素晴らしい奥山線谷駅のことは過去に何回か紹介してきましたが、谷駅の一帯は絶滅した「谷のギフチョウ」が舞う里山であった事をつい先日に知って、谷のことを再び取上げてみます。
オリンパスペで撮った軽便風景3
谷駅で乗降する乗客は殆どいなかったようで客がいなければ列車は通過してしまう。こんな駅でたまたま一人の御婦人が列車を待っていたのがこの写真で、駅の下の畑には水車小屋が見える。この時は春、もしかしたらギフチョウが舞っていたのかも知れない。
Citrina通信 というレポートによると「谷のギフチョウ」がこの谷に生息していたそうである。谷駅付近にはギフチョウの幼虫が食べるヒメカンアオイが一面に生え、蝶が蜜吸するカタクリ、リンドウ、ショウジョウバカマなどが春の野を飾った。昭和30年代中頃には春の女神ギフチョウの姿は消えた。(Citrina通信より)
谷駅から金指にかけて奥山線は未舗装砂利道と並走するため沿線は猛烈なホコリまみれの世界であった。ところが谷駅の一帯は道路から離れていて道路のホコリの被害は少なかったようで、里山に生息するギフチョウにとって谷は理想の地であったのでしょう。
ギフチョウの幼虫が食べるヒメカンアオイは今でも谷の廃線跡に生えているのを一昨年研究家により撮影されている。そして昨年、浜松の小栗様から送って戴いた谷の廃線跡がこの写真である。
写真の谷は高度成長期の道路整備とマイカー普及の直前で、谷には水車小屋と数軒の民家があるだけで自然豊かな台地と畑からなる里山であった。戦後日本の原風景を残していて私にとってこの頃の民家風景などは年々感じ方が変化して来ている。
最近この時代の民家などがやたら愛おしくなるのは、薄汚く見えた昭和30年代の風景には近代化で失われた美しい自然があったせいなのか。この里山の民家にはギフチョウが舞う自然豊かな生活があったことが想像される。
昭和39年に廃線となった奥山線は「谷のギフチョウ」と伴に消滅してしまった。 昭和30年代後半は高度成長期で貴重なものが次々と失われて行った時代であった。あの里山は今や宅地開発、変電所設備で激変してしまったが、最後に残されたこの谷の廃線跡は鉄道遺産、自然遺産として大切に保存してもらいたいものです。
オリンパスペで撮った軽便風景3
三方ヶ原台地
奥山線の祝田から都田口まで三方ヶ原台地の登る坂の途中にあった谷駅は、蒸機時代には給水塔があってこの坂にまつわる様々なエピソードを何かで読んだことがある。ここを訪問した昭和30年代後半の谷駅の周りは自然豊かな里山で沿線でも格別な一角であった。
谷駅で乗降する乗客は殆どいなかったようで客がいなければ列車は通過してしまう。こんな駅でたまたま一人の御婦人が列車を待っていたのがこの写真で、駅の下の畑には水車小屋が見える。この時は春、もしかしたらギフチョウが舞っていたのかも知れない。
ギフチョウのラベル '38 Tani Inasa
谷駅から金指にかけて奥山線は未舗装砂利道と並走するため沿線は猛烈なホコリまみれの世界であった。ところが谷駅の一帯は道路から離れていて道路のホコリの被害は少なかったようで、里山に生息するギフチョウにとって谷は理想の地であったのでしょう。
ギフチョウの幼虫が食べるヒメカンアオイは今でも谷の廃線跡に生えているのを一昨年研究家により撮影されている。そして昨年、浜松の小栗様から送って戴いた谷の廃線跡がこの写真である。
現在の廃線跡 2013年9月 撮影: 浜松在住 小栗様
うっそうとした茂みにヒメカンアオイが今も生えているのだろう。
最近この時代の民家などがやたら愛おしくなるのは、薄汚く見えた昭和30年代の風景には近代化で失われた美しい自然があったせいなのか。この里山の民家にはギフチョウが舞う自然豊かな生活があったことが想像される。
昭和39年に廃線となった奥山線は「谷のギフチョウ」と伴に消滅してしまった。 昭和30年代後半は高度成長期で貴重なものが次々と失われて行った時代であった。あの里山は今や宅地開発、変電所設備で激変してしまったが、最後に残されたこの谷の廃線跡は鉄道遺産、自然遺産として大切に保存してもらいたいものです。
谷駅の廃線跡と茂み. 2000年5月