐していた.

土に埋もれた工場引込線廃線跡の一つ.

電車庫前駅の脇にあった広々とした清滝電車区.
1959年(昭和34年)8月に日光車両区(車庫)がここへ移転されて、
東武日光駅前の旧車庫は電車留置線として使われていた.

予備機として残された山岳電機ED602(元国鉄アプト線用電機). 清滝電車区
新鋭電機ED611が入線するまで、列車の最後部に連結されて古河電工工場まで貨車を押し上げていた.運転台が馬返側のみのため、帰りは機械室側を先頭にして街中を下っている写真は驚きの光景であった.

ボギー客車を牽いて活躍した旧型車の主力テ10形(12)
昭和28~29年の新型車登場によりそれまでの旧型はテ12を残して全てが消えた.

電車庫前を発車し電車区ヤードの横を東武日光へ向かう山岳電機ED611(昭和30年東洋工機製)

東武日光駅に隣接していた留置線(元車庫)に憩う電車.

お別れ電車の東武日光駅前. 1968年2月
左の線路が貨物線で国鉄日光駅構内へと繋がっている。電車が居る線路がループ線で国鉄日光駅前から電車はこの「電車のりば」に出てくる。右の建屋が東武日光営業所で、建屋の向こうが留置線(元車庫)となるのでしょう。1968年2月23、24日の2日間花電車が運転されて東武日光軌道線は消えた。  

廃線の式典

昭和40年の江ノ電風景

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前回アップした1963(昭和38)年4月から2年後の1965(昭和40)年3月、鎌倉高校前から稲村ヶ崎へ向かって海岸沿いを走る江ノ電を撮り歩いてみました。

ちょうどマイカー普及の時代が始まった頃で海岸沿いをスポーツカーが快適に飛ばしているのを見掛けると、歩いて電車を追いかけているのがミジメになったものである。海岸沿いを走るこの辺りは江ノ電風景も最高潮であったが、海が見える沿線はどんどん開発されて派手なものが目につき次第に俗っぽくなってきたような気がした。沿線開発が急速に進んでいた時代であったのだろう。

鎌倉高校前-七里ヶ浜 1965.03.23
海沿いの道路にはブルーバード、大衆車パブリカなどが走っていた.マイカー普及の時代が始まった頃で、海沿いをドライブしているのは大衆車だけでなくスポーツカーもよく見掛けた.これからはマイカーを使ったレジャーが主となり若者達はマイカーに取りつかれる時代が始まる.

海沿いの道路を歩いている人は少なかった.鎌倉高校前-七里ヶ浜.

海岸通りから離れ住宅街を行く.鎌倉高校前-七里ヶ浜

鎌倉高校前から七里ヶ浜へ到着する.

七里ヶ浜を出た急カーブを曲がってまた海沿いに出る. 七里ヶ浜-稲村ヶ崎
2年前には崖を切り崩して開発中だった荒涼とした風景も整備されてきた.

七里ヶ浜ホテルの脇を行く.七里ヶ浜-稲村ヶ崎

草軽電鉄の模型

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先日、大学鉄研OB会のM先輩が製作された草軽電鉄の模型を45年ぶりに拝見。アメリカン3フィーターの10.5mmゲージの部品を使った尺度1/70で、昭和38年頃の製作だそうです。

9mmゲージがまだ無かった頃の軽便模型はナローの部品などはなく16番16.5mmゲージの部品を加工して使ったりで、アメリカンナロー10.5mmゲージの小さな台車や車輪を使うのはとても贅沢に感じたものであった。草軽の1/70ナローを手に取るとやはり1/87ナローとはボリューム感がかなり違う。

草軽デキ12型+ホハ30型とボギー無蓋貨車

1/70草軽列車と1/87頸城ホハ2

1/70草軽ホハ30型と1/87頸城ホハ2

1951年 映画「カルメン故郷に帰る」に登場した草軽ホハ30型. テレビ放映画面

草軽電鉄の現役時代1

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先日の大学鉄研OB会のM先輩との草軽模型談議で拝借してきたのが草軽電鉄現役時代の写真です。
私にとって手が出なかった草軽電鉄は保存車両デキや車両竣功図、書籍を眺めるのが精一杯でした。M先輩は全線営業していた1958年と、吾妻川橋梁流出により上州三原で分断後の1960年と1961年に訪問し撮影したようです。

                             写真は全て法大鉄研OB会のM先輩が撮影
上州三原駅. 1961年
この先の吾妻川手前で線路は行止まりとなっている.
1959(昭和34)年の台風により吾妻川橋梁流出のためこの駅で分断された.新軽井沢~嬬恋間が先に廃線となった後、残された上州三原~草津温泉間は写真の翌年春(1962年2月)に廃線となった.


主力の客車ホハ30形  上州三原
廃線後、駿遠線へ払い下げられて改装されたのをよく見掛けた.

ホハ30形の車風景 1958年
草軽に多かった片側クロスシート.顔を近づけて会話ができるのが良いが、狭い車内をロングシートの客の膝を避けながら歩くのは大変であったろう.車体の内幅は1950mm.

草津温泉の2駅手前の草津前口駅で硫黄の積込みをしている. 1958年
ここから新軽井沢まで運び国鉄貨車に積み替えていた.

デキの特殊パンタは調整が多かったのだろうか.上州三原 1961年

草軽電鉄の現役時代2

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上州三原駅  1961年

上州三原駅構内に新設された車庫兼工場.

上州三原の車庫兼工場
転がっているプレーン車輪はボギー貨車(径610mm)のものでしょう.
草軽のボギー貨車は軽便としては最大クラスの巨大アーチバーを履いていた.

無蓋車とホハ30を牽く草軽の代表的な編成. 嬬恋?

この線路配置から国境平駅か?
全ての駅の構内図と照合すると国境平駅から二度上方面を見た線路配置と一致する.


鶴溜

新軽井沢行き. 鶴溜  1960.3.30

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